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のらくらり。

天才数学教授の弟と、名探偵が認めた相棒

2020.12.11 09:15

「二人の探偵」後、ジョンがルイスを見つけてカフェでお茶するお話。

ウィルイスとシャロジョン前提で、ルイスがジョンを見極めようとするけど上手くいかずに翻弄されてる。

もっとほのぼのさせたかったけどほのぼの要素薄くなってしまった、残念…


「ではドイル先生、来週のサイン会よろしく頼みましたよ!」

「はい!直接読者の声を聞けるチャンスですからね、僕も楽しみにしています」


ベーカー街221のB。

ここには世界唯一の諮問探偵、シャーロック・ホームズが居住を構える住まいがある。

彼は警察だけでなく英国各地から難事件の解決を依頼されるため、シャーロックは常にこの応接間でジョンとともに依頼人からの話を聞いているのだ。

…ということは滅多になく、むしろシャーロックを主人公に据えおいた書籍、「緋色の研究」の著者たるジョン・H・ワトソンと担当編集の打ち合わせの場に使われることが多かった。


「いやぁ、サイン会の申し込みが抽選になるだなんて前例ないんですよ!また重版が決まりましたし、連載も順調ですし、我が社としても助かります!」

「僕もたくさんの人に読んでいただけているのなら嬉しいです。サイン会では是非皆さんにお礼を伝えたいですね」


今日も今日とてジョンは担当である男性とともに、来週に控えた初のサイン会についての打ち合わせを終えたところである。

勿論シャーロックへの依頼を持ち込んだ人間が来ればすぐ場を明け渡すつもりではあったが、その心配は杞憂だったらしい。

自室に篭り切って夜通し何かの実験をしている相棒を思い浮かべ、ジョンは無意識に視線をそちらへ向けていた。

そういえば彼は昼食を食べていなかった気がするけれど大丈夫だろうか。


「それでドイル先生、次回作の構想は決まっているんですか?」

「書きたい長編はあるんですが…書くにはいくつか条件がありまして」

「条件?僕に手伝えることがあれば手伝いますが」

「あぁ大丈夫です。これは僕の方でどうにかしなければならない問題なので」

「そうですか。何かあれば教えてくださいね」

「えぇ、是非」


出した紅茶と菓子を綺麗に食べ終えて頭を下げた編集を見送り、ジョンは次回作についての構想を練ろうと頭を働かせる。

ジョンが書く作品は勘違いされやすい相棒の真の姿を多くの人に知ってもらうため、主人公は全てシャーロックと決めている。

彼が解決した事件を元に娯楽小説として書き上げ、シャーロックの名探偵ぶりを世に知らしめる。

偏屈ではあるが最高に格好良い相棒を、そうやって認知してもらうことこそがジョンの目的だ。

長編である処女作「緋色の研究」に始まり、いくつかの短編小説も世に発表している。

既に目的は達成されているようなものだが、忘備録も兼ねて作品として残しているため創作意欲が尽きることはないのだ。

そんな中、今のジョンは書き上げたいと望む題材の事件があった。

シャーロックが求める極上の謎を含む事件はそう多くはないけれど、ちょうどつい先日、密室での殺人という謎に満ちた事件と遭遇したばかりである。

謎自体はシャーロック曰く「大したことねぇ」らしいのだが、その事件ではジョン本人が容疑者として逮捕されかかったのだ。

前後の仲違い含め、思い入れはとても大きい。

だからこそあの列車内での密室殺人を題材にした作品を書き上げたいと考えているのだが、ここに一つ大きな問題が生じていた。

あの事件では相棒たるシャーロックだけでなく、事件解決に至るまでにもう一人の人間が関わっている。


「…やっぱり、モリアーティ家の人間に許可を貰わないことには書くことは出来ないな」


あの列車内で無実のジョンを救ってくれたのはシャーロックだけではない。

