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芭蕉・逸話

2020.12.09 07:05

https://www.okunohosomichi.jp/history.html 【松尾芭蕉 所縁の宿 - 奥の細道 - 群馬県 梨木温泉】 

https://youkosotakasaki.com/%E4%BF%B3%E8%AB%A7%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%8A%AD%E8%95%89%E3%81%95%E3%82%93%E4%BA%BA%E6%B0%97%E3%81%AF%E3%81%99%E3%81%94%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%81%E3%80%8C%E8%8A%AD%E8%95%89%E5%8F%A5/ 【俳諧王国の芭蕉さん人気はすごかった!「芭蕉句碑」】 より

石原町の清水寺に登る石段のふもとにある碑に「観音」という言葉をみつけたのん。

よく見てみると高崎市指定重要文化財芭蕉花の句碑「観音の 甍(いらか)みやりつ はなの雲」と書いてあるんだ。

『観音の方角に目をやると、一面雲と見まがうばかりの桜が咲いている』みたいな意味があるらしいのん。

そういえば、今まで僕が高崎の町を飛び回っていた時、他にも「芭蕉の句碑」なるものが幾つかあったような…

もしかしたら沢山あるのかな?調べてみちゃった。

すごい事がわかったのん!

松尾芭蕉といえば江戸時代に伊賀に生まれた俳諧師で、江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がとーっても有名だよね。

いろんなところを旅していた芭蕉、でも実は上州には訪れたことがないらしいのん。

そんな群馬県なんだけど、芭蕉関係の碑の数がなんと全国第2位で200基以上もあるんだって!

そして高崎にも26もの芭蕉句碑があるんだよ!

これだけの句碑の数があるのは、上州俳壇(俳人仲間の世界)は養蚕を軸とした産業の盛り上がりと相まって、18世紀から19世紀にかけて関東有数の俳諧王国を築いていたらしいんだ。

だから芭蕉が一度も訪れたことのない地にもかかわらず、これだけの句碑があるんだね。

上州の俳諧文化の広がりの凄さを感じるのん。

みんなも知っている有名な句、「夏草や兵どもが夢の跡」は箕郷町の箕輪城跡に、

「古池や蛙飛び込む水の音」は倉渕町の全透院境内にあったのん。

高崎には他にも沢山の「芭蕉の句碑」があるよ。

よーし、のんのんももっと探してみよーっと!

「から風に 乗ってのんのん ばしょ(芭蕉)探し」なんちゃって‼

参照:高崎の句碑/金井勝太郎著 ・  芭蕉の句碑を訪ねて/群馬県中部伊勢崎行政県税事務所(上毛新聞タカタイ 2017年12月15日掲載内容に加筆修正)


https://ameblo.jp/shisyun/entry-11003134889.html  【松尾芭蕉と晩年の地】より

行夏を合う身も侍らず推身なし

また早い朝。6時前には高岡駅を出発、金沢へ向かうが、ホームにいたら、寝台列車の日本海が先に入ってきた。一瞬、衝動に駆られるが、風鈴の図に踏みとどまり、次の普通電車に乗り込む。

途中、車窓から見えた景色。石動駅。倶利伽羅駅。そして、長いトンネル。その間に見えた山の向こうには、おそらく倶利伽羅峠が。

義仲の寝覚の山か月悲し 芭蕉 

源平倶利伽羅合戦。木曽義仲が戦勝を祈願した埴生八幡宮。平氏の軍が本陣を構えたとされるのは猿ヶ馬場で、この句の碑があるらしい。しかし、この句は、「奥の細道」に入っている句ではない。

ただ、芭蕉は木曾義仲ファンであるし、これから訪れる地に大きく関係する。ただ、芭蕉が義仲以上に心寄せていた西行、実は義仲を嫌っておった。

木曾人は海のいかりをしづめかねて 死出の山にも入りにけるかな 西行

木曾義仲の討死を冷やかに詠んだこの西行の歌を芭蕉は知らない。西行ファンたらしめた「山家集」には、この句が入ってないのだ。入っているのは「聞書集」だが、発見されたのは昭和のはじめ。この義仲嫌いの西行の歌を芭蕉は知らない。まあ、よくある話だが、三角関係?

