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ドナルド・キーンの『俳諧入門』④

2020.12.10 04:56

https://yahantei.blogspot.com/2012/10/ 【ドナルド・キーンの『俳諧入門』】より

ドナルド・キーンの『俳諧入門』(その六)

3 『おくのほそ道』以降

1 初しぐれ猿も小蓑ほほしげ也

First rain of winter------

The monkey too seems to want

A little straw raincoat.

「この句は、1689年陰暦九月、伊勢から伊賀へ向かう山路で芭蕉が得たものとされ

ている。冬近い山中、しぐれに降られた彼は、ふとわびしげな猿の姿を認める。ほほえみと同情をもって猿を見やる心は、とりもなおさず『猿蓑』全編を貫く心である。」(ドナルド・キーン)

1 6 9 1 年の正月を伊賀で迎えた芭蕉は、その春に京の嵯峨にあった向井去来の別宅「落柿舎」に移る。ここで、『嵯峨日記』を書き上げる。その後、京の門人の野沢凡兆の家に身を寄せ、ここで、去来・凡兆が編纂していた『猿蓑』の完成に携わる。芭蕉は、この『猿蓑』において「正風の腸(はらわた)」を見せんとの意気込みでその撰に没頭した。1691年陰暦六月に刊行された『猿蓑』は、全六巻から成り、芭蕉七部集のなかでもその頂点を究めたものとしてつとに名声を博したものであり、この句は、その『猿蓑』の巻頭を飾った発句である。

この『猿蓑』には、冬の発句(巻の一)、夏の発句(巻の二)、秋の発句(巻の三)、春の発句(巻の四)に続いて、巻の五は、歌仙(三十六韻の連句)が収められ、さらに、巻の六が、芭蕉の「幻住庵記」と関連の発句が収録されている。

この巻の五歌仙に、この撰集に携わった去来・凡兆と芭蕉の三吟歌仙が見られる。

2 市中は物のにほひや夏の月 凡兆

In the city

What a heavy smell of things!

The summer moon.

凡兆の日常の何気ないものを主題としている軽みの発句。発句は、季語(夏の月)と切

字(や)を含んでいなければならない。

3 あつしあつしと門々の聲 芭蕉

How hot it is! How hot it is!

Voices call at gate after gate.

芭蕉の脇句。発句の趣きを引き緊めている。韻字止めで発句と同じ季(あつしあつし)

が定石である。

4 二番草取りも果さず穂に出(いで)て 去来

The second weeding

Has not even been finished,

But the rice is in ear.

去来の第三。第三は変化の始まりである。「転じ」の定石に従って、場面は市中から田舎の場面と転換されている。発句が夏の場合は、三句続けてもよく夏(二番草)の句。「て」止めも第三の作法である。

5 灰うちたゝくうるめ一枚 兆

Brushing away the ashes,

A single smoked sardine.

平明かつ飄逸味のある「四句目ぶり」の軽い付けである。雑の句。

6 此筋は銀も見しらず不自由さよ 蕉

In this neighborhood

They don’t even recognize

money------

How inconvenient!

芭蕉は、自ら旅人となってその片田舎にやってくる。辺鄙な寒村なので人々は銀貨など

を見たことがないというのである。ここは「月の定座」なのだが、発句に定座が引き上げられている。雑の句。

7 たヾとひやうしに長き脇差(わきざし) 来

He just stands there stupidly

Wearing a great big dagger.

「とひやうしに」は、「突拍子に」の意味。全く突拍子も無く長い脇差であることよという句意であろう。雑の句。ここまでが、初折の表六句である。

8 草むらに蛙こはがる夕まぐれ 兆

In the clump of grass

A frog,and he jumps with fright

At the twilight hour.

「長い脇差」と「草むらの蛙」の取り合わせの滑稽味である。初裏の一句目、季語は蛙

で、春の句。

9 蕗の芽とりに行燈(あんど)ゆり消す 蕉

Going to pick butterbur shoots

The lamp flickers and goes out.

蕗の芽取りに行った若い女性が草むらの蛙に慌てふためいて手にしていた行燈かゆれて

消えてしまった。季語は蕗の芽、春の句。軽い受けである。

1 0 道心のおこりは花のつぼむ時 来

The awakening

Of faith began when the flower

Was still in the bud.

出家を思い立ったのは、まだ花もつぼみの頃でした。初裏十一句目の花の座が引き上げ

られている。春(花)。

11 能登の七尾の冬は住(すみ)うき 兆

The winters in Nanao

In Noto are hard to endour.

能登の七尾は寒さの厳しい所でとても住みづらい所であるという句意。出家した人の回

想の場面のようである。冬(冬)、季移り。

1 2 魚の骨しはぶる迄の老を見て 蕉

I have lived to see

Such old age Ican only

Suck the bones of fish.

若い頃は魚の骨など噛みくだくほど元気であったが、今では骨をしやぶるだけに老いさ

らばえた。述懐の句。雑。

1 3 待人入(いれ)し小御門(こみかど)の鎰(かぎ) 来

He let my lover in

With the key of the side door.

通用門を鍵でそっと開けて、主の恋人を中へ迎え入れました。前句の老いた人から門番

の翁の付けである。雑の恋の句。連句ははじめ百韻(百句)形式のものが主流を占めていたが、芭蕉の時代になってからは、三十六句をもって一巻とする歌仙の形式が多く行われるようになった。この歌仙三十六句のうち、最初の句を発句、二番目の句を脇、三番目の句を第三、一番最後の句を挙句と呼び、残りの四句目以下の三十句余りを平句(ひらく)と呼び、四季・月花・恋・雑などを交えて自在に変化していくところに連句の生命がある。芭蕉は、「歌仙は三十六歩也。一歩も後に帰る心なし」( 三冊子) と連句のこの流れの大切さを強調した。 また、芭蕉は、「文台を引下ろせば則反故也」( 三冊子)とも述べており、連句は元来、座の文芸であり、その制作していくプロセスを楽しむものであって、完成された作品を読んで鑑賞することが本義ではないという一面も有している。この座の文芸という一面から、連句を鑑賞・理解するということは、甚だ困難な点を有しているのであるが、芭蕉の俳諧を理解するということは、とりもなおさず、この連句を理解し、その上で発句を理解するという手順を踏まなければならないのである。そして、芭蕉は、「発句は門人の中、予におとらぬ句する人多し。俳諧においては老翁が骨髄」( 宇陀法師)と述べており、この面においては抜群の力量ぶりを発揮したのであった。そして、この『猿蓑』こそ、その芭蕉の俳諧(連句)の頂点を究めたものなのであった。この『猿蓑』完成後、再び、湖南・義仲寺に戻り、さらに、江戸に向かったのは、1 69 1 年陰暦の九月二十八日、江戸着は一ヶ月後だった。二年八ヶ月を留守していたこととなる。

14 病鴈(やむかり)の夜さむに落て旅ね哉

A sick wild duck,

Falling in the old of night:

Sleep on a journey.