モリアーティ伯爵家の次男であるウィリアムという人間もジョンを助けてくれたのだ。

当然そんな目的はなかっただろうけれど、それでも結果的に助けられたのだから彼はジョンにとっての恩人である。

ジョンが描く作品はシャーロックが主人公なのだから、たまたま助けてくれた人間のことはスルーして良いのかもしれない。

だが、自分にとっての恩人を無くしてシャーロックだけを飾り立てると言うのもジョンの主義に反するのだ。

可能であるならばあのウィリアムという彼も登場させた上で作品を書き上げたい。

けれどそれには彼が持つ爵位がネックになっていた。

シャーロックならば事後報告でも構わないと「緋色の研究」を書いた後で本人に伝えたが、さすがに初対面の人間、しかも伯爵家の人間という地位を持つ彼を勝手に描いたとあっては後が面倒だ。

単なる一般人ではないし、そうでなくともさほど関係の深くない人間を登場させた小説を書くなどという無礼が出来るはずもない。

あのときのシャーロックはとても理知的で格好良かったし、あの姿をもっとたくさんの人に知ってもらいたいのだが、きっと叶わないのだろうな。

ジョンは気落ちしたように大きな息を吐き、謎の爆発音がしたシャーロックの部屋へとノックもなしに入り込んだ。




そうしてやってきたサイン会当日。

ジョンはたくさんの読者と触れ合い、読んでくれたことへの感謝を直接伝えることが出来て満足な時間を過ごしていた。

謎に満ちた事件や解決に至るまでの描写に対する多くの賞賛よりも、「シャーロックが格好良い」という素直な感想こそジョンは嬉しく思う。

今日も直接その声を多くもらったけれど、その都度「そうでしょう、シャーロックは格好良いんです!」と声高々に自慢したくなるのだ。

自慢の相棒の活躍、たくさんの人に知ってもらえて楽しんでもらえているのなら何も言うことはない。

だがシャーロックを褒め称えるには時間が足りなくて、だからかろうじてそれは耐えたというのに、ジョンのそんな苦労も知らず担当編集はジョン以上に主張強く出しゃばっていたのが今日一番の謎だろうか。

著者よりも早くに礼を言っては次回作も期待していてほしいと読者にアピールする彼の姿は、一体どっちが作者なんだとジョンがジト目になってしまうほどだ。

けれど悪気はないのだし、熱心でアグレッシブなところも好ましいと思うから、ジョンは彼に続いて読者への感謝を伝えていた。

一時間程のサイン会を終え、今後についての簡単な打ち合わせを済ませた後は自由の身だ。

後でシャーロックと合流して外で夕食を食べる約束をしているが、おそらく迎えにいかなければ彼はやってこないだろう。

それまで時間を潰しているかとジョンが周囲を見渡し、雰囲気の良いカフェがあるのを見つけたその瞬間。

視界の端に皺ひとつないスーツを着込み、英国紳士の見本になるような佇まいの男性が目に入った。

ハットの下から見える金髪に過去の記憶が蘇り、気付いたときには発作的に駆け寄っては無礼にもその腕を手に取っていた。


「っ、!?」

「あの、すみません!」

「あ、なたはっ…!」

「モリアーティ家の方、ですよね!?」


上背はあるが線の細い体に見合わない力強さでジョンの腕を振り払った彼は、間違いなくかつての列車でジョンを助けてくれたウィリアムという彼の関係者だった。


「へぇ、ウィリアムさんの弟なんですね、ルイスさんは」

「…はい」


どうしてこんな状況になっているんだろう。

ルイスは冷めかかっている紅茶に手を付けず、目の前でにこにこと話を続けるジョンを見て遠い目をしていた。

ダラム大学で数学を教えていた前任者に用があるというウィリアムに付いてロンドンに来たは良いものの、さすがに初対面の人間の元へルイスが行くわけにもいかないと街で時間を潰していただけなのに、何故だかシャーロック・ホームズの相棒であるジョンに捕まった。