勝手な解釈だが、西行は野蛮人に見えた木曾率いる源氏よりも奥ゆかしき出の平家のが好きだったのではないか。そういうことからすれば、芭蕉は、そうした源平というよりも、源氏の中で冷血に身内をも切り刻んで熨し上がった頼朝を嫌いながら、情が熱きゆえに利用された義経や木曾義仲に同情したに違いない。

 うん、そうだ、としよう。

いかる海めざむる山も夏の夢 志踳

おいおい、そんなに時隔てて無情な観客面、涼しい顔でよいのか、しばし自らを叱咤してみる。

そんな私を列車は、無謀にも金沢よりも先の、むすびの地よりもさらに先の、終焉へと放り投げんとする。そうして金沢、福井。福井での停車時間の長いこと。放り投げておいて、今度は待ちぐされかな。痺れを切らす頃、福井を離れ、敦賀の駅に立ち寄れば「おお、ご無沙汰じゃのう」と出迎えたのは都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という人。ヤマトとか999とか松本零士とは関係がない。朝鮮半島にあった伽羅国の皇子で、かつて崇神天皇に仕えるためやってきたというのだが、あいにく崇神天皇が亡くなった直後で、次の垂仁天皇に3年ほど仕えて朝鮮半島に帰ったとのこと。

今回は、私に仕えんと待っておったのだろうか。いやいや、また、お帰りなされ。ここ任那の国に用があって来たのではなく、ここから湖西線で、さらに大津へ行くのだ、私は。そして、ここでの小用を足すために、小便小僧には挨拶をしておいた。

湖西線沿線には訪れた過去はあるが、湖西線そのものをひた走るのは初めてである。堅田ってどこ? 浮御堂は見えるんけ。 

鎖あけて月さし入れよ浮み堂 芭蕉

我が浮き身解かれし鎖月の錨 志踳

結局、我が身は流れ流れて山科から石山へ。石山駅前のロータリーに出て飛び込んできた風景に驚く。

「ここ、見覚えがある。以前、来たような気がする」まさかである。

本当に来たのだろうか。来る理由もない。来るはずもない。なんだろう。仕方がない、デジャヴュだと思おう。

石山駅から京阪に乗り換える。いやいや電車ではなく、バスのほうだ。ちょうど、芭蕉が出迎えに来てくれていた。その芭蕉は、東海道を旅した芭蕉であった。

おいおい、東海道は芭蕉にとって旅をする道ではなかったと思うぞ。いくつかの旅の途中で何度も行ったり来たりせねばならなかった道として東海道があったのだ、と思う。行ってみれば、ある意味、通勤快速のようなものかな。

 ただ、芭蕉は、この大津がいたく気に入ったようで、今から行く幻住庵に暫く滞在し、ここで過ごした半年近くを「幻住庵記」に記している。奥の細道の旅も終えての晩年のことである。

さあ、そんな幻住庵に行こう。そこは国分団地の近く、近津尾神社の中にある。誰もいぬかと思えば、ちょうど散策路の草木を手入れされてる翁が見えた。

「よう、おいでなすった。ゆっくりご覧なってくだされ」そう言いながら、庵の方に向かわれた。私は、その庵の方にカメラを向けたのだが、庵の上がり間に彼はちゃっかりと腰を下ろした。そうして、こちらを向いておられる。まさにポーズをとっているようにしか思えない。自分もフレームに納めてくれな、そう言っているような。

まあ、いいか。パシャリ。そうして庵に近づけば、「上がってて見てってな」

「えっ、上がってよいんですか」「どうぞ、どうぞ」

 まさか、彼も芭蕉の生まれ変わりか。うし、鎌かけてみるか。そして、これまで訪れた市振や高岡の話をし、その後、名古屋に戻ろうとしたら高山線が大雨で止まったので、もう一泊し、思い立って湖西線で、ここ大津に来た、そんな旨を語った。ところが、彼は「湖西線も風が吹くと、よく止まるよ」と、芭蕉縁の地のことなど一言も触れない。こりゃあ、翁と言えども、芭蕉翁でなく、ただの爺だな、そう思った。