「群れから離れて渡る病む雁と、旅の宿の夜寒に伏し悩む芭蕉の心境とが、言葉や技巧

を用いずして簡浄のうちにはっきりと連想される佳吟。彼晩年の詩境の到達点と言えるだろう。」(ドナルド・キーン)

『猿蓑』に、「堅田」との前書きのある発句である。この句は、1690年に湖西の堅田で病臥中の句で、すでに軽みを指向している句とされている。軽みとは、技巧や修飾的な手法とは反対の概念である。

それはまた、『おくの細道』にあるような高尚典雅な題材の「おもくれ」の句調と対比して、日常生活に句材を得るような「かるみ」の工夫を施した句調といわれている。

1 5 鹽鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)

The salted bream

Look cold,even to their gums,

On the fishmonger’s shelf.

「1692年の冬の句、真冬の魚屋の店頭を叙したものである。一尾の鮮魚もない店の

盤台に、ちぢこまって歯をむき出した塩鯛が寒々とした雰囲気を伝えている。」(ドナルド・キーン)

この句の創作後の翌々年の、1 6 9 4 年に、志太野坡が編纂した『炭俵』とその年に大体の編集が完成していた服部沾圃編の『続猿蓑』( 刊行は1 6 9 8 年) は、芭蕉最後の連句撰集であるが、ここにおいては両者とも軽みを特色としている。

この「鹽鯛の」の句については、土芳の『三冊子』に、芭蕉の言葉が記録されており、

それによると下五の「魚の店」と具象的に詠んだことによって、日常性が加わり、その頃芭蕉が指向していた軽みへの工夫がみられるという。

1 6 麥の穂を便(たより)につかむ別(わかれ)哉

I clutch a stalk of wheat

To support me------

This is parting.

この句には、「五月十一日、武府を出て古郷に趣( おもむく)。川崎迄人々送( おくり)けるに」という前書きがついている。1 6 9 4 年陰暦五月十一日、芭蕉は郷里へと最後の旅に出る。江戸を出て、川崎での見送りの人々に対する留別の句である。

「おそらく近くに麦が見えたのであろう。心の杖ともたのんだできた弟子たちに惜別の情を残しながら、芭蕉はねこれからは麦の穂をたよりにするほかはないという心細い気持を述べている。」(ドナルド・キーン)

1 7 六月や峯に雲置クあらし山

The sixth month------

Clouds are resting on the peak

At Arashiyama.

この句には、「嵯峨」と前書きがある。故郷の伊賀上野に着いたのは、江戸を出てから十七日目であった。この上野から膳所・大津へと向かい、嵯峨の落柿舎に入る。その時の句である。この落柿舎に滞在中の六月八日に、芭蕉と深い係わりのある寿貞死亡の知らせを受ける。その七月中旬、盆会のために帰郷した芭蕉は、この数奇な運命を生きた寿貞に、「数ならぬ身となおもひそ玉祭り」という句を手向ける。

1 8 清滝や波に散込ム青松葉

Clear cascades------

Into the waves scatter

Green pine needles.

清滝は、洛北高尾を経て嵐山の上流あたりで大井川に合流する清滝川のこと。その激流

に、松の青葉が散り込むという芭蕉の心象風景ともとれる。この句は、芭蕉が最期の病床で手を入れた句である。

1 9 家はみな杖にしら髪の墓参

Everyone in the family

Leans on a stick: a white--haired

Graveyard visit.

郷里の盆会に戻り、一族の人々が墓参りに出かけたが皆白髪で杖をついているという芭

蕉の述懐の句であろう。この上野には、一ヶ月と少し滞在刷るのであるが、ここで、各務支考の助力を得て、『続猿蓑』の最後の編纂作業に携わる。上梓されたのは芭蕉死後の1698年であった。1694年の陰暦九月八日、芭蕉は上野を出て大阪に向かった。

2 0 此道や行人なしに秋の暮

Along this roard

There are no travellers------

Nightfall in autumn.

「所思」という前書きのある一句である。「夕風が吹きつのる秋の夕べ、孤独な旅人の悲愁である。」(ドナルド・キーン)

21 此秋は何で年よる雲に鳥

This autumn

Why do I feel so old?

A bird in the clouds.

「旅懐」という前書きのある一句である。「ここでも、孤影悄然の詩人が、雲に迷う鳥を見つめている。」(ドナルド・キーン)

22 秋深き隣は何をする人ぞ

Autumn has depened

I wonder what the man next door

Does for a living?

「明日の夜は、芝柏(しはく)が方にまねきおもふよしにて、ほつ句つかはし申されし」という前書きのある一句である。隣合って住んでいても、人間というのは、所詮、一人一人が生の営みをするものなのだという、晩秋の哀感の中に、人生の寂寥感を詠じている句であろう。

2 3 旅に病で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る

Stricken on a journey,

My dreams go wandering round

Withered field.

「二十九日には、病状は悪化し、招宴に出ることはもはやできず、それからも病勢は進

む一方であった。十月五日には南御堂に近い花屋の離れに移された。宗匠病むの報は、たちまち弟子のあいだにひろまり、蕉門の人々がはせ参じて師の枕頭を囲んだ。その月の八日、芭蕉は弟子の一人に筆をとらせて最終吟を書かせた。十日の夜、支考に命じて遺書三通を代筆させた。草稿や蔵書の処置をたのみ、江戸の門人に別れを告げるものだった。それから、みずから筆をとって兄の半左衛門に一通を書いた。そのあとは、もう食事を受けつけず、静かに仰臥して死を待った。遷化は十月二日のことであった。通夜ののち、遺骸は舟で膳所の義仲寺へ運ばれ、遺言どおりに葬られた。荼毘に付したのちの埋葬は十四日。八十人に超える一門の弟子が会葬した。伊賀の門人二人には、郷里の家代々の墓に納めるべく遺髪が託された。」(ドナルド・キーン)

ドナルド・キーンの『俳諧入門』(その七)

第7 芭蕉の門人

芭蕉が江戸において宗匠として独立したのは、1678年、三十五歳になった新年のことであったとみられている。以後、次々と門弟の数を加えていくのであるが、堀切実はその蕉門の形成過程を五期に分けて概観している(『芭蕉の門人』)。

