心の陰陽
Facebook・ごとう 孝二さん投稿記事「恐れは愛と統合すると最高のパワーになる!」
恐れはあなたを守る大切なお守りなのです。
目を閉じて、イメージしてみてください。
1m幅の道が真っ直ぐに、ずっと向こうまで続いています。
その道の両脇にはクローバーやタンポポが咲いていて、ヒラヒラと蝶が舞っています。
あなたはこの道を歩いて行く時、何か恐れを感じますか?
そう、感じませんよね。
恐れどころか、なんだか楽しい気分にもなって、スキップまで踏めるかもしれません。
真っ直ぐに続く1m幅の道や、道の両脇にある風景は、あなたの視界でしっかりと確認できます。
またスキップを踏んで道を踏み外したとしても、あなたの身の安全は守られていることもわかっています。
安心・安全が保障されているとわかると、人間の脳は『快』のスイッチを入れるのですね。
ではリセットして。
今度はこんなイメージをしてみてください。
あなたは今、片側が岩肌の壁、もう一方の片側が崖になっている1m幅の道を進もうとしています。
道はウネウネと曲がりくねっていて、岩肌が邪魔をして先がどんな風になっているかわかりません。
片側の崖から下を覗き込むと、地上が見えないほど深い谷が広がっています。
さあ、恐れのスイッチが発動しました。
「もしも、足を踏み外したら」
「もしも、道の岩場が崩れたら」
「もしも、上から大きな石が落ちてきたら」
「もしも、道が途中で途切れていたら」
先ほどと同じ1m幅の道なのに、見えない先にあなたの身の安全が守られないと判断した脳は、起きてもいない悪い未来を想像し始めます。
ですがこの想像は、命を守って生きようとする人間に備わった、ホメオスタシス反応。
いわゆる危険を回避しようとする自然な恐れの反応です。
もし無理に手放したら、赤ちゃんのように危険を察知することもできず、危険から回避することもできなくなってしまいます。
なので恐れは『悪』ではなく、
あなたを守る大切なお守りのようなものだと、まずは認めてあげてください。
魂の正常な成長に、恐れは必要な栄養分
恐れは脳のしくみから見ると、大切なお守りですから認めてあげてくださいと、お伝えしました。
なのに、成長してレベルを上げたい魂からは一見厄介者にされがちです。
また、愛や調和を言っている人たちにも恐れはいらないものとされています。
なぜ、この矛盾が起きてしまうのでしょうか。
大人の80%が、心に満たされないインナーチャイルドを抱えている現代。
恐れや不安、不快等のネガティブな気持ちを『悪』と捉えた多くの親によって育てられた結果が、現代です。
もっと残念なことに、ラクや高速化が進みすぎて恐れや不安への耐久性が弱くなり、さらに『悪』と見るようになりました。
宇宙の真理は、恐れを『悪』としていません。
あなたの魂が正常に成長するための、『栄養分』としているのです。
『栄養分』という漢字を見てください。
養って栄え、分ける、と書かれていますよね。
あなたの魂を養い、栄えさせ、上へと分かれ(成長)させてくれる恐れを手放したらどうなるか。
魂の成長は止まります。
愛や調和は言うまでもなく大切です。
けれども恐れを手放したら、真の愛や調和を魂は現実に創り出すことはできません。
これらのことからも、人間は愛や調和と同様に恐れを認め、受け入れなければならないのです。
心の陰陽を統合させ、幸せな成長の世界へ!
心の陰陽統合のためには恐れを必要としているのです。
人間うまくいっている時は、今を変えようとは思わないものです。
しかしひとたびうまくいかなくなり、恐れを感じ始めると、そこから逃れよう、変えようと必死になります。
痛みを知って人に優しくなれるように、恐れを感じなければ、人間の魂は成長しない。
誰の心にも、陰陽の気持ちはセットで存在しています。
このコラムの始めのほうにあった「もしも……」の恐れ。
誰かに「そうだよね」と受け入れてもらったとしたら……いかがですか?
なんとなく気持ちがラクになりませんか?
気持ちがラクになれば、「行ってみようかな」と思い始めたりもするでしょう。
恐れを認め、受け入れることは、魂を正常に成長させる勇気の行動に繋がります。
ですから恐れを感じている時こそ、誰かに頼ってみてください。
自分で自分の陰の心を受け入れられない時こそ、誰かに話してみてください。
誰かに受け入れてもらった陽の、愛の経験が、あなたの心の陰陽の統合、そして幸せの成長へと向かわせてくれるはず。
その先に恐れと愛・調和の陰陽が統合された世界が存在します。
統合された幸せな成長の世界へと、今こそ共に旅立ちましょう。
今こそ心の陰陽を統合させ、幸せの成長へと向かう時より。
Facebook・津留晃一の世界 投稿記事 あるがままに
大切なことは自分が自分であること、どの瞬間もただ自分のままであり続けることです。自分でいて下さい。自分のままでいて下さい。自分そのままで、ありのままでありのままにいることの美しさに気付いて下さい。ありのままでいることの気楽さを知って下さい。
ありのままでいることの楽しさを堪能して下さい。そこには愛があります。
おしつけがましさのない、義務感のない柔らかな愛です。
負い目を感じさせない風のごとき無条件の愛となります。そこには悦びがあります。
最高に貢献する姿があります。他を生かす形となります。私はあなたが善人であるか悪人であるかには興味がありません。
あなたが心の中でつぶやくいいわけは、いったい誰のためなのでしょうか? 誰に対して飾ろうとしているのですか?
