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『奥の細道』は歌仙の旅だった

2020.12.11 02:07

https://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/a785cf2cc1e3665b3d788e09f01cc020  【『奥の細道』は歌仙の旅だった─島居清の『芭蕉連句全註解』(全11巻)を読みつつ text 258】より

弟子の河合曾良を伴っての芭蕉の「奥の細道」行は、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に始まる。江戸・深川の採荼庵を出発し、全行程2400km、約150日をかけて、東北・北陸を旅した。「奥の細道」では、旧暦8月21日頃、大垣に到着するまでが書かれている。この芭蕉の「奥の細道」に関する書籍に関しては、今までに夥しい数が出版されていて、新刊書店や古書店に行けば、その賑わいぶりに圧倒されてしまう。

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅(べっしょ)に移るに、<草の戸も住み替はる世ぞ雛の家>、表八句を庵の柱に掛け置く。

1997年に岩波書店より、芭蕉自筆本の『奥の細道』が出版され、筆者もこれを所有する。切ったり貼ったりしての、相当手のこんだ芭蕉自筆本を時々取り出しては、これを眺める。すぐそばに芭蕉の息遣いが聞こえるようで、そのつど緊張感に震える思いがする。精神性の勝る芭蕉独特な文体は、『幻住庵記』にも通じるもので、さすがと思わざるをえない。とはいえ、「そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて…」というようなところを読むと、いささか「貧乏たらしく」も求心性のある、その独自な書きぶりに苦笑せざるをえないときもあるのだ。芭蕉の起筆の冒頭のこの文章において、筆者がいつも注目するのは「<草の戸も住み替はる世ぞ雛の家>、表八句を庵の柱に掛け置く」のところ。歌仙であれば「表八句」ではなく「表六句」となる。「表八句」は100韻形式のもの。やはり芭蕉は正式の100韻形式に敬意を表していたのだろう。それにしても「発句」と書かずに、「表八句」と書いたところは、十分注意して読まなければならない。

江戸から大垣までの『奥の細道』のプロセスで行った歌仙は、未完(3句、4句、表6句、半歌仙、二十句、二十六句など)のものも含め、30回以上あり、そのうち36句が満尾したものは、15回ある。また44句(しおらしき)と50句(ぬれて行や)もあって、非常に多彩な連句興行を実施している。満尾した歌仙は「かげろふの」(江戸/2月7日)、「秣おふ」(黒羽/4月14日)、「風流の」(須賀川/4月22日~23日)、「かくれ家や」(須賀川/4月24日)、「すずしさを」(尾花沢/5月中下旬)、「おきふしの」(尾花沢/5月中下旬)、「さみだれを」(大石田/5月29日~30日)、「御尋に」(新庄/6月2日)、「有難や」(羽黒/6月4日~9日)、「めづらしや」(鶴岡/6月10日~12日)、「温海山や」(酒田/6月19日~21日)、「忘るなよ」(酒田/1692年までに完成)、「馬借りて」(山中温泉/7月末から8月上旬)、「あなむざんやな」(小松/8月上旬)、「はやう咲」(大垣/9月4日)。

15回の歌仙で芭蕉が発句を詠んだのは、<かげらふのわが肩に立かみこかな>(江戸)、<秣おふ人を枝折の夏野哉>(黒羽)、<風流の初やおくの田植歌>(須賀川)、<かくれ家や目立たぬ花を軒の栗>(須賀川)、<すずしさを我やどにしてねまる也>(尾花沢)、<さみだれをあつめてすずしもがみ川>(大石田)、<有難や雪をかをらす風の音>(羽黒)、<温海山や吹浦かけて夕涼>(酒田)、<あなむざんやな冑の下のきりぎりす>(小松)、<はやう咲九日も近し宿の菊>(大垣)の10句であった。このうち、『奥の細道』に掲載されたのは、<風流の初やおくの田植歌><すずしさを我やどにしてねまる也><さみだれを集めて早し最上川>(推敲句)<有難や雪をかをらす南谷><温海山や吹浦かけて夕涼>の5句で、きわめて厳選である。

芭蕉の『奥の細道』行は、①歌枕をたずねる②謡曲の関連地を見る③能因・西行の跡をたずねる④義経の古跡を見る─の四つが主な目的であり、そのためには各地の人の協力が必要だった。マネージャー役に曾良を任命し、芭蕉たちの二人三脚は「連句興行」を連続的(断続的)に行い、その目的を完遂した。「連句興行」を行うことにより、基本的に150日間の衣食住が保障されたのである。もちろん二人は、そのつど何がしかの「鳥目」(ちょうもく=金銭)も受け取ったはずだ。精神性のきわまる芭蕉だけれど、こうした世故に長ける合理的なソツのなさも、超一流だった。「聖人芭蕉」というイメージが世の中に構築されて久しいが、「悪党芭蕉」ほどではないにしろ、客観的総合的に芭蕉を解析する眼は必要だろう。

ところでこのほど筆者は島居(しますえ)清の『芭蕉連句全註解』(全11巻/桜楓社)を、神田の某古書店にて手に入れた。ちなみに島居清は、大正3年(1914年)広島県生まれ。京都大学国語国文学科を卒業し、のち親和女子大学教授を務めた。労作『芭蕉連句全註解』は、『芭蕉全集』(全11巻/富士見書房)の中の『芭蕉連句篇』(第3巻~第5巻)と並んでの必読書だろう。二つのシリーズを中心に、初秋(9月又は10月)に始まる「ぶるうまうんてん歌仙」(前半開催)の「芭蕉の100韻を読む①─あら何共なや(延宝5年)」の読書会(勉強会)の準備をしたい。写真は満開になった、筆者宅の白の百日紅。

二の腕と聴く一の糸百日紅  須藤 徹

*本稿では、『おくのほそ道』ではなく、『奥の細道』に統一しました。