自分達にとっての重要人物、そして脅威になり得る可能性のある人間と近い存在。

いきなり腕を取られたのはルイスが油断していたからに過ぎないが、気を張り詰めようにも彼が持つ人柄のせいなのか、どうにも緊張感が続かない。

あのシャーロックの相棒なのだから気は抜けないと、抜きたくないと考えるのだが、ルイスは人の良い笑みを浮かべるジョンを複雑な顔で見つめていた。


「確かによく似ていらっしゃる!ルイスさんの方がお兄さんよりも少し瞳が大きいんですね」

「…はぁ」

「列車で見たときも思いましたが、仲の良い兄弟なんですね。実に微笑ましい」

「…どうも」


どうにもジョンのペースが掴めない。

ルイスはようやく紅茶のカップに手をつけて、こくりと喉を鳴らして潤した。

シャーロックはジョンに対してルイスの詳細をあまり話していなかったらしい。

列車での彼はルイスが養子だということを指摘していたが、今のジョンはウィリアムと似ているルイスを怪しむこともなく受け入れている。

シャーロックはちゃんと説明していたのにジョンが聞き流していたのかもしれないし、あまりに似ているからこそ養子という情報は間違いだと捨て置いてしまったのかもしれない。

設定上はウィリアムとルイスの外見が似ていることを受け入れられても困るのだが、ジョンから感じられる雰囲気はルイスの警戒を解いてしまっていた。

冷めかかっていても紅茶の風味は程良く口の中に広がっていて、どこか安心を覚えてしまう。


「あの日…少しお会いしただけなのに、よく覚えておいでですね」

「そりゃあもう。あの日の僕は色々大変でしたからね…色々記憶にこびりついてしまっているんですよ」

「そうですか」


気まぐれに返事をしてみれば苦笑したように表情を変える。

ただ犯人とぶつかっただけなのに誤認逮捕されかかっていたのだから、あの日はさぞ心労があったに違いない。

けれどルイスに言わせてみれば、誰かとぶつかることもぶつかっておきながら身の回りの確認をしないこともあり得なかった。

彼の人生の中では人とぶつかっても謝れば済み、何かを盗まれることも怪我をすることも怪我をしたと言いがかりを付けられることもない、ありふれた日常なのだろう。

危険因子であるシャーロックといいジョンといい、階級社会の闇に紛れた人間のことなど知る由もなく平和な毎日を送っているのだ。

羨ましいものだと、ルイスは過去の自分を思い出しては忘れようと紅茶を飲む。


「それで、今日は一体何の御用でしょうか?」


まさか列車内での出来事を共有したいわけではないだろう。

ルイスはさっさとジョンの前から離れたいという気持ちを隠すことなく、努めて淡々と言葉を紡いだ。


「…実は、あなたとあなたのお兄さんにお願いがありまして」

「僕と兄さんに?」


面倒そうな様子を見せているルイスに怯むことなく、ジョンは神妙な顔をしてカップを置いた。

そうして両手の指を組んで軽く頷いたかと思いきや、ルイスの顔をじっと見つめて力強く口を開く。

まさかシャーロックの指示で何か探りを入れてくるのだろうか。

人の良いその顔に絆されそうになっていたルイスは改めて緊張感を持ち直してから身構えた。


「あなたのお兄さんを、僕の小説に登場させる許可をいただけないでしょうか?」

「…は?」


真剣な表情でルイスを見つめるジョンの瞳には一片の曇りすらもない。

いっそ眩しいほどの光と希望に満ちたその顔は、またもルイスに警戒心と緊張感を失わせた。


「実は僕、コナン・ドイルという名で小説を発表しているんです。少し前に発売された『緋色の研究』、ご存知ありませんか?」

「…聞いたことはありますが、読んだことはありません。ベストセラー間近だとは知っています」

「実はあの作品、ウィリアムさんと一緒に事件を解決したシャーロックが過去に遭遇した事件を元にして書いたノンフィクションなんです。主人公はそのままシャーロックなんですが、僕が書いた作品は全て彼を主人公にしているんです」


