ドナルド・キーンの『俳諧入門』②
https://yahantei.blogspot.com/2012/10/ 【ドナルド・キーンの『俳諧入門』】より
第4 談林俳諧
西山宗因(1605~1682)が、はじめて重頼に会ったのは、1625年頃のこと
らしい。二人の交遊は、やがて終生続くものとなる。 宗因の俳諧は、のびのびとした軽
いトーンで、彼が大阪天満宮の連歌宗匠に主任したことは、新風の首領として担ぐには最
適な人物であった。宗因は、その新風の談林俳諧の総帥となるのであるが、実際の主唱者
は、大阪の井原西鶴(1642~1693)であり、これに呼応したのが、江戸の田代松意(しょ
うい・生没未詳)や京の菅野谷高政(生没未詳)であった。
1 おらんだの文字か横たふ天つ鳫 宗因
Is that Dutch writing?
Across the heavens stretch
A line of wild geese.
黄檗宗の僧になった宗因が、本山のある長崎へ旅行した時の句である。横一列になって
渡る雁を、オランダの横文字と見立てるところに、この句の趣向がある。
2 さればこゝに談林の木あり梅花(うめのはな) 宗因
I have discovered here
There is Danrin tree・・
The plum blossomes.
1675年の春、江戸に下った宗因は、田代松意らの俳席に招かれる。その俳席での千
句巻頭の、宗因の発句である。季題は、梅で、宗因の号である梅翁にも通じている。宗因
自らが、談林俳諧の総帥たらんことを宣言した句である。
3 末茂れ守武流の惣本寺 宗因
May it flourish forever,
The great central temple of
Moritake’s style.
1678年、宗因が京へ行った時の、京に住む菅野谷高政に送った句である。惣本寺は、
高政が自らの結社を称していた名で、貞門俳諧の貞徳が、宗鑑を高く評価していたのに対
し、談林の俳人達は、その裏を行き、守武の古典俳諧の流れと称していたのであった。
4 菜の花や一本(ひともと)咲きし松のもと 宗因
The rape-seed blossoms・・
A single stalk has flowered
Under the pine tree.
宗因の晩年の句である。ここには、鋭い自然観察の眼がある。より高度の俳諧への兆し
が読み取れる句でもある。松の沈鬱な緑を背景に、ただ一本の菜の花のあざやかな黄が、
春の訪れを告げている・・、談林風の俳諧は、ともすると、俳諧の規矩を忘れ放埒に過ぎ
たとの批判を受けるのであるが、晩年の宗因には、その批判は当てはまらない。 いずれ
にしろ、談林風の俳諧の最盛期は、ごく短いものであった。1 6 7 5 年から1 6 8 5 年までの、たかだか十年位のものに過ぎない。
5 心こゝになきかなかぬか時鳥(ほととぎす) 西鶴
Is my mind elsewhere?
Or has it simply not sung
Hototogisu.