第一期:宗匠立机の年(1678年)から1680年陰暦四月の『桃青門弟独吟二十歌仙』刊行の頃まで。榎本其角(1661~1707)、服部嵐雪(1654~1708)、杉山杉風(1647~1732)らが一門を盛り立てていた。

第二期:1680の冬、三十七歳のとき深川芭蕉庵に入庵から1683年、四十歳頃まで。それまでの貞門・談林の俳風を乗り越えて、蕉風と呼ばれる新しい作風を樹立していく過度期である。其角編の『虚栗』(1683年刊行)によって代表される。

第三期:1684年、四十一歳を迎えて、はじめての文学的行脚である『野ざらし紀行』の旅に出てから、1687年の頃まで。この『野ざらし紀行』の旅の途中で、名古屋において、山本荷兮(かけい)、岡田野水(やすい)、坪井杜国(とこく)、加藤重五(じゅうご)らと『冬の日』五歌仙を巻く。これが、蕉風樹立の第一歩であった。郷里の伊賀上野の服部土芳(1657~1703)、北越生まれの越智越人(1656~1739?)らも加わった。

第四期:1687年初冬の『笈の小文』の旅の出発から,1689年、四十六歳のときの『おくの細道』の大行脚を経て、1691年初冬に江戸に帰着する頃までの時期。この二つの旅の経験を通して、蕉風がいよいよ円熟の境に達した時期である。向井去来(1651~1704)、野沢凡兆(~1714)らによる京蕉門の形成、内藤丈草(1662~1704)、各務支考(1665~1731)、立花北枝(~1718)、広瀬惟然(~1711)らも加わった。

第五期:1692年、芭蕉四十九歳の年から、その没する1695年までの三年間である。江戸では、其角・嵐雪が自立し、森川許六(1656~1715)が加わる。『別座鋪(べつざしき)』を撰した杉風グループ、『炭俵』を撰した志太野坡(1663~1740)グループが形成されていった。

これらの蕉門の形成過程の概括と併せ、堀切実氏は、新蕉門十哲として、其角・嵐雪・杉風・去来・丈草・凡兆・許六・支考・野坡・惟然の十人を上げている。

また、ドナルド・キーンは、「真に優れた作者だけに限定するなら、それは其角、去来、許六、それにもう一人、支考を加えた四人ではないかと思われる。」としている。

芭蕉の門弟が、その数において最も多かったのは、おそらく芭蕉の生地、伊賀の上野で

あろう。この伊賀蕉門の中の筆頭は土芳であろう。土芳は俳論集『三冊子』(1704年刊行)の著者として知られている。伊賀でのもう一人の高弟、窪田猿雖(1640~1704)も、芭蕉と極めて親密な友人でもあった。

江戸蕉門を代表するのは、其角と嵐雪であった。また、長年にわたって師に経済的援助を惜しまなかった杉風や深川芭蕉庵の近くに住んでいた河合曽良(1649~1701)も芭蕉と切っても切れない間柄であった。

晩年の芭蕉は京の近くに住むのを好み、その面から最も芭蕉に近かった者として去来が上げられるであろう。また、禅僧であった丈草も芭蕉に深く傾倒し、蕉門随一の「さび」の継承者として知られている。

彦根藩士の許六も、その俳論『俳諧問答』(1697年刊行)などで、芭蕉の高弟としての地位を不動のものとしている。また、少数の佳句を残して夭逝した吐国も、芭蕉が最も深い愛情を注いだ一人であった。

凡兆の客観的な句風も、後の蕪村らによって珍重される。さらに、支考に至っては、芭蕉の教えを俗化したとして毀誉褒貶の渦の中にいるが、その俳論は、全国各地で広く読まれ、蕉門随一の理論家として知られている。

野坡は『炭俵』の編者として軽みの人事句を得意とした。惟然もまた自然諷詠を主とする詩境に軽妙さを添え惟然風と称された。

とにもかくにも、芭蕉を取りまく俳人群像は多種多様で、現代俳論の随一の理論家とし

てその名を馳せた山本健吉は、「俳句は、かって芭蕉の時代に、それが連句の発句として達することのできた高さにまで, それ以後単独で到達したことは、一度だってない」(『俳句の世界』)とまで断言しているのである。まさに、至言である。俳諧、発句そして俳句という生命体において、その生命を持続している以上、常に、この氏の指摘もまた持続することであろう。

1 切られたる夢は誠か蚤の跡 其角

Stabbed in a dream・・

Or was it reality?

The marks of a flea.

蕉門の俳人の中で、最も早い時期に門弟となり、最も強烈な個性を発揮し、一時的には師の芭蕉を凌ぐほどの人気をはくし、後に、いかなる偶然によるものか、芭蕉の臨終に立会い、その死の床に横たわる芭蕉に『枯尾花』を手向けた其角は、その門弟の中でも一方の雄であろう。

去来は、この句について「其角は誠に作者にて侍る。わずかにのみの喰つきたる事、たれかかくは謂(いひ)つくさん」と、その『去来抄』で述べている。芭蕉も、その去来の言葉に、「しかり。かれは定家の卿也。さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る」と応えている。

芭蕉と其角とを対比してみると、芭蕉が推敲に推敲を重ね珠玉のような作品に仕立てていくのに対して、其角は即興吟を得意とし、当意則妙の機知をもってその場の関心をさらうということに関心があり、俳諧に関する根本的な姿勢が相違していた。

また、このことに関連して、芭蕉が高点を競う遊戯的な点取俳諧を排斥し閑寂な生き方

に徹したのに対して、其角は、江戸座随一の点取宗匠として華美伊達の生き方に徹したのである。

芭蕉が漂泊の俳諧師とするならば、其角は悠々たる定住の俳諧師ということになろう。其角の俳諧を通してのその交友関係は華麗なる一言に尽きた。俳号和英(わえい)こと画師・英一喋、俳号白猿(はくえん)こと歌舞伎役者二代目市川団十郎、俳号子葉(しよう)こと赤穂浪士大高源吾、俳号子山(しざん)こと一代の豪商紀国屋文左衛門など、実に話題の豊富な俳諧師であった。

其角は、十四歳の頃、芭蕉門に入ったらしい。その出発点は、蕉風俳諧史上画期的な、新風樹立を目指した芭蕉の意欲的な跋文を得て刊行された処女撰集『虚栗』(1683年刊行)であった。当時の空前の漢学隆盛時代を背景として、蕉風の詩精神を杜甫・白楽天に置こうとした、所謂、漢詩文調の『虚栗』の句風は、芭蕉と其角のコンビにより誕生したのである。