知っている。

ルイスは読んでいないがウィリアムもアルバートも読んでいたし、その上でシャーロックが主人公の話など読みたくないと敢えて読んでこなかったのだから。

そもそもウィリアムが作り上げた犯罪計画なのだから、読まずともその内容は手に取るようによく分かる。

そのせいで巷ではシャーロック・ホームズの人気が加速しているということも、知りたくないのに知ってしまうレベルには人気作だ。


「…つまり、あの列車での密室殺人をテーマにした話を書くに辺り、ウィリアム兄さんの姿を描きたいということですか?」

「はい。ウィリアムさんは僕を救ってくれた恩人です。あの人の存在を無くして都合の良いように話を書くのでは僕の気が済まない。もちろん、作中での名前は変えさせていただきます」

「…」


ルイスは基本的にウィリアムに好意を持つ人間がすきだ。

最愛の兄はたくさんの人に認められて然るべきだと考えている。

その上で、ルイスはウィリアムに対して無礼な人間が大嫌いだ。

優しく聡明な兄に無礼な態度を取る人間は全て消してしまいたいと考えている。

ゆえにルイスは、シャーロック・ホームズが嫌いだった。

得体の知れない恐怖を抱かせる彼が嫌いである。

ウィリアムが持つ優れた頭脳に気付いたことは褒めてやっても良いが、馴れ馴れしいあの態度は気に入らない。

主役に相応しいその頭脳は脅威になり得る可能性があるけれど、だからこそ計画にとっては都合が良いのだ。

軽薄にも見える馴れ馴れしささえなければ、ルイスとてここまで心乱されることはなかっただろう。

そのシャーロックの相棒であるジョンもルイスにとって同類だ。

羊の皮を被った狼という可能性を捨ててはいなかった。

けれど目の前に座るジョンはウィリアムに感謝の念を抱いており、その上で英国紳士に相応しき礼儀を兼ね備えている。

演技には見えないし、たとえ演技だとしてもその態度には一定の敬意を払うことが出来る。

今この瞬間、ルイスの中で不確定要素に過ぎなかったジョンの好感度が一気に上がった。


「…ワトソンさんは兄さんに感謝しているのですか?」

「当然ですよ!僕を救ってくれたのはシャーロックだけじゃない、ウィリアムさんもなんですから!」

「…ありがとうございます。兄さんもきっと喜ぶことでしょう」

「いえいえ。彼にそんなつもりはなかったとしても、僕がとても助かったのは事実です。優しいお兄さんですね」

「…えぇ、自慢の兄なので」


堪らず質問してみれば、ジョンは極々当たり前のように肯定してくれた。

誰より優れた自慢の兄を褒められて悪い気はしない。

それどころか誇らしげな気持ちのまま、ルイスは表情を乗せていない顔を僅かに緩めて機嫌良く胸を張った。

シャーロックの勧めで周囲を観察するよう心がけていたジョンはそんな表情変化に気付いていたけれど、本当によく似た兄弟だな、仲の良い兄弟だな、という感想しか抱くことはない。

一歩足りない相棒を見れば、かの名探偵はさぞかし嘆くことだろう。


「あのときのウィリアムさんはとても格好良かった。気品ある頭脳明晰なあの姿、僕の書く小説の中の登場人物として是非描いてみたいんです。どうか許していただけないでしょうか?」