西鶴が、宗因の門弟になったのは、十四歳か十五歳の時で、この句は西鶴の初期の句で、
その二十四歳の時に上梓された撰集の中に収録されている。この句は、『大学』の「心ココ
ニ在ラザレバ見レドモ見エズ、聞ケドモ聞エズ」を踏まえての「なきかなかぬか」の巧み
な技巧の句作りといえよう。後に、西鶴の作風は、その奇抜さの故に、「阿蘭陀(オランダ)
流」と呼ばれるようになる。 西鶴は五十二歳で、その生涯を閉じるのであるが、彼の天
才ぶりは、いろいろの形で世の語りぐさとなっている。彼は、矢数俳諧(やかずはいかい)
の記録保持者でもあった。1684年の大矢数では、実に、一昼夜で、二万三千句という
空前の事業を成し遂げた。 現在では、その談林風俳諧のエースとしてよりも、『好色一代
男』などの、近代小説への一代舵取りをしたということで、その名を馳せている。
ドナルド・キーンの『俳諧入門』(その三)
第5 蕉風への移行
それぞれ自説をかざして貞門と談林との主導権争いは、1680年頃には頂点を達した。江戸でも大阪でも両者の不毛の争いが続くのであるが、この不毛の揚げ足取りの論争に飽き足らずにいた少数の俳人達は、新しい俳諧の道を模索していた。 その俳人達とは、もと貞門の人であった伊藤信徳(しんとく・1634~1698) や池西言水(ごんすい・1650~1722)あるいは談林系の上島鬼貫(おにつら・1661~1738)・小西来山(らいざん・1654~1716)・椎本才麿(さいまろ・1656~1738)らであつた。 この人達は、俳諧史上に不朽の名声を止めるまでには至らなかったが、彼らの一人ひとりが、やがて芭蕉が到達すると同じ道を同じ方向に歩いていたということは、強調しておく必要があろう。
その道は、芭蕉を得ることによって、ようやく本格的な俳諧の誕生を見るに至る。短い表現の中に、単なる警句的な機知の閃き以上のものを蔵した俳諧、偉大な詩人の心に宿った詩想を一つの凝縮として表現し得る俳諧の世界が、芭蕉の出現によって開けるのである。
1 富士に傍(そう)て三月七日八日かな 信徳
Following by Fuji・・
It was the sevennth day or
The eighth of April.
信徳は、京の豊かな商人で、商用で諸国によく旅をした。1677年、江戸に下った時
は、芭蕉や山口素道(そどう・1642~1716)と『江戸三吟』を巻いている。この句は、1685年の「旅行」と前書きのついている句で、「七日八日(なぬかようか)」という語感の冴えが見事である。言葉を選びながら、言葉の遊戯に陥らないところは、極めて、芭蕉の句に近いといえる。
2 名月や今宵生るゝ子もあらん 信徳
The harvest moon!
Tonight there must also be
Children being born.
ドナルド・キーン氏の見事な評を全文引用してみる。「信徳晩年のこの作は、すでに年老いたわが身にひきくらべて、今宵生まれる満月のようにすこやかな子もあろうかという思念を含蓄しているばかりでなく、実は、その子さえ満月の欠けていくのと同様にやがて人生の終焉を迎えるこそあわれよ、という詠嘆がこめられている。これだけの短く素直な表現に、これだけの人間感情がうたい込められているとは、ほとんど信じられぬくらいだが、幼な子と無欠に達していまや欠けなんとする月の取り合わせにこそ詩人としての信徳の真の意図があるのであり、老いて月を眺める寂寞の情緒もそこからにじみ出てくるのである。」 信徳は、後に、「蕉風の先駆」と呼ばれるようになるが、事実、若き日の芭蕉は、この年長者の信徳から多くのことを学んだことであろう。
3 うの花も白し夜半(よなか)の天河(あまのがは) 言水
The verbenas blossoms too
Are white:in the middle of night
The milkway.
池西言水も、信徳と同じように、まず、貞門に学び、ついで談林に移った人である。言水は、まだ世に知られていなかった頃の芭蕉と交わり、芭蕉の作品を、自撰の『東日記』(1681年)などの中で紹介し、芭蕉が世に知られる一つのきっかけを作っている。この句は、談林の絶頂期の、1678年の作で、芭蕉俳諧の趣を、この頃から、すでに、言水は自分のものとしていたのである。「季節は夏。夜の闇に卯の花の白さが浮き出ている。白さはやがてくる秋の夜、天の川が中天にかかるころを思わせる。」(ドナルド・キーン)
4 鯉はねて水静也郭公(ほととぎす) 言水
A carp leaps up
And now the water is still:
A nightingale.
「芭蕉の有名な古池の句とあまりにも情景が似ているので、つい比べてみたくなる作で
ある。言水の句は制作の年月がわからないが、どうやら芭蕉のより先の句であるらしい。言水の自注によると『この里のさびわたるにはほとゝぎすもやと待わびしに、さはなく里魚のはねる音をきく。いやましに淋し。はたして時鳥なりけり』という。句はこうした言水の体験をみごとに十七字の中に描きえている。そこには漢詩の影響も認められる。だが、やはり古池の句の絶対無二の響きに比べると、一歩劣るところがあるのを認めないわけにはいかない。」(ドナルド・キーン)
5 凩(こがらし)の果はありけり海の音 言水
The winter wind
Had a destination,Isee:
The roar of the see.