1684年、春から秋にかけて西上した其角は、難波の住吉神社で西鶴が催した一昼夜二万三千五百句の矢数俳諧興行の後見役をつとめ、京の伊藤信徳らとも俳交を重ねた。その西上から帰江後、1687年に『続虚栗』を刊行し、1688年に二度目の上方行に出て、京の去来・凡兆らと俳交を重ねた。

1691年に『猿蓑』集の序文を呈する栄誉を得た。文字通り蕉門筆頭の地位に立ったということになろう。芭蕉は、1695年の桃の節句に因んで、「草庵に桃桜あり、門人に其角・嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」(『桃の実』)と詠んだほど、その信頼は厚かったのである。

しかし、1754年の許六あての手紙では、芭蕉は、其角のの俳諧について「拵(こしら)への俳諧」と指摘し、「其角・嵐雪の義は年々古狸よろしく鼓打ちはやし候」と、芭蕉と江戸の其角・嵐雪の間には亀裂が生じていくのある。それは、大衆の人気におもねようとする其角の洒落風俳諧に対する芭蕉の警告でもあった。

そして、この芭蕉と其角との間には、この亀裂のまま1794年の芭蕉の死をもって終

わるのである。そして、これもまた、何の因縁か、たまたま上方旅行中の其角は、芭蕉の臨終に侍するのである。その芭蕉没後は、ますます、其角の俳風は、奇抜な見立てや謎めいたものとなり、去来ら同門の其角評は厳しいものとなり、その批判の中で、さらには、江戸座の祖と仰がれつつ、1707年に、その四十六年の生涯を閉じたのである。

2 我(わが)奴(やっこ)落花に朝寝ゆるしけり 其角

My servant boy sleeps

This morning in falling

blosoms------

I have forgiven him.

この句には、白楽天の「惜花不掃地」という詞書がある。「散った花を惜しんで地面を掃かない」という意味である。この白楽天の詩の一節の外に、源公忠の「とのもりのとものみやつこ心あらば この春ばかり朝きよめすな」も、この句の背景にあるという。

さらに、ドナルド・キーンは、神田秀夫の「其角」(井本農一編『蕉門のひとびと』所収)の次の興味ある分析についても紹介している。

a 下僕が朝寝している。庭も掃かず荷にけしからん。

b おや、桜が散っている。

c この美しい朝の庭を見ないとは不風流なやつめ。起こしてやろう。

d いや、起こせば「どうも寝坊してすみません」と言うより早く掃い

てしまうだろう。

e やっぱり朝寝していてくれたほうがいい。黙っていてやろう。

f あるいは、あいつは俺のこういう気持を承知のうえで寝ているのか

な。心得たやつめ。

これが、其角の奇警な謎句の一つの正体なのである。このような句は、芭蕉の世界とは異質のものであろう。芭蕉の没後、其角は、このような句作りに終始したのである。そして、これが、機知と新奇を衒った江戸座俳諧の一面なのである。と同時に、俳諧は、常にこのような一面に走る本質を有して入るのである。このことは、よくよく心しておく必要がある。

3 湖の水まさりけり五月雨(さつきあめ) 去来

How the waters

Of the lake have swollen------

The fifth-month rains.

其角の1684年の始めての上方行において、去来との出会いがあった。そして、去来にとってこの其角との出会いが、それまで親しんでいた和歌から俳諧へと転回するきっかけとなった。

1686年の冬、江戸に赴き、芭蕉と対面する。以来、芭蕉の最も深い信頼を得て、晩年には蕉風俳論をまとめた『去来抄』を刊行する。この句は、去来の傑作句の一つで、1689年の『曠野(あらの)』に入集されたものである。許六は、この句に対して「予が心、夜の明けたる心地して、初めて俳諧の心(し)ンを得たり」(『俳諧問答』)とまで絶賛した。「茫洋たる湖と降り続く雨」との照合が、「取合せ論」を信奉する許六の眼鏡にかなったということであろうか。

この句が入集された『曠野(あらの)』が上梓されたその年の末、去来は京の嵯峨の落柿舎に芭蕉を迎える。ここで、去来・凡兆は、後に、「俳諧の古今集」(『宇陀法師』)とまでいわれた『猿蓑』を1691年に編纂する。この編纂過程のさまざまのエピソードが、その『去来抄』にまとめられている。

芭蕉没後の去来は、師風の継承に心を砕いたが、健康がすぐれず、その精進の自負とは裏腹に、自らも師風血脈の格調の高さを失っていった。其角との間においても、1697年の「晋子其角に贈る書」という長文の手紙により、芭蕉の遺風を忘れ、新しみを追求する志を忘れ、いたずらに、大衆におもねていると一喝して対立した。この其角と去来の対立は、さらに、許六と去来との対立へと発展していった。

それは、去来が「不易流行」論の立場を堅持するのに対して、許六は「血脈論」と「取合せ論」とをもって蕉風の新しい発展を志すとすることとの対立でもあった。いずれにしろ、芭蕉の没後、其角は其角、去来は去来、許六は許六の、それぞれが、それぞれの信ずる道を邁進したのである。

4 十団子も小粒になりぬ秋の風 許六

Dumpling on a string:

They too are smaller this year------

The winds of autumn.

1692年の秋、彦根藩士森川許六は、参勤交代で江戸に赴く途中、東海道宇都谷峠(静岡県の岡部と丸子両宿の間)で、この句を得た。後に、許六は、「取合せ論」を主張することとなるが、この句も、伝統的な雅の「秋の風」と日常的な俗の「十団子」の絶妙な取り合わせにより、宇津の山の旅情のわびしさを具象化させたところに、この句の生命がある。

この句は、当時、ひたすら新風の「かるみ」の境地を目指していた芭蕉に激賞される。時に、芭蕉四十九歳、許六三十七歳の時であった。

この1692年の秋から翌年にかけての丸九ヶ月が、芭蕉と許六との画俳二道の直接的な交流の場であった。ここで、許六は、芭蕉の新風の「かるみ」が、「腸(はらわた)の厚キ所」(『俳諧問答』所収「自讃之論」)から出るものでなければならないと説いている。これが、後に、許六の「血脈(けちみゃく)論」(「風雅の誠」の精神を継承することが蕉風俳諧の神髄とする許六の論)とつながっていく。そして、この「血脈」継承のための実際的方法として許六が力説したのが、その「取合せ論」なのである。

芭蕉の没後、1696年に、李由と共編で『韻塞(いんふたぎ)』、その年から1698年にかけて去来と『俳諧問答』の応酬をし、1702年には、李由と共編で『宇陀法師』を刊行し、1706年には『風俗文選』を編纂した。そして、1712年には『正風彦根躰(しょうふうひこねぶり)』を成して刊行した。