「僕に聞かれましても…ウィリアム兄さんはモリアーティ家の次男として顔の広い方です。名前を変えたからといって目立つことは好きではありませんし、難しいかと思います」

「…ですよねぇ」


はぁぁあぁああぁ、と大きなため息を吐いたジョンは項垂れたように机に突っ伏した。

クリームのようなサンドベージュのような、表現に難しいけれど色素の薄いふわふわと毛先が跳ねたその髪を見て、ルイスはちくりと良心が咎めたのを実感する。

多くの人にウィリアムの素晴らしさを知ってもらうというのは魅力的だが、目立つことを得意としない彼が了承するとは思えなかった。

それにルイスの知らない人間がウィリアムに懸想するのも引っかかるし、ならばここでジョンの申し出を断るのが適切だろう。

けれど純粋に格好良いと感じたウィリアムの姿を描きたいのだというジョンにそれ以上の気持ちは見えず、ただただ作家としての気概を感じた。

小説化のためにウィリアムを持ち上げるのではなく、本心からウィリアムを格好良いと思ってくれていることが分かるのだ。

お人好しにも程があるとは思うけれど、それでも最愛の兄を褒められて嬉しくないはずもない。

ルイスは気を良くしたまま突っ伏すジョンをよそに懐中時計を見た。

ウィリアムと待ち合わせた時刻までまだ時間はあるから、もう少し彼と一緒にいても構わないだろう。

そう思ってしまうほどにはジョンに絆されていることに、ルイス自身は気付いていなかった。


「仕方ない…シャーロックの魅力的な姿は他の事件にもあるし、列車での話は諦めるか」

「…ホームズさんの魅力的な姿?」

「はい。シャーロックは最低な一面もありますが、それでも彼は最高の名探偵なんですよ」

「…へぇ、そうですか」


気落ちした様子から一変して我が事のようにシャーロックについて語るジョンを見て、ルイスは緩んでいた表情を無意識に引き締めていた。

彼にとって執筆とはウィリアムの魅力あふれる姿ではなく、シャーロックの魅力ある姿を描くことに尽力している事実を一瞬だけ忘れていた。

シャーロックの良いところなど聞きたくはないし、彼よりウィリアムの方がずっとずっと凄い人なのだ。

そう言ってやりたい気持ちをグッと堪え、ルイスは紅茶とともに言葉を飲み込んで気持ちを落ち着けた。


「ウィリアムさんと仲の良い弟であるあなたが難しいと言うのなら、きっと本人からも許可は貰えないでしょうね。もう作品として発表する機会がなくなってしまったから言ってしまいますが、あの事件の直前のシャーロックは最低だったんですよ」

「最低、ですか?」

「はい。緋色の研究を読んでいないあなたには意味が分からないかもしれませんが…あいつ、自分が解決した事件の犯人を殺そうとしたことがあるんです。あぁ、犯人自ら望んだことではあるんですよ。シャーロックはただ興奮した犯人の気持ちを落ち着ける意味で相手の要望に乗ったふりをしただけで、殺すことはしなかった。それなのに後になってから、犯人を殺しておけば良かった、大きな謎に近付けたのに、なんて言っていたんです。はは、最低でしょう?」

「…そう、ですね…人の命よりも自分の好奇心を優先するだなんて、最低です」

「でしょう」


ジョンから明かされるシャーロックについて、ルイスは思わずドクリと心臓が鳴るのを実感した。

緋色の研究、つまりホープに授けた事件の顛末はよく知っている。

シャーロックが計画の主役に相応しいかのオーディションを兼ねていたのだから、あの事件をきっかけにルイス達は彼に目を向けることになったのだ。

あのとき、ウィリアムは60%以上の確率でシャーロックはホープを殺すというプロファイルをしていた。

けれど現実、彼はホープを殺すことなく事件を終わらせた。

だからシャーロックは手段を選んだ上で行動出来る人間なのだと認識していたが、本当の彼はやはりウィリアムのプロファイル通り、目的のためなら手段を選ばない人間に近いのだ。

彼は生かしたことを後悔しているのではなく、犯罪卿という最大の謎を逃したことを悔いている。

殺しておけば良かったなどと後悔する人間が、あの瞬間に殺すことを考えなかったはずがない。

それでもホープを生かす選択肢を取ったのであれば、それはきっと、目の前のジョンがきっかけだった。

ジョンがいたからこそシャーロックは悪魔にならず、探偵のままでいられたのだ。

シャーロックとジョンは今や英国中が知る名探偵と名助手のコンビである。

ウィリアムはシャーロック一人を審査するつもりでホープに計画を託したのだろうが、予期せず彼がジョンと出会ったことを知り、急遽二人まとめて審査をしていたのではないだろうか。