「せせらぎの方、行ってみます」

「えっ、ああ、とくとくの清水じゃな。足もとが滑りやすいので気をつけてな」

そうして、庵から立ち去ろうとしたら、翁も付いて来る。えっ、どこまで。いいよ、一人で行くから。

あちこちに芭蕉の句があるのに気づいたので「俳句があちこちにありますね」

「ああ、近くの小学生が書いてくれたもんだからね」と。違う、芭蕉の句のことなのに。そか、彼は、あちこちの枝にぶら下がっている短冊に書かれた句の話をしているのだ。確かに、言っていることには間違いはない。

入り口にあった「幻住庵記」の写しの碑のことを聞いてみよか。と思ったが、すぐやめた。もとにいた散策路の途中で彼はまた、草木の手入れを始めたからだ。さっさと立ち去ろう。

とくとくの清水で、芭蕉は水を汲み、米を炊いたそうな。今でも芭蕉と同じように、ここで住めそうだな。いいな、ここ。住むか。ん、まさか、彼、住んでるんじゃないよな。まさか。

独り尼藁屋すげなし白つつじ 芭蕉    ひとつ家に独り尼なら水芭蕉 志踳

別に芭蕉に遊女と独り尼との差別を責めているわけではないが、どうも女性に対して現代の爺と同じような偏見を持っておられたのかな、そうも思う。多くの男を知っていようが、男を断っていようが、その心の奥底は分からぬではないか。

まあ、なにはともあれ、ごめんね。似てると責めたくなる、それが何故か分からぬが、人の道理よ。心情よ。

だいたい、分からぬでもないが、でも、西行よりも義仲と背中合わせでありたいと、この世に訴求して去った真意が知りたかったのに。訪れてはみたが、よく分からない。

石山から、たった一駅。膳所から歩いてすぐの義仲寺。名の通り、ここに木曾義仲は眠る。そして、その横に、芭蕉は永遠の眠りに着いたのだ。本当に義仲が最愛の友だったのか。

ここ義仲寺は、拝観料を取るだけあって、いろいろや要素がテンコ盛りである。まずは、芭蕉よりも、義仲自身。平家討伐の兵を挙げて都に入りながら、帰りには、同じ輩のはずの、あの源頼朝軍(なんと、義仲討伐を目指したのは源範頼・義経の軍勢なのだ。頼朝の策略は義経の手も汚した)に追われて粟津の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲。31歳の命ここに眠る。

それだけでも存在価値ありなのだが、江戸時代中期まで木曽義仲を葬ったという小さな塚が、周辺の美しい景観をこよなく愛した芭蕉が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなった時、生前の遺言によってここに墓が立てられたわけだ。

 確かに、彼は、源義経や義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残し、義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、先の「義仲の寝覚の山か月悲し」の句を詠んではいる。

実は、この義仲寺、まずは義仲のこと、そして彼を慕った芭蕉のこと、これらが大きいが、もひとつ、寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となって墓所の辺に草庵を結び供養を続けたと言われている。死後、草庵は「無名庵(むみょうあん)」と命名されたという。その「無名庵」は、「木曽塚」、「木曽寺」、「義仲寺」とも称され、現在に至っているのだが。

いいか、これは私の、例によって勝手な憶測、空想推論だが、芭蕉の義仲に対する想いの片隅に、この側室巴御前があったのではないか、と。義仲の墓のやや北側に巴御前の墓がある。巴御前、武勇すぐれた美女で、武将として義仲公を助けたと言う。このジャンヌ・ダルク的存在に、芭蕉が義仲を通して憬れぬ訳がない。義仲の墓の左に彼女なら、義仲の右に自らの墓。これは義仲を慕いながらも、巴御前への想いもあるのではないか。身近な例で例えれば、私が作家の安部公房を尊敬しながらも、彼の奥様でありアーティストでもあった安部真知さんに憧れを抱いたような。おいおい、どこが身近だ。手前味噌なだけじゃないか。

いやあ、あははは。芭蕉の「おくのほそ道」にしても、私は蕉風などという派閥(?)よりも、彼の女性観が気になって気になって。だから、「かつみ」にしても「かさね」にしても「遊女」や「侘しき女」にしても、誰も芭蕉から色気を感じないとする説を覆すように、微熱少年たる芭蕉の未成熟な女性観が、私にはひしひしと伝わってくるのだよ。