「海に出て木枯帰るところなし」は、山口誓子の昭和十九年の作、この句がほうふつし
てくる句である。ともあれ、誓子の木枯の句についての、誓子の自解を見てみよう。
「『木枯』は、木を吹き枯らす風、秋の末から冬の初めにかけて吹きすさぶ。『凩』という字は、日本で造った字だ。風の中に木がある。まさに木を吹き枯らす風だ。 私は、海の家にいて、図上を吹き通る木枯の音を聞いて暮らしたるその木枯は陸地を通って、海に出る。直ぐの海は、伊勢湾だが、渥美半島を越えると、太平洋に出る。太平洋に出た木枯は、さえぎるものがないから、どこまでも、どこまでも行く。日本へは帰ってこない。行ったきりである。『帰るところなし』、出たが最後、日本には、帰るべきところはないというのだ。昭和十七年作に、『虎落笛叫びて海に出で去れり』という句を作ったことがある。もがりぶえは、冬になって、笛を吹く強い風だ。その強風がひゅうひゅう云って、海に出て去って行ったのだ。この句があって、これを下敷きにして『帰るところなし』の句が出来たのだ。俳句は積み重ねだ。」(山口誓子『自選自解説 山口誓子集』)
時に、誓子は、四十三歳、太平洋戦争の真っ只中にあった。句としては、誓子の方が、言水を上回るものであろう。しかし、芭蕉以前の俳人にして、このような句があるということは驚きですらある。
6 白魚やさながらうごく水の色 来山
The whitebait ------
Just like the color of water
Itself moving.
これは、来山の句である。勿論、芭蕉の『野ざらし紀行』の「あけぼのやしら魚白き事一寸」が連想してくる。芭蕉の初案形は、「雪薄し白魚しろき事一寸」が知られている。とにかく、芭蕉の前後の俳人には、芭蕉の名吟に匹敵するような作品を残している幾人かの俳人が存在したということは注目する必要がある。すなわち、芭蕉という大俳人が俳諧史上突然現れたというよりは、芭蕉のような大俳人が現れる素地が、当時の俳諧史が内包していたということの方が正しいように思われるのである。
7 見かへれば寒し日暮の山ざくら 来山
When I look behind me
How cold they look ------ the twilight
Mountain cherry blossoms .
来山は、大阪談林の一方の雄であるが、この句などは、談林風というよりも、次の時代の蕉風の句であろう。談林俳人達の多くのように、言葉遊戯の俳諧という世界を脱して、五七五という短い詩形をもって、自己の感情を表出するという、蕉風の世界の中に来山の姿を見出すのである。
8 春の夢気の違はぬがうらめしい 来山
A spring dream ・・
I am not out of my mind
But how bitter I am .
この句は、1712年来山五十八歳の時の作品である。「浄春童子、早春世を去りし」という前書きがある。「うらめしい」とう口語の調べが、来山の悲痛さを詠出している。
9 幾秋かなぐさめかねつ母ひとり 来山
How many autumns
Did she spend unconsoled?
My mother,alone.
来山は、九歳にして父を失い、母の手一つで育てられた。十歳にして談林風俳諧を学び、十七歳の時はすでに宗匠として認められるに至った。その才能は天賦的なものであった。この句は、「わが心なぐさめかねつさらしなや をばすて山にてる月をみて」(古今集)からの連想であろう。
1 0 春雨や火燵のそとへ足を出し 来山
The spring rain------
I move my legs outside
The foot warmer.
