現代の法治国家につながる『韓非子』の思想
https://ps.nikkei.co.jp/bookreview/2016100201.html 【『組織サバイバルの教科書 韓非子』】守屋 淳 著 日本経済新聞出版社 より
現代の法治国家につながる『韓非子』の思想
諸子百家と聞くと、日本では『論語』で有名な孔子の儒家、そして老子や荘子の「老荘思想」で知られる道家を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。もしくは、NHK大河ドラマ『真田丸』で、少ない軍勢で徳川の大軍を退けた真田昌幸が兵法を学んだという孫子(兵家)も人気が高いに違いない。
では『韓非子』はどうだろう。きっと、名前を聞いたことはあるがどんな思想かまでは知らない、という人が圧倒的だろう。
諸子百家とは、中国の春秋戦国時代(紀元前770年から紀元前221年)に現れた学者(諸子)やその学派(百家)の総称だ。『韓非子』は、春秋戦国時代末期に活躍した韓非という人物が法家の思想を集大成して著した書物の名称。春秋戦国時代を終わらせ、中国を統一した秦の始皇帝もその一部を愛読していたそうだ。
始皇帝は、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県政による中央集権体制を樹立し、度量衡の統一などさまざまな「法」を制定した。この国家体制のベースになったのが『韓非子』の思想なのだ。
現代日本のような法治国家では、法律にもとづき公正な政治が行われることが何よりも大事だ。その意味で『韓非子』は、現代の法治国家のルーツを知ることができる書物であり、現代人にもっと親しまれてもおかしくはないはずなのだ。
本書の著者の守屋淳氏は、作家であり中国古典研究家。早稲田大学第一文学部を卒業後、大手書店勤務を経て現在は中国古典、主に『孫子』『論語』『老子』『荘子』などの知恵を現代に生かすことをテーマに、執筆活動や企業での研修・講演などを行っている。
守屋氏は本書で、『韓非子』で説明されている法家の思想を、『論語』にまとめられた儒家の思想と対比させながら、わかりやすく解説している。
本書では、両者の違いを生み出した要因の一つに、孔子と韓非がそれぞれ生きた時代の間に200年ほどのずれがあることを指摘。二人の思想の違いは、その時代に求められていた組織や国のあり方が異なることによるものと説明している。いったいどんな時代背景が、この対照的な二つの思想を生んだのだろうか。
ムラ社会的組織から脱却し、競争に勝ち残るための思想とは
孔子が生きたのは、春秋戦国時代中頃の群雄割拠の時代だ。この時代は国同士の戦いというより、むしろ各国内の貴族同士の争いが激化していた。伝統的な身分制度は崩壊し、下克上もひんぱんに行われていた。孔子はこの時代に身分制度を復活させ、戦いをやめさせて平和な世の中をつくるにはどうすればよいかを考えた。
『論語』に描かれているのは、人民の尊敬を集め、平和な国や組織を維持する理想的な政治家・統治者像であり、常に善き行いをする人民像だ。孔子がめざしたのは、トップも部下も徳を高めながら互いに助け合い、育み合い、生かし合うような組織づくりだった。
守屋氏は、いわゆる「日本型経営システム」をつくり上げた日本人の組織観は、『論語』の価値観を背景にしていることを指摘する。それが明治維新や大戦後の混乱を一致団結して乗り越え、今日の繁栄を実現するのに役立ったのは確かだろう。
しかし、お互いを信頼して助け合い、育み合う組織は、ともすれば内向きで“ぬるい”ムラ社会的組織に陥る危険性もある。下は上の言うことを絶対正しいと信じ込み、上は下に仕事を丸投げしてその誤りを正すことを避け、責任逃れをする。そんな組織だ。
たとえば三菱自動車の燃費不正事件、東芝の粉飾決算といった、相次いで明らかになった企業ぐるみの不祥事は、いずれも日本型経営システムの欠点によるものだろう。危機に対して毅然と対処できず、内向きな組織維持のロジックに偏りがちだったのだ。
一方、孔子から200年後の春秋戦国時代末期は、中国統一に向けて国同士が最後の生き残りをかけてせめぎあった時代だ。韓非が集大成した法家の思想は、大国同士の激烈な戦いの世を生き残るためにムラ社会的ななれ合いを廃し、確実に成果を出せる引き締まった組織をつくるためのものだ。