そうしてね、それが申し訳ないが、晩年の幻住庵での隠遁生活の中でも「独り尼」にびんびん感応し、最後には義仲の墓と席を同じゅうしたいホンネが巴御前、なあんて考えれば、芭蕉の生涯は、公私共に充実していたのではないか、まさに、そう想うのだよ。

 さて、意味があるか否か分からないが、ここ義仲寺にある句碑を並べてみようかね。

 ううむ。文字入力するの、面倒臭いので写真で済ましちゃうね。読みづらい文字は、想像で読んじゃってね。

手書きで書かれている赤い数字は句碑を見た順番ね。この順番に句碑の写真も並べちゃうね。「行春をあふミの人とおしみける」からだよ。

途中、どぼんという大きな音。カメラを落としたか、などと自分の持ち物点検。そうではなかったようだ。池には、あちこちに亀。亀が落ちた音かも。

古池や蛙飛こむ水の音 芭蕉   古池や亀も落といる冷かし水 志踳

さあて、この立ち並ぶ句碑の中で、真の芭蕉の腹の中を知っていた作者さんはどれだけいらっしゃることか。まあ、誰もおらぬだろう。いや待て。全19の句碑のなかで、どうも又玄(ゆうげん)の作が気にかかる。

木曾殿と背中合せの寒さかな 又玄   木曾を越え巴と熱きバカンスかな 志踳

 というように、又玄は、木曾殿との背中合せを、見るからに詠んだのではなく、「木曾殿の傍がいいと言っておきながら背中合わせで寒いのは、他の理由があるからよ」と、又玄は知っておったのだよ。

そんな読み方はないだろう、思われる方もおるかもしれぬが、こう読む自分が、芭蕉をより身近な存在にしているのではないか、そう想うし、実際に、もしそうであれば、芭蕉も人の子、そう思えるではないか。もし、これから、若き人に芭蕉を伝える立場にある、そんな方は、こういう芭蕉の読み方もありなん、そう解釈してくだされな。

ということで、義仲寺を出た後は、大津駅前で一杯飲んじゃった。めちゃ遅い昼飯でもある。「吉祥」という名の店。おかみさんが天女のような人だから、かな。いやはや、もし巴御前の生まれ変わり、だとすれば、ちょっと外したいかな。薬師寺の吉祥天女画像には似ておられたが、私の、武勇優れたジャンヌ・ダルクさも似たりの像には全く被りはしないゆえに。

それよりも、日常に引き戻されん引力の重さに打ちひしがれし人に共感。いや、同情。そうして、買い物帰りのごく普通の乗降客に混じって、旅の重さを引きずったままの帰還となった。

ところで、芭蕉の墓まで来てしまった私に、今更「奥の細道」はあるかいな。いや、まだまだ、見知らぬ土地もあるし、お楽しみはこれからだ、と行きたい。

だがしかし、そういうことをも含めて、別に全てを踏破しているわけではないが、私なりの「奥の細道」の意義と、それを行動した芭蕉の実像に、ちょっと迫りたいと想う。

今度「芭蕉くんの『奥の細道』の真の狙い」なる記事を書くので、乞うご期待。誰も期待せぬか。


https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000185109 【松尾芭蕉は源(木曽)義仲に感銘を受け、自分の墓を琵琶湖のほとりにある義仲の墓の隣に建てるよう遺言した、と何かの本で読んだことがあるが、どういうところに感銘を受けたのか知りたい。】 より

回答(Answer)

関連する記述のあった以下の資料を紹介した。

『芭蕉の俤』(平泉澄著 日本書院 1952)

 p65-86「第三 木曽」は、木曽義仲に対する芭蕉の心情について論じた章。

「芭蕉は、元禄二年の秋、奥の細道の長き旅の終りに、越前の燧が城を望み見て、曾て木曾が破竹の勢を以て京を進撃した昔を回想し、(この句は奥の細道には入れられなかったが、別の句集(「荊口句帖」のこと)に見えている。)義仲の 寝覚の山か 月悲しとよんだ。この句には木曾を悲劇の主人公として、之に同情を惜しまない心持があらはれている。」とあり。

