論語読みの論語知らず【第73回】 「之を道(導)くに政を以てし、之を斉うるに刑を」
90年代の半ば、10代の後半にローマクラブの「成長の限界」(1972年)を読んだ。報告当時の状態のままで成長が続けば、100年以内に地球の成長は限界に直面するとの内容で世界を震撼させ、発刊から20年以上の年月が経ってから私は読んだのだが、それでもショックを受けたのを強く覚えている。この本が環境と開発といった問題について深い関心を持つきっかけを与えてくれ、結局のところ大学でも環境経済学を副専攻として学ぶことになった。
「成長の限界」が出された1972年は、国連が環境と開発といったものを紐づけて初の国際会議を催された。国連人間環境会議、俗にストックホルム会議と呼ばれるが、当時はまだ冷戦の真っ最中で参加国は限られたものの経済開発が与える環境問題について如何に向き合っていくかは人類共通の課題として取り上げられた。92年にはブラジルのリオデジャネイロで国連環境開発会議(地球サミット)が催され開発と環境を分けられないものとして考えられ、「持続可能な開発」といったコンセプトが重要視された。なお、この会議の報告書で「持続可能な開発」を「将来の世代のニーズを充足する能力を損なうことなしに今日の世代のニーズを満たしうるような開発」と定義された。その後2000年のヨハネスブルクサミットを経て、2012年に再びリオデジャネイロで開かれた「リオ+20」サミットあたりから、今日われわれが耳目にするのが多くなった「SDGs」(持続可能な開発目標)が産声をあげることになった。
国、地方自治体、一般企業などが今日主体的に取り組んでいる「SDGs」の様々なプロジェクトはグローバルからローカルなものまでその範疇は多岐にわたるのだが、このように裾野が拡がってくるとは環境経済学を学んでいた大学時代にはまったく思わなかった。留学当時、課題として出されたレポートをまとめるため色々な資料、報告書、論文などを読み進めるほどに開発のニーズと環境のコストの厳しさを知って暗澹たる気持ちになったのを今でも鮮明に覚えている。当時の担当教授はニザラマサンガ博士といってアフリカ出身の先生で、その英語アクセントがかなり強く独特で聞き取りには苦戦したものだ。だが、指導熱心な先生で、同時に留学生には優しかったので私なりに一生懸命に取り組んだ。大学卒業後、この領域を活かせる仕事を一時考えたが、結局のところ鉄鋼をメインとする商社に就職したことであまり環境問題に関心を払う時間を持てなくなった。そこから10年以上が過ぎたときには、地道に研究研鑽を続けていた「孫子」「戦争論」(クラウゼヴィッツ)などの翻訳や拙著の出版を機に、自衛隊で古典戦略・国防論などの講義を持つことになった。以来、自衛官たちとの交流を奇貨として安全保障といった領域にも強い関心を持つことで、国際関係を国と国という枠組みで物事を捉えて考えることもわりと多くなっていた。
だが、今新たな仕事の関係で改めて「SDGs」について学び直す機会に恵まれており、その流れで世界、国、公的機関、民間企業、個人との関係や兼ね合いの在り方についていろいろと考え直している。とりわけ「SDGs」の考え方や進め方が興味深いのだ。17の目標と169のターゲットからなる「SDGs」は2030年までにそれらを達成することを目指している。目標はどれも「貧困をなくそう」「飢餓をゼロに」「すべての人に健康と福祉を」「質の高い教育をみんなに」「ジェンダー平等を実現しよう」「安全な水とトイレを世界中に」・・「平和と公正をすべての人に」「パートナーシップで目標を達成しよう」・・など平易な言葉で並べられている。国、地方自治体、企業、個人などがそれぞれの立場で出来る領域から取り組むこの「SDGs」には、目標はあってもそれを達成するための手段についてはルールがない。いうなれば自由かつ柔軟にやって目標を達成すればよいということだ。私が大学で学んでいた頃は国を跨ぐ環境問題では条約や議定書などでガチガチに如何に縛るかがポイントであり、そこに至るまでも利害が複雑に入り乱れての交渉と調整があるのを知ったが、それらとはまったく異なるアプローチなのだ。そして、「SDGs」には目標とターゲットがあるが法的な縛りはなく罰則もなく、繰り返すがそれぞれが創意工夫を凝らして自由に努力してくださいとの在り方なのだ。各主体の努力と善意に期待するやり方で果たしてうまくいくのかとも思うが、発表されているデータや指標数をみれば日本はそれなりに健闘しているともいえる(もちろんこれで充分ということではない)。ちなみに達成進捗の上位は北欧諸国が目立つ。このようなアプローチと進捗を見ていて論語の一文を思いだした。
「子曰く、之を道(導)くに 政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民 免れて恥無し。之を道くに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格(正)し」(為政篇2-3)
【現代語訳】
老先生の教え。行政を法制のみに依ったり、治安に刑罰のみを用いたりするのでは、民はその法制や刑罰にひっかかりさえしなければ何をしても大丈夫だとして、そのように振る舞ってなんの恥ずるところもない。(しかし、その逆に、)行政を道徳に基づき、治安に世の規範(礼)を第一とすれば、心から不善を恥じて正しくなる(加地伸行訳)
物事を進めていくなかで厳しいルールと手法だけに頼るのが智恵ではなく、各個がもつ善良な主体性とモチベーションを如何に引き出して手段に繋げてカタチにしていくか。人間は古来そちらの方面にも期待はしてきた。そしてたくさんの失敗もしてきている。ただ、この理想主義的に聞こえがちなものを現実にトライさせ2030年を目指して漸進する「SDGs」を注視していたい。国連や国家の権威や権力だけに頼らずに、もっと小さな共同体や人間関係を主体として創意工夫と善意でもっての取り組みが、わかりやすい目標のもとに共有される。この理念と行動に敬意を払いつつ自らもまたどのようにコミットするかを考えている。個人的には来年の課題のひとつだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。