シャーロック一人であれば劇の主役に相応しくないが、ジョンとともに在るシャーロックならば主役たり得る。

その可能性を考慮していたからこそ、己のプロファイルと違う現実を見たときに少しの違和感もなく受け入れたのだろう。

ルイスは数ヶ月越しにウィリアムの意図に気付くと同時に、やはりジョンも我々にとっての脅威になるのだと確信する。

油断は出来ないのだと、赤い瞳を鋭くさせてお人好しそうな彼を気付かれない程度に睨みつけた。


「僕も最低だと思い彼を酷い言葉で詰ってしまったんですけど、それでも彼は僕を助けてくれた。僕のためではなく謎を解いたときの副産物だとあいつは言いますが、それだけじゃないことはよく分かる。何だかんだシャーロックは優しいんです。本の中では僕が理想とする名探偵の姿として少しばかり誇張していますが、列車の事件を書けるのであれば誇張せず、シャーロックが持つ不器用な優しさを描いてみたかったんですよね」

「…そうだったんですか」

「あいつは結局、犯人を殺しておけば良かったという言葉を一度も訂正しなかった。きっとあれがあいつの本心なんです。けど実際は殺さなくて良かったと思っているはずだと、僕には分かるんです。不器用だけどちゃんと優しいシャーロックを、たくさんの人に知ってもらいたかったな…あぁ、決して許可を貰えないことを責めているわけではないんです、誤解しないでくださいね」

「…はい」


シャーロックが優しいかどうかなどルイスには興味がない。

けれど慈愛に満ちた表情を浮かべるジョンを見ていると、語る相手はさぞかし素晴らしい人物なのだろうと錯覚してしまいそうになる。

相手のことを知らなければただ頷く程度で終わらせられただろうに、ルイスはシャーロックがいかに無礼で馴れ馴れしい人間かを知っている。

だからこそ、ジョンがどれだけシャーロックを優しいと表現しようと、ウィリアムの方がずっと優しいのだと対抗心が芽生えてしまう。

シャーロックなんかよりウィリアムの方が優しい。

生かしたことを後悔する人間より、後悔しながら悪を殺すウィリアムの方が、ずっとずっと優しいとルイスは思うのだ。

優しいからこそ兄は胸を痛めて、それでも計画のために気丈に振る舞っていることを知っているのだから。

きっとジョンにしてみれば、殺すことを選んだ時点で優しくはないと判断するのだろう。

医者である彼は命の重さと尊さについてルイス以上に思慮が深い。

でもルイスにとってウィリアムこそが優しくて、そう反論してやりたいとは思うけれど、実際はそれが叶わないという現状に肩を震わせていた。


「最低に見えて優しいところがある。列車でのあいつは尊大な態度で偉そうに見えたかもしれないけれど、あまり悪い印象を持たないでやってくれると助かります」

「…まるで、ワトソンさんはホームズさんの家族のようなことを言いますね」

「はは、家族ですか。似たようなものですかね、あいつは僕の相棒なので」

「…仲が良いんですね、お二人は」


ウィリアムの審査に合格した通り、ジョンはシャーロックにとって必要不可欠な存在なのだ。

赤の他人なのに唯一無二の雰囲気を携えていることが、どうしてだか怖いと思ってしまった。

もし今もシャーロックが一人であるならば、計画に対してさほど脅威にはならなかったに違いない。

多少の修正は必要だったかもしれないが、ウィリアムが望んだ結末を解き明かす未来があったのだろう。

だが現実、ジョンと出会ったことでシャーロックは変わってしまった。

ウィリアムはそれで良しと受け入れてはいるものの、シャーロックはルイスが無意識のうちに得体の知れない脅威を抱くまでの存在になってしまった。

彼さえいなければ、とルイスは奥歯を噛み締めてジョンを見る。

ジョンさえいなければシャーロックは探偵でありながら犯罪者の可能性を持つ危うい存在として、劇の主役になっていたはずなのに。

光になりきれずにいたシャーロックを圧倒的な光として時代の象徴にしてしまったジョンが怖いと、ルイスは思う。

けれど焦りに満ちたルイスの視線を恐れることなく、ジョンは冷めてしまったパンケーキを口に運んでいた。


「でもウィリアムさんには驚きました。まさかシャーロックと同程度の頭脳を持つ人がいるだなんて思いもしませんでしたよ。いやあの事件に限るなら、彼はシャーロックよりも一歩上だったかもしれません」