句の冒頭に置かれた主題(春雨や)に、それに一つのイメージを添えて一句に仕立てる技巧の冴えは、来山が得意としたところのものである。そして、この句の、「しとしととふり続ける春雨の倦怠感(アンニュイ)」は、後の蕪村の世界のものである。蕪村にも、炬燵の句が多い。
○ 巨燵出てはや足もとの野河哉
○ 宿替へて火燵うれしき有り所
○ 腰ぬけて妻うつくしき火燵哉
○ 身ひとつの鳰のうきすや置き巨燵
1 1 春雨や降ともしらず牛の目に 来山
The spring rain------
Reflected in ox’s eyes
Unaware it falls.
「しとしとと降る雨の情感が、雨を雨とも感じずに鈍く開いた牛の目にうつり、詩人の
心は春の憂いのなかに沈んでゆく。」(ドナルド・キーン) この句などは、次の時代の芭蕉の時代を越えて、まさしく、その次の蕪村の時代の句を見る思いである。
12 庭前に白く咲きたる椿かな 鬼貫
In the front of the garden
It has whitely blossomed・・
The camellia.
「まことの外に俳諧なし」は、上島鬼貫の俳諧理念である。鬼貫の「まこと」とは、何
よりも貞門・談林の技巧過多に対比しての簡潔さであり、目に映る対象の真実に迫ろうとする真摯な創作姿勢をいう言葉であろう。ごく自然に心眼に映ることを、何の粉飾や技巧を付加することなく、そのままに表現することを、鬼貫は俳諧の創作理念とした。この句は、その鬼貫の「まこと」の俳諧の創作理念に基づく一つの現れであろう。
1 3 夕暮は鮎の腹見る川瀬かな 鬼貫
Are the close of day
You see sweetfish bellies
In the river shallows.
「夏のたそがれ、ものみな色を失って、白と黒だけが弁別される世界の中に沈んでいこ
うとしている。そんなとき、ひるがえる鮎の白い腹がきらりと光る。瀬は浅く、深まりゆく闇の中で、明澄な水の中に一瞬の躍動がある。」(ドナルド・キーン)
1 4 行水の捨どころなきむしのこゑ 鬼貫
Nowhere to throw
The water from my bath・・
The cries of insects.
鬼貫の句のなかで、世に知られている句の一つである。加賀の千代女の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」と同じような句作りということになろう。自然に対する優しい作者の心が伝わってくるが、その誇示が月並みな感情を醸しだしているともいえる。
1 5 此秋は膝に子のない月見哉 鬼貫
This autumn
I’ll be looking at the moon
With no child on my knee.
鬼貫も子に先立たれた。その時の句である。来山のそのときの句(8)と比較すると、両者の作風の相違が分かってくる。鬼貫の句には、来山のような悲痛な叫びというのは聞こえてこない。そこには、素直な表現を通して、鬼貫のメランコリックな感情の吐露があるに過ぎない。鬼貫は、嘘偽りのない「まこと」の俳諧を志した。そして、その極限は、いわゆる「芸術性の喪失」と「無技巧の月並みさ」の句へとつらなっているとも思われる。十七文字を用いて真に詩と呼ばれるべきものを創造するためには、単に、「まこと」だけでは十分ではないのである。そこに、芭蕉のように、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫道する物は一なり」(『笈の小文』)までの、芸術性の付与と絶えざる工夫が必要とされる。それには、芭蕉の出現を待たねばならないのである。しかし、芭蕉の出現には、鬼貫の「まこと」の俳諧が必要とされたのである。このことを、服部土芳の『三冊子』は、次のようにいっている。
「師の風雅に万代不易あり、一時の変化あり。この二つに究まり、その本一つなり。その一つといふは、風雅の誠(まこと)なり。」
すなわち、芭蕉俳諧の究極の理念である「不易流行」は、鬼貫の「まこと」をその根底にして発展したものともいえるであろう。 このように見てくると、芭蕉の出現というのは、突然に、芭蕉という天才がが出現したというよりは、その時代の趨勢が、芭蕉という天才を必要とし、そして、その時代が、芭蕉という天才を誕生させたということがいえるのかも知れない。