許六が没したのは、それから三年後の1715年のことであった。

許六の『篇突(へんつき)』(1698年刊行)が、当時、生まれ故郷の長崎に帰っていた去来の所に届けられた。この許六の『篇突(へんつき)』に対して、去来は『旅寝論』(1692年)を著すのであるが、この『旅寝論』は、その去来の著より六十余年後の、1761年に、雪中庵蓼太(大島蓼太)の跋を添えて『去来湖東問答』として刊行される。その蓼太の伝える、芭蕉の門人評は、実に興味深いものである。

「花やかなる事、其角に及ばず。 名月や畳のうえに松の影からびたる事、嵐雪に及ばず。 梅一輪一輪ほどの暖かさほどけたる事、丈草に及ばず。 蚊屋を出て又障子あり夏の月かろき事、 野坡に及ばず。 長松が親の名で来る御慶哉 実なる事、 去来に及ばず。 応(おう)おうといへど敲くや雪の門」

さらに、その序には、

「あだなる事、 土芳に及ばす。 たくみなる事、許六に及ばず。」の去来の序も見られ

るのである。即ち、芭蕉の門人達、その一人ひとりが、芭蕉のそれぞれの一面を自分のものとしていったのである。しかし、芭蕉その人を、芭蕉の全体としての俳諧を自分のものとし、それを正しく後世に伝えた人も、さらには、芭蕉その人を乗り越えようとした人も、蕉門十哲の門人においても、また、二千人とも三百人ともいわれている、その門弟の中においても、その名を見ることはできないのである。即ち、芭蕉の前に、芭蕉なく、芭蕉の後にも、芭蕉は存在しないのである。

第8 俳諧の中興

芭蕉が没すると、幾つかのグループに別れ、やがて四分五裂の状態となっていった。芭蕉の直弟子達が世を去ると、その傾向は一段と顕著となっていった。十八世紀の最初の四十年、つまり享保の頃の俳諧は、もはや昔日の面影を失ってしまったのである。

わずか十七文字の中に芭蕉がこめた威厳も、あるいは崇高な世界像も、もう、そこには

見ることはできなくなってなってしまったのである。

即ち、俳諧は、さまざまな意味において俗化していったのである。もう、そこには、深い感動や伝統への志向を託そうとするような意気込みは見当たらず、ただ、十七字を操って何か面白みを出そうとするだけの技巧のみが必要とされたのである。

それは、別な言葉でいえば、俳人達の関心事は、俳諧そのものよりも、その俳諧の技巧がもたらすお金の方に関心が向いてしまったのである。弟子を取り、点者としての宗匠の収入を増やすことのみに関心が向いてしまったのである。即ち、点取り俳諧の横行である。

このような点取り俳諧の横行は、其角の流れを汲む江戸の洒落風に代表される都市俳壇と、支考らの美濃派や岩田涼莵( りょうと) らの伊勢派などの地方俳壇と分化していった。

そして、この都市俳壇は川柳的な傾向と一線を画するのが難しいところまで俗化していき、また、地方俳壇の方は、俗語などを用いての平明さを金科玉条し、これまた卑俗化の方向に堕していくのである。

1 低きかたへ水のあわつや初あらし 沾徳

Foam on the water

Floats towards the Awaze

shallows

The first autumn storm.

其角の次の江戸座の代表的な俳人の水間沾徳(1661~1726)の句である。芭蕉の前の時代の談林風俳諧の最悪の類型への逆行が感じられる句でもある。

琵琶湖は、粟津の辺りで最も浅くなるので、秋一番の嵐は、湖の水を方へ吹き寄せてい

るというのである。水の泡と粟津の粟との懸詞である。

この沾徳は、「芭蕉発句はよき句あれど薄し。薄き所を得たる作者也。しかれども其角が強き程の句に芭蕉は力及ばず」(『沾徳随筆』)と、もはや、芭蕉は批判の対象となり、其角が彼らの崇拝する俳聖と化しているのである。

2 凩の一日吹いて居りにけり 涼莵

The winter wind

For one whole day blew

And kept blowing.

一方、地方俳壇の方も、卑俗・平明への道へとひたすら歩むこととなる。この句は、伊勢派の岩田涼莵(1655~1717)の句である。しかし、この卑俗・平明さは、俳諧の地方への普及という面では大きな役割を果たしたのであった。また、都市風の機知的な気障な作風よりは、まだ救いがあるという感じがなくもないのである。

3 朝顔に釣瓶とられてもらひ水 千代女

The well-rope has been

Taken by morning-glories------

I’ll borrow water.

支考の門に、加賀の千代女(1703~1775)がいた。1754年に剃髪して素園と称した。この句は、千代女の代表作であるが、機才に溢れ、その情緒的な面とその通俗性が、女流作家として俳諧史上にその名を止めている。

4 炭竃(すみがま)や鹿の見てゐる夕煙 巴人

The charcoal kiln- - - - - -

A deer watches

The evening smoke.

早野巴人( 1 6 7 7 ~ 1 7 4 2 ) の句である。別号を宋阿・夜半亭などと称した。下野国烏山の生まれ、江戸に出て、俳諧を其角・嵐雪に学んだ。両師の没後、俗化のきざしが出始めていた江戸俳壇を離れ、京都に移り住んだ。この間、望月宋屋( そうおく)・高井几圭( きけい) らの優れた門人を得た。1 7 3 7 年の頃、再び江戸に帰り、夜半亭と号し、この頃、与謝蕪村(ぶそん)が巴人の門人となった。

巴人が、1 7 3 9 年に其角・嵐雪の三十三回忌を記念して編んだ『桃桜』には、宰鳥の号での蕪村の句が見られる。蕪村が、後年、芭蕉の『虚栗』・『冬の日』の俳風を慕い、芭蕉の真髄を探ろうとした見識は、その師・巴人によって養われたのであった。

清廉にして俗俳になじまず、享保過度期の俳壇にあって、よく伝統を守り、中興俳諧の

礎となった俳人であった。

ドナルト・キーンは、巴人を二線級の俳人としているが、同時に、巴人のこの句に「写生」があるとし、この「写生」が、「明治期に入ると、俳句の優劣、とくに中興期俳諧の作品や作家の優劣の物差しとして重要視されるようになった」と指摘している。

いずれにしろ、芭蕉、そして、その後の蕪村をつなぐ接点に、この巴人の介在が必要と

されたのである。

5 柳ちり清水かれ石ところどころ 蕪村

Willow leaves have fallen,

The clear stream dried up,and

stones.

Are scattered here and there.