「え…そ、そうでしょうか?」

「えぇ。だって彼はシャーロックが見つけられなかった証拠を見つけていたんですから!」

「そ、そうですよね。兄さんは凄いんですよ、とても優れた頭脳を持っているんです」

「あぁやっぱり。それにしても、どうしてあの場所に付いている血に気付けたんでしょうね?やっぱり常に周囲を観察する癖を身に付けているんでしょうか?」

「それは…そうだと思います、周りをよく見るのは大切だと言っていたので」

「やっぱり!シャーロックと同じですね、頭の良い人はみんなそういう癖があるのかなぁ」

「…はは」


まさか先を見越したウィリアムが犯人を陥れるために付けた血だとは言えない。

ルイスにしてみれば、現場の状況から犯人の心理を踏まえて事前に行動していたというウィリアムの頭脳と行動力こそ素晴らしいのだけれど、兄曰く非合法なのだから発覚した場合には咎められてしまう。

事実を話したい気持ちを誤魔化さなければならない苦悩を胸に、ルイスはジョンの言葉に同意した。

恐怖を抱かせたかと思えば簡単にルイスの好感度を上げるようなことを言う。

ジョンという人間が持つ不思議な存在感は、彼個人の評価を下す妨げになってしまうのだ。

お人好しであることは間違いなくて、けれど決して警戒は解けないはずなのにそれこそが何故だか難しい。

結果として矛盾した感情を持て余すことになり、ルイスは気持ちが落ち着かずに疲れを実感してしまった。


「…そろそろ時間です。お役に立てず、申し訳ありませんでした」

「いえいえ、僕の方こそいきなり呼び止めてしまいすみませんでした。ウィリアムさんによろしくお伝えくださいね」

「はい」


ジョンと話しているのは楽しいと思うけれど疲れてしまう。

ルイスはもう一度時計を見て、約束の時間が迫っていることを理由にカフェを出る。

名探偵と持て囃される人間が認めた唯一の相棒は、ルイスの力だけではその存在を上手く昇華出来なかった。

偶然出会ったことでそれを知れて良かったと思うべきなのだろうが、彼の人の良さは確かなものだったと思う。

警戒すべきなのにその必要はないとも思わせるジョンの人柄は、ルイスの気持ちを惑わせるのだ。

人混みに紛れながらちらりと視線を後ろへ向けてみれば、青み掛かっている跳ねた髪の持ち主がジョンに近付くのが見えた。

名探偵と名助手のコンビを目にした瞬間、すぐにあの場所から立ち去っていて良かったとルイスは心底安堵するのだった。




(ルイス、お待たせ。少し遅くなってしまったね)

(いえ、ちょうど約束の時間ですよ。お疲れ様でした、兄さん)

(さぁ帰ろうか。アルバート兄さんも待っているだろうから)

(はい)

(…ルイス、何かあったのかい?疲れたような表情をしているけれど)

(それは…嬉しいのか怖いのか有難いのか落ち着かないのか、複雑な気持ちを短時間で経験していたので)

(うん…?大丈夫かい?何があったのかな?)

(改めてお話しするような大それたことではありませんので。早く帰りましょう、兄様が待っています)


(ジョン!お前こんなところで何してたんだよ?)

(シャーロック、どうしてここにいるんだ?)

(お前がこの時間にこの辺りで待ち合わせって言ってたんじゃねぇか。探したぞ、ったく)

(いや…まさかお前が約束した時間に来るとは思わなくて驚いた。本物だよな?)

(おい)

(はは、冗談冗談。実はさっきまでルイスさんとお話ししていたんだ。ほら、列車で会ったウィリアムさんの弟さん)

(ルイス?リアムはいたのか?)

(いや一人だったよ。ちょっとしたお願いがあったんだけど、フラれてしまってね。でも何となく話しやすい雰囲気だったから僕ばかり一方的に喋ってしまったな…似た空気感でもあったのかな。今度会う機会があれば、彼の話も聞いてみたいものだよ)

(…ふーん。まぁ似てるっちゃあ似てるけどよ)

(本当かい?)

(ある意味ではよく似てるだろうよ、お前とルイスさんはな)