『芭蕉の文学』(宮西一積著 桜楓社 1973) 芭蕉の心情を考察した記述あり。

『芭蕉ハンドブック』(尾形仂編 三省堂 2002)p192「芭蕉語録辞典」に「木曾義仲」の項あり「(前略)芭蕉は、元禄三・四年(一六九〇~九一)しばしば木曾塚(義仲寺)に逗留、その塚の隣に遺骸を埋葬することを遺言するなど、義仲に対し特別な感懐を寄せるところがあった。発句でも「義仲の寝覚めの山か月悲し」(『荊口句帖』)、「木曾の情雪や生えぬく春の草」(『芭蕉庵小文庫』)の二句に読まれている」とあり。

『校本芭蕉全集 1』(松尾芭蕉著 角川書店 1962)p211「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」の句について安部喜三男の解釈あり。

『校本芭蕉全集 2』(松尾芭蕉著 角川書店 1963)p114芭蕉の句「木曾の情雪や生えぬく春の草」について荻野淸と大谷篤藏の解釈あり。

『霜山徳爾著作集 6 多愁多恨亦悠悠』(霜山徳爾著 学樹書院 2000)p158に関連記述あり。

回答プロセス(Answering process)

芭蕉が義仲に感銘を受けた以外の理由の記述があった資料

1 遺言の内容について

『校本芭蕉全集 9』(松尾芭蕉著 角川書店 1967)

 p316「芭蕉遺語集」に、「芭蕉翁行状記」からの引用で「偖(サテ)からは木曾塚に送るべし。爰(ここ)は東西のちまた(巷)、さゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづねよらんも便(たより)わづらはしからじ」とあり。

『注解芭蕉翁終焉記 「芭蕉翁終焉記」を読む』(今泉準一著 うぶすな書院 2002)

p211-212「(義仲寺は)生前の契り深い所(幻住菴を出てから、義仲寺内の菴に一時滞在)であり、また友の訪ねる便もよい、と其角の文によれば、「たはぶれ」に語ったのを、乙州は「敬して約束たがはじ」とうけ負った、とあるが、これも半ばはたわぶれであったかも知れない。ところでこれが本当にそうなってしまった。」「もし乙州へのこの言がなかったら、弟子たちは芭蕉をどこへ葬るか、大変なもめごとになったろう。」とあり。

2 その他記述のあった資料

『芭蕉最後の一句 生命の流れに還る 筑摩選書』(魚住孝至著 筑摩書房 2011)

 p279-280「義仲寺の芭蕉塚」の項に義仲への思いや門人の集まりやすい地であることのほか、「京都よりもはるかに古い近江京で、人麻呂以来の「楽浪(さざなみ)や」の歌なども思い起こしながら、「行春を近江の人とおしみける」と懐かしんだ地である。」とあり。

『注解芭蕉翁終焉記 「芭蕉翁終焉記」を読む』

 p83「このようにして、大津・膳所・粟津の義仲寺よりの琵琶湖の景、さらにはすぐ前の文の堅田等、湖南における風景等、を「心の物にして」「遊べること年あり」と述べているが、「心のものにして」は、風景を眺め味わい、十分にわが心のものとして、ぐらいの意。」とあり、これが芭蕉に湖南の景を詠んだ名句・名文の多くあることの理由とする記述あり。

『郷土史事典滋賀県』(徳永真一郎編 昌平社 1982)

 p141「芭蕉はその後たびたび無名庵を本拠として膳所・大津の門人宅に遊んでいるが、これは湖南の風光がとくに彼の趣向に適したのと、湖南の門人が俳諧に特別熱心で、彼を敬愛したためである。」とあり。

『図説近江古寺紀行』(木村至宏著 河出書房新社 1995)

 p10「近江のすぐれた風光、恵まれた門人、義仲の生涯に心を寄せていた芭蕉は、(中略)遺言を残した。」とあり。

『滋賀県百科事典』(大和書房 1984)

 p196「義仲寺」の項

 「1689年(元禄2)12月、松尾芭蕉が滞在し、1691年(元禄4)には、この地を愛する芭蕉のために「粟津草庵(のちの無名庵)」がたてられ」とあり。

事前調査事項

(Preliminary research)