蕪村開眼の一句である。俳諧中興の中心となった蕪村( 1 7 1 6 ~ 1 7 8 3 ) は、芭蕉につぐ第二のは俳聖とそれている。大阪の毛馬村の出身とされているが、その生い立ちは定かではない。

蕪村は、生涯を通じて画人として知られることが多く、その生計も画業の方から得ていた。蕪村は、終生、芭蕉崇敬の念を持ちつづけるが、芭蕉的な求道的・献身的な、ただひたすら俳諧という道は歩まなかった。蕪村の態度は、むしろディレッタントのそれで、ただ極めて優れた俳力に恵まれたディレッタントだったのである。

「芭蕉と蕪村の相違は、なによりも両者の個性の差に由来する。芭蕉は、現実の積極的肯定によって貫かれた元禄の時代に生きたが、彼の詩精神は中世的、とりわけ西行や宗祇に近く、生活もまた中世の隠者のそれに近かった。一方の蕪村には、このような中世の吸引力がまったく認められない。彼は漢詩趣味、王朝趣味を愛し、俳画の中に捕えうる造形美への陶酔を持っていた。蕪村の宗教観は、芭蕉のような禅的直観力の中にはなく、むしろ狐狸の力への信仰の中にもっとも端的な表現をとっている。芭蕉には敬意を払いながらも、蕪村はついに自己を蕉風に同一化しようとはしなかった。」(ドナルト・キーン)

この蕪村の遊行柳の句は、その二十八才の頃の句であるが、西行を慕い(道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ)、芭蕉の『おくのほそ道』を慕い(田一枚植て立去る柳かな)、その師・巴人の「写生」を基礎に置き、詩性(漢詩的な詩心)をありのままに表現する蕪村俳諧の開眼の一句なのである。

6 絶頂の城たのもしき若葉かな 蕪村

On the pinnacle

The castle stands,confident,

Among strong young leaves.

「蕪村と現代人のあいだを遮る障害はなに一つない。現代日本文学中の最高の詩人であ

った萩原朔太郎が、江戸期俳人の中で蕪村だけに親和を感じ、彼の情操を『或る新鮮な、浪漫的な、多少西欧の詩と共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる』としているのも、この親密を評価したものである。朔太郎は、蕪村の句の色彩の調子(トーン)の明るさと光の強烈さに印象派絵画への近似を発見し、若々しさと色彩を避けた芭蕉との対比において蕪村の若さを高く評価している。」(ドナルト・キーン)

この句も、城の白い壁と若葉の緑の視覚的なコントラストは、実に鮮やかである。上五

の「絶頂の」という強烈な句頭が効果的で、画人・蕪村の確かな写生眼を感じさせる。

7 遅き日のつもりて遠きむかしかな 蕪村

Long,slow spring days,

Piling up,take me far away

In the past.

「朔太郎が『浪漫的』と観じたこの句の調子は、繰り返される『O』の音、とくに『遠

き』の長母音により、いっそう明確にされる。遅々とした春の日がようやく傾く中で、ひとり白日夢の中にわれを忘れる蕪村の心は、遠い昔、おそらく彼が愛した平の昔へ、さまよい出でていくのであろう。」(ドナルト・キーン)

この句は、「懐旧」という前書きがついている。蕪村には、往時を追憶する作品が多いのであるが、この句も、白日夢のような夢想をさまようような句想であろう。それよりも、暮れおそい春の日の、身も心もけだるい、老の憂さ(アンニュイ)を感じさせる蕪村特有の句作りでもある。

8 さみだれや大河を前に家二軒 蕪村

The rainy season・・

The swollen river before them,

Two little houses.

「この句、渦巻き流れる濁流の岸にぽつんと置かれた二軒の家を、まざまざと眼前に点

出する。現代の蕪村研究家たちは、家は一軒でも三軒でもなく、どうしても二軒でなければならぬ点を指摘し、作者の技巧を高く評価している。しかし、この句がどれほどの感銘を与えても、そこには蕪村の心を占めてたはずの悲痛の情は、片鱗さえも見出すことができないのである。」(ドナルト・キーン)

「五月雨をあつめて早し最上川」は、芭蕉の『おくのほそ道』での句、この芭蕉の躍動的な調べに対して、蕪村のそれは、映像的な絵画的な視覚に訴える句作りである。ここに、決定的な両者の詩質の相違がある。

9 涼しさや鐘を離るる鐘の声 蕪村

The cool of morning------

Sparating from the bell,

The voice of the bell.

「このような句材、このような句境こそ、蕪村が俳諧の領域なりと信じたものであった。もし芭蕉が、このときの蕪村と同じ貧乏と家庭悲劇に襲われていたと仮定すれば、芭蕉は必ずやその逆境の中に沈潜し、ついには暗黒の中に一条の光明を発見しえたことであろう。だが、蕪村にとっては、俳諧そのものが光明であり、同時に情容赦のない現実からの逃避先であった。彼がとなえた離俗論が実際に意味していたのは、現実世界の暗さから目をそむけ、感覚世界の中に遊ぶ態度にほかならなかった。蕪村の句は、それが成立するに至った背景をほとんど考えることなしに鑑賞することができる。芭蕉の句は、それを年代順に並べ、旅行記その他の記述に照し合わせながら見ることによって、芭蕉という人物の偉大さを、人はそれぞれに受けとめうる。それに反して蕪村の句は、一句ずつ切り離しても、あるいは夏月、薫風、雲の峰などの季題ごとに分けて読んでも、年代順に見るのと同じ感銘を味わうことができる。」(ドナルト・キーン)

蕪村の句を味わうことの第一歩は、蕪村がその句を作った時の状況に自分を置いてみることである。ただ、それだけの所作で、蕪村の句境というのが伝わってくる。「鐘の音がする。その鐘の音を聞いていると、その鐘の音が、段々と小さくなっていく。その音の波紋、それは涼しい夏の朝の空気の波紋を暗示している。」

この句の主題は、上五の「涼しさや」にあるのだろう。

10 離別(さら)れたる身を踏込(ふんごん)で田植哉 蕪村

The divorced woman

Plunges into the paddies・・

It’s rice-planting time.

「夫に去られた女が、自分の感情を押し殺して泥田の中につかり、苦しい労働に耐えて

いる。村のつきあいとはいえ、前夫の田植を手伝わねばならない気持。蕪村は同情をあわれな女に注いでいる。なんの注釈を加えられなくとも、あわれな情景は十分に表現されている。」(ドナルト・キーン)

森本哲郎著『月は東に 蕪村の夢漱石の幻』で漱石の次の一句が披露されている。

忘れしか知らぬ顔して畠打つ 漱石

11 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉 蕪村

To the Toba Palace

Five or six horsemen gallop

In the autumn wind.