韓非は、「虎や豹が人に勝ち、百獣を思うがままにできるのは、爪や牙をもっているからだ」と説き、爪や牙に相当する「法にもとづく権力」で国や組織を統治するシステムを提案した。また韓非は「名君は、二本の操縦かんによって臣下を統制する」とも言っている。「二本の操縦かん」とは、善い行いをして成果をあげた者には「賞」を与え、法を守れない者には「罰」を下すという、二つの権限のことだ。韓非は、トップがそれらを握ることで、臣下や人民を操れるようにするべきだと考えた。
さらに韓非は、「君主と臣下とは、一日に百回も戦っている」と言う。法家は、君主と家臣はなれ合う関係ではなく、権力を巡って戦う関係とみなしているのだ。
現代の会社組織で、部下の一人が単に権力を握りたいがためにトップを追い落とそうすることもあるだろう。守屋氏は韓非の思想をもとに、そうした事態を防ぐための注意点をまとめている。具体的には、組織内の権力構造やボトルネックをあらかじめ熟知しておく、そもそも権力欲の強いタイプを上のポジションに置かない、といったことだ。これらの注意点を参考に、いちど自社の権力構造を分析してみるのもよいだろう。
『韓非子』は、日本型経営システムの欠点であるムラ社会的組織体制を改め、トップがしっかりと操縦かんを握ったうえで競争社会を生き残るための指南書と見ることもできそうだ。
徳治と法治のどちらかだけでは矛盾が生じる
ところで「矛盾」という、現代の日本語でもひんぱんに使われる言葉のもとになった故事成句が『韓非子』の出典だということをご存知だろうか。矛盾とは、「どんな盾(たて)も突き通す矛(ほこ)」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた男が、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話だ。この話は、もとは儒家が唱える「徳治」を理想とする政治体制の矛盾を、韓非が指摘するために用いたたとえ話なのだ。
そもそも『論語』に記された王のあるべき姿は、相当に徳の高い人物でなければ務まらない。一時期そういう王がいたとしても、次の王に同じように徳の高い人物がなるとは限らない。代替わりを繰り返すうちに徳治の理想は形骸化し、単なるなれ合い組織に陥ることも多い。そうなるとやがて人心も離れていく。
一方、韓非の唱える「法治」にしても、賞と罰をバランスよく使いながら人々の士気を高められている間はよいが、やがて賞の原資がなくなったとしたらどうだろう。善い行いをしても賞はもらえず、失敗した時の罰ばかりが下されるようになる。現代の企業で言えば、いくら業績をあげても賞与も昇給もないのに、ちょっと失敗しただけで罰金を取られたりクビになったりするようなものだ。そうなると安心して働くことはできまい。不満がたまり、韓非の時代であれば「謀反でも起こしてみるか」と考える輩も出てくるだろう。法治も万能ではなく、徳治と同様、矛盾を抱えているのだ。
結局、徳治と法治が対立すると考えるところに間違いがあるのではないか。完璧な矛も、完璧な盾もありやしない。矛と盾の両方を上手に使わなければ戦いに勝つことはできないのだ。同様に徳治、法治のどちらか一方ではやがて矛盾が露呈し、うまくいかなくなるということだろう。
たとえば秦王朝に続く漢王朝も基本的には法治を採用した。しかし、法治一辺倒の統治の問題点に気づき、儒家の思想も一部導入した。法治と徳治を併用する体制をとったのだ。
佐藤優氏の著書『交渉術』(文春文庫)には、「制度は性悪説、運用は性善説」との記述がある。守屋氏はそれを法治と徳治を併用する際の基本的な考え方を説明するために引用している。制度を確定するための法は人を信じないスタンスで厳しくつくる。大きな問題がなければ人を信じ、温情重視で柔軟に運用する。しかし、何か本当に改めるべき問題が見つかった時には人が変わったように非情に断罪する。組織をうまくまわすには、トップにそんな二面性が求められるということだ。
本書を読んで『韓非子』と『論語』の違いを理解し、両者の考え方を状況に合わせて併用できるようにしておくことが、特に組織で人の上に立つ者に必要な知恵といえるだろう。(担当:情報工場 浅羽登志也)