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一号館一○一教室

クレンペラー指揮『ベートーヴェン交響曲全集』

2020.12.09 07:28

そこにあるのは
永遠の革命家の音楽だ!


245時限目◎音楽



堀間ロクなな


 今年(2020年)はベートーヴェン生誕250周年のメモリアル・イヤーにつき、国内外で多くのイベントが計画されていたところ、新型コロナウイルスの流行が立ちはだかっていかんともしがたくなった事情はまことに惜しまれる。もっとも、予定調和などというものは蹴散らされたほうがベートーヴェンにはふさわしかったかもしれないけれど……。わたしはせめてもステイホームで楽聖を偲ぶよすがにしようと、先に発売されたクレンペラー指揮ニュー・フィルハーモア管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲全曲演奏の映像を視聴した。これは半世紀前に生誕200周年記念としてロンドンのフェスティヴァル・ホールで行われたチクルスをBBCテレビがカラーでライヴ収録したものだ。



 オットー・クレンペラーは1885年ドイツのブレスラウ(現在はポーランド領)に生まれ、21歳でマーラーの推挙により歌劇場の指揮者としてデビューし、36歳で名門ベルリン・フィルの指揮台にも立つようになった。このころ長身に燕尾服をまとって、トスカニーニやワルター、フルトヴェングラーらと収まった写真が残っており、すでに20世紀を代表するマエストロたちと肩を並べていたことが窺えよう。しかし、ユダヤ人であったために、やがてヒットラーのナチス政権が成立すると亡命を余儀なくされ、48歳にしてアメリカに活動拠点を移したものの脳腫瘍や躁鬱病などの宿痾に見舞われる。大戦後にヨーロッパの楽壇へ復帰してからも、劇場や空港で転倒して骨折を繰り返したり、パイプの火の不始末が原因で全身火傷を負ったり……と、たび重なるアクシデントによって再起不能が伝えられることもしばしばだった。



 そうした浮き沈みの極端な半生を送ってきたことの反動か、また、あいつぐ病気や事故の後遺症がからだの不自由をもたらしたせいか、クレンペラーのタクトは70歳を超えたころからにわかにテンポが遅くなり、それにつれてオーケストラからは重厚な音響の大伽藍が聳え立つようになっていった。そんなかれが1970年、85歳のときに手兵のニュー・フィルハーモア管弦楽団を率いてベートーヴェンの偉大な九つの交響曲の連続演奏に立ち向かった模様を、この映像記録は如実に映しだす。



 記録によれば、コンサートは約2か月にわたり1~2週間おきに5回行われ、1回に2曲ずつ(第九のみ1曲)演奏された。クレンペラーは足腰が立たず介助者に抱きかかえられてステージを往復したそうで(そこは映像から省かれている)、指揮台の椅子にすわってからもタクトを持った右手はこわばり、口は半開きになったままで痛々しいが、そのタクトが振り下ろされて演奏がはじまったとたん、メガネの奥の両眼が輝きを帯び、左手が大きく波打って雄弁な指示を与えながら、まっしぐらにベートーヴェンの世界に没入していく。わたしの見るところ、前半のコンサートではまだ慎重な姿勢が感じられたが、後半になって第六、第七のあたりでは上半身の動きも激しさを増し、揺らぐことのないテンポのもとでびっしりと目の詰んだ音響の効果が凄まじく、最後に第九が終結したときにはこの気難しい指揮者が満面の笑みを浮かべてみせた。



 「ベートーヴェンは革命家だった。この偉大な革命家を、飼い慣らした、しつけの良い家畜として『ドイツの家』に閉じ込めることほど大きな誤解はない。(中略)ベートーヴェンの主題は肝心なものではない。肝心なのは、それがいかに広がっていくかということ、つまり、その展開にある。実際のところ、ヨーゼフ・ヨアヒムが言ったように、それはどのように展開されるかではなく、どのように『それを通じて感じられるか』という問題なのだ」(川嶋文丸訳)



 クレンペラー自身の言葉である。ここに繰り広げられた演奏について、かれの以前の演奏と較べて老衰の陰りを指摘したり、今日の現役指揮者の演奏と較べて時代遅れのスタイルと批判したりすることも可能かもしれない。わたしもクレンペラーのベートーヴェン・チクルスの記録なら、1960年のウィーン芸術週間にフィルハーモニア管弦楽団と行った演奏のほうが勢いに優っていると思う。しかし、いまや85歳の指揮者に向かってそんなものを求めて何になろう? これだけの歳月、人生の苦難を経てきた芸術家が全身全霊を懸けて達成したベートーヴェンの演奏だからこそ、決して飼い慣らされることのない永遠の革命家の音楽をここまで現出させたのではないか。クレンペラーが世を去るのは3年後のことだ。