「とりたてて特定の史実を想定しての句ではなかろう。騎馬武者が五六騎、野分をおし

て鳥羽殿へいそいでゆく。彼らが疾駆し去ったあとも疾風はなお吹きつのっている。中世の、物語を孕んだ一情景である。」(ドナルト・キーン)

蕪村の、大きく全体の構図を一筆で描く技法である。保元の乱の中世の絵巻物を描くつ

もりで一句に仕立てているのだろう。「五六騎」という具体性を帯びさせるための技法も、蕪村特有の描写である。

12 御手討の夫婦なりしを替衣(ころもがへ) 蕪村

They should have been killed,

But became husband and wife,

And now change their clothes.

「お手討になるところだった、というのだから、何かの罪を犯したにちがいない。どん

な罪だったのであろうか。公金を使いこんでしまったのか、それとも不義を働いたのか。たぶん、お家の御法度である不義によって、お手討になるべきところを、特別のはからいで一命を助けられ、追放ですんだのであろう。そのような過去を持つ男女が、いまは夫婦になってひっそりと暮らしている、というのである。ぼくは、この句をそう解する。折りしも、衣がえの季節。さっぱりとした衣に着がえて、身も心も軽くなった気持ちずする。出世の望みは絶たれ、暮らしもけっして楽ではあるまい。その上、この二人には、お手討になりかけたという暗い過去がある。だが、その過去のゆえに、二人はいっそう強い愛情の絆で結ばれている。苦しくても、愛情がそれをつぐなって余りあろう。二人はことあるごとに、それを確認し合いながら生きている。衣がえが、さらに蘇生の喜びを二人に、しみじみと感じさせたことであろう。わずか十七字のなかに、こうした人生のドラマを、さりげなく盛りこんだ俳人ぶそん力倆には、ただ感嘆するほかはない。『御手討の夫婦なりしを』・・これだけで蕪村は一編の小説を書いたのだ。しかも、この“小説”は読者に想像の自由を許している。二人の身の上をどのように思い描こうと、それは鑑賞者の自由である。そして、その自由を駆使して、じっさいに一編の小説をつくりあげたのが、明治の作家、夏目漱石だった。漱石の作品『門』が、それである。」(森本哲郎・『月は東に 蕪村の夢漱石の幻』)

この句の主題も、下五の「衣替」という季題にある。蕪村の作句姿勢は、この「季題中心」にある。

13 さしぬきを足でぬぐ夜や朧月 蕪村

This night the young noble

Kicks off this trouser-skirts

Under the misty moon.

「王朝の貴公子は、おぼろ月を踏んでわが宿に帰った。きっと、だれか女人を訪ねてき

たのであろう。倦怠・・あるいは微醺のせいか、指貫を脱ぐのももの倦い。じだらくに足で脱ぎ棄てられた衣は、床の上に落ちている。この浪漫的な調子は、芭蕉の句にはないものである。芭蕉も蕪村も、俳句が題材とすべきものの限界については、それぞれに確固たる認識を持っていた。だが、蕪村にとっては、俗を去ることは、必ずしも浪漫の情を避けることとは同義ではなかったのである。」(ドナルト・キーン)

平安朝の絵巻物の一つか。「朧月」からして、『源氏物語』の朧月夜の濡れ場の一情景かも知れない。自堕落な物憂い動作のも、蕪村の句作りの一つである。

14 愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら 蕪村

Prey to melancholy,

I climbed the hill and found

Briar roses in bloom.

愁ひ来て 丘にのぼれば

名も知らぬ 鳥 啄(ついば)めり

赤き 茨(ばら)の實 啄木

蕪村から百五十年後の、石川啄木の『一握の砂』の歌である。「『愁ひつゝ』という言葉に、無限の詩情がふくまれている。無論現実的の憂愁ではなく、青空に漂う雲のような、または何かの旅愁のような、遠い眺望への視野を持った、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐な野性の姿が、主観の情愁に対象されている。西洋詩に見るような詩境である。気宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れている。」 (萩原朔太郎・『郷愁の詩人 与謝蕪村』)

蕪村(1716~1783)は、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)の生まれ、若いころ江戸で過ごし、さらに、結城・下館・宇都宮を始め芭蕉の『おくの細道』行脚を決行し、かれこれ十年にわたる東国を放浪したあと、京都に定住し、画家として名を馳せていた。俳諧においては、芭蕉の風を慕い、その復興を志し、そして、印象鮮明な情感豊かな独自の世界を切り開いた。師の早野巴人(宋阿)の夜半亭を継ぎ、中興俳諧運動の中心的な存在でもあった。『芭蕉翁付合集』(1776年刊行)、『夜半楽』(1777年刊)、『花鳥扁』(1782年刊)などの編著があり、没後には、几菫編『蕪村句集』(1784年刊)、句文集『新花摘』(1797年刊)などが刊行されている。

15 夕風や水青鷺の脛をうつ 蕪村

The evening breezes,

And water splashes against

The blue heron’s shins.

「一見すると、情景を客観的に描写しただけという印象を与える句である。暑い一日も

ようやく暮れようとする一刻、微風が立って水面にさざ波ができ、それが鷺の足をうっている。だが、その鷺とその脛は、たとえ間接的であっても、漢詩的なイメージを持った詞である。また、蕪村は1777年に書いた手紙の中で、上五の『夕風や』が、特別に『たけ高く清雅なる』調子を句に与えているのだと説明している。深まりゆくたそがれの中で、鷺は身じろぎ一つせず、帝王のように立ちつくしているのである。」(ドナルト・キーン)

中興俳諧の流れというのは、蕪村一人の句業の展開を見ていけば、ほぼ十分なのであるが、しかし、「芭蕉に帰れ」と芭蕉に目を向けた有力俳人が、この蕪村と同時代に期せずして輩出したのであった。

炭太祇( たいぎ・1 7 0 9 ~ 1 7 9 1 )、大島蓼太( りょうた・1 7 1 8 ~ 1 7 8 7 )、高桑闌更( らんこう・1 7 2 6 ~ 1 7 9 8 )、三浦樗良(ちょうら・1729~1780)、加藤曉臺( きょうたい・1 7 3 2 ~ 1 7 9 2 )、加舎白雄( しらお・1 7 3 8 ~ 1 7 9 1 )らであった。

これらの中興俳諧期の傑出した俳人達の活動は、芭蕉がその足跡と門弟を残した地域を中心に、全国各地に及んでいた。彼らは、江戸なり美濃、加賀なりに、それぞれの門弟を有していたが、俳諧中興の最大の拠点は、蕪村、太祇、闌更、曉臺らの居を構えていた京都であった。そして、これらの俳人の中での最長老は、太祇であった。

16 橋落ちて人岸にあり夏の月 太祇

The bridge has fallen,

And people stand on the banks

Under the summer moon.

太祇は、江戸の生まれで、江戸座の雰囲気の中で俳諧に身を染めていった。

稲津祇空(ぎくう)に師事した慶紀逸(きいつ)の門に入り、その太祇の号は、その私淑した祇空に由来があるのだろう。そして、その祇空は、『五色墨(ごしきずみ)』の連衆を指導して蕉風復帰を助長したことで知られている人である。その号の由来は、連歌師・宗祇にあるのであろう。

また、紀逸も高点付句集『武玉川(むたまがわ)』初編を出版した俳人で、川柳への道筋を開いた一人でもあるが、一方、『芭蕉翁行状記』を復刻するなど、蕉風俳諧の良き理解者でもあった。

太祇のこのような師筋からいっても、太祇は、人事趣味を得意とし技巧的な趣向の面白さをその句風としているが、蕉風俳諧にも極めて近い俳人でもあった。この句も、複雑な情景を巧みに描写して、その寸景の中に自然の荒々しさとやさしさをあざやかに集約して、その緻密な写生眼は見応えがある。

17 ふりむけば灯とぼす關(かん)や夕霞 太祇

I look behind me:

At the barrier,a light

In the evening mist.

蕪村が京に移住したのは、1751年の頃であるが、ほぼ時を同じくして太祇も京に移り住んだ。時に、蕪村は三十六歳、太祇は四十三歳の頃であった。太祇は、島原遊廓の妓楼桔梗屋の主人呑獅(どんし)の援助を得て、その遊廓の中の不夜庵に移り住む。ここで、妓楼の連衆に俳諧の指導をするとともに、手習師匠のような役をしていたのであろうか。

この句は、その頃の島原遊廓の寸景であろう。その不夜庵の主になっても、歌酒に溺れることなく、つねに風雅の俳諧の中に身を持していた太祇が彷彿としてくる。

18 寝よといふ寝ざめの夫(つま)の小夜砧(さよぎぬた) 太祇

“Let’s get to bed”says

The husband who’s been wakened:

Fulling-block at night.

太祇は、蕪村を中心とする京都俳壇の俳諧中興運動の高まりに乗じながらも、その中途にあって世を去っている。太祇が蕪村一派の三菓社に参加した頃は、1776年の頃で、蕪村五十一歳、太祇はすでに五十八歳の晩年でもあった。しかし、この両者の出会いは、その両者の俳諧の質を自ずから高めるという結果を生み出すのであった。

蕪村はゆたかな詩情をほしいままにし、非現実の美しい白日夢を演出した類稀なる俳人

であった。それに比して、太祇はつねに日常の身辺の些事の俗情に則して、その俗情にひそむ美の機微を探り当てようとした、これまた類稀なる俳人であった。

この太祇の句は、十七字の中に一つの物語を盛り込み得たという点で、蕪村の絵巻物の句とは別な観点で、その類似性とその感性の密度の濃さを教示している。

19 初恋や灯籠によする顔と顔 太祇

First love!

They draw close to the lantern,

Face next to face.

燃立(もえたち)て貌(かほ)はづかしき蚊やり哉 蕪村

この蕪村の句は、明らかに太祇の句を意識している句であろう。蕪村の句を一句一句吟

味していくと、多くのことを太祇から学んでいることが伺える。太祇の心情の襞を感性で内観する句作りは、その素直な句境の広さと深さは、蕪村に優越するものが感知される。蕪村の本性というものは、ともすると耽美主義・貴族主義の傾向が強いのであるが、太祇は、その蕪村とは正反対に俗情を愛しつつ、その俗情のままの市井趣味に徹した俳人でもあった。この点で、蕪村は太祇を常に兄事ていたことも、蕪村と太祇の交友関係から伺えるのである。

20 山吹や葉に花に葉に花に葉に 太祇

Kerria roses!

Leaves and flowers and leaves

and

Flowers and leaves and ・・

太祇の名人芸である。太祇は、しばしば、この種の同語反復や並列句による機知的な句作りを試みている。咲きこぼれる山吹の花を詠んで、あざやかな効果を上げている一句と解せられる。『太祇句選』の序で、蕪村は太祇について「かりにおこたりすさむべからずとて、仏を拝むにもほ句し、神にぬかずくにも発句せり」と記している。凄まじい俳諧修行の日常三昧であったのである。太祇の句からは、その推敲苦心の跡は些かも詠み取れないが、その作句姿勢は沈吟推敲の限りを尽くしたという。 蕪村は、この太祇に絶大な信頼を置いていた。その俳詩『春風馬堤曲』の結句に、太祇の句を引用している。

藪入りの寝るやひとりの親の側 (太祇)

21 五月雨やある夜ひそかに松の月 蓼太

All the rains of June:

and one evening,secretly,

through the pines,the moon.

この訳は、ドナルド・キーンの訳ではなく、ハロルド・ヘンダーソンの訳とのことである。嵐雪の流れを汲む雪中庵二世吏登に師事し、後に、雪中庵三世を継承することとなる。『藤衣』によれば、蓼太門には、文台を許す者四十余人、門人二千余人、編集二百有余部という。蓼太こそ、その時代にあって、俳諧中興期の第一人者として名を馳せていた中心人物であった。

蕪村の俳風が、高踏的・孤高的な一面を有していたことに対比して、蓼太の俳風は、平明さと通俗性を持ち、連句を得意としていた。このことからか、明治になって、正岡子規が『俳人蕪村』を著すまでは、俳人・蕪村は影を潜め、この蓼太こそが、当時の俳諧の寵児であったのである。

これらの一旦中興期を経た俳諧も、1783年の蕪村の死とともに、たちまち、その終焉を迎えていった。夜半亭二世・蕪村の没後、その夜半亭を継承した高井几菫(きとう)が、1789年、四十八歳でに亡くなると、その夜半亭一門の俳諧は後継者を失ったのである。

信州上田の出身の江戸で春秋庵を開いた白雄も1791年に没した。名古屋俳壇の雄であった曉台も、その翌年の1792に亡くなった。この曉台が蕪村に始めて出会った1774年の頃が、丁度、この中興俳諧運動の頂点であったのかも知れない。この時の、蕪村門と曉台門の歌仙が今に残されている。

また、中興の俳壇を蕪村と二分し、その東を代表した当時の俳諧の寵児・蓼太も、1 787年に、七十歳の生涯を閉じた。こうして、俳諧の中興期は終わりを告げたのである。