あなたが心の中でつぶやく不平は一体誰が聞いているのでしょう。そして人は何を得るのでしょう。それは自己愛ではありません、自身を傷つけるものでしかありません。
神はあなた自身を大切にしなさい、労りなさい、愛しなさいといいます。
そこであなたはより快適でありたいと思い、快適さを追求します。
ところが、この「快適でありたい」という願望は、実はあなたの不快の種そのものとなります。
あなたが今とても快適な状況に満足しているとしましょう。
そこにあなたの快適さを妨げる何者かがやってきたら、あなたはどのように感じるでしょう。その侵入者に対し人は不快感を覚えます。とても神のごとき愛そのものとしてい続ける事は出来ません。実はあなたが、あなたの外的世界に対して、快適さを求めた瞬間(自分が自分以外になろうとした瞬間)、あなたはその身の内に不快の種を宿すのです。
快適さと不快さは一枚のコインの表と裏にすぎません。別の何かではないのです。
あなたが外的世界に対して何かプラスを求めれば求めるほど、あなたが手に入れたプラスと同じだけのマイナスの要因をその懐深くしまい込んでいるのです。
自分が自分以外の何かになろうとすればするほど苦しみの種があなたの身の内で成長を始めます。「それじゃこの世は最悪じゃないか」、「それでは人間は幸せにはなれないじゃないか」、「だったら生きている意味がないではないか」と反論が聞こえそうです。
でもそれがこの三次元世界そのものなのです。実に多彩で、多面的なパラドックスの世界です。そしてそれこそがこの三次元世界の真の意味での存在理由であると知らされました。
無限の快適さの世界から、そうでない環境を体験したいと考えた意識体が、その「不快さ」なるものを体験してみたくて、この二極の対立の世界の中へわざわざ入ってきた、というのが真相のようです。
「不快さ」は根源の無の世界では決して感じる事の出来ない、大きな魂の昂揚感を体感させる要因であるとも言えるのです。黒が白を際だたせ、悪が善を引き立てます。三次元物質世界とはそういうところなのです。英雄には敵役が必要なように・・・。
あなたは意識の進化を求めて今存在しています。人はこれまで意識の進化を求め続けて転生を繰り返してきました。それを外的社会環境で成功を求め続ける事と勘違いし続けてきました。意識の進化とは、神に還るという事です。
神に還るとは、元々自分が神そのものであった事を思い出す事です。
元々神であるものが、神以外の何者にもなる事など出来ません。
あなたは今現在もその本質は神であり、今後のどの時点においても神以外の何かになる事など出来ません。今そこが、その瞬間がすでに完全です。
今はその不自由ささえ感じてみたくて、そこにそうしているだけです。
「そんなことを言っても信じられない」という人がたくさんいます。でもこれはあなたが信じるか信じないかという問題ではなく、あなたがこの考えを受け入れるか受け入れないかの選択の問題なのです。理性で考えて判断できる問題ではないでしょう。
そのため人は気の遠くなるような年月をかけ、難行苦行の修行にはげみ続けてきました。
そしてもうそろそろ悟りとは修行の果てに手にするものではなく、元々あなたの足下にあったことに気付く時がやってきました。
あなたの表面意識がどう考えるにせよ、トータルなあなたにとって、今その状態がベストポジションなのです。そこ以外のどこかへ行こうとしないで下さい。
あなた以外の誰かのように成ろうとしないで下さい。総ては唯そうなっているだけなのです。唯そのままを感じて下さい。それがあなたが今そこにいる理由だからです。
不都合そうに見える状況に意味を与える必要もありません。唯そうであるだけなのです。
自分を愛しなさい、大切にしなさいというのは、あなたの外部に何か別のプラスを求めなさいという事ではなく、あなたが今どんな環境にいたとしても、今のその瞬間が最高である事を知りなさいという事です。今そこがあなたの意識の進化にとって最高の環境だからです。
あなたが今、最高の環境にあると満足しているときに、その環境が破壊されたとしたら、
そこもまたその瞬間が最高であることを疑わないでいると、「一体何が起きたのだろう」、
「この破壊によって私には一体どんな学びが出来るのだろう」と、いつもただ起きてくることをワクワクと楽しめるようになってきます。それがあなたの悟りです。
自分を大切にするという事です。自分を最高に労るということです。今あるがままを愛して下さい。そのままの自分を受け入れて下さい。
もし今あなたが「自分は自分のことを一番大切にしているのに、どうも世の中が今一つうまく行かない」と思っているとしたら、それはきっと自分を大切に思うあまり、自分の意識を小さく小さく閉じこめてしまっているのかも知れません。
自分が不快感を感じたくないからといって、苦手な人を避けていると、あなたはいつも、また苦手な人に出会うのではないかと怯えながら生き続けることになります。
快適でありたいと、不快さを避けてばかりいると、どんどん自分の住む世界が狭くなって、そのうち自分の部屋から出られなくなってしまいます。
あなたの外界に見える世界は実はあなたの意識が写し出す幻影です。
苦手な人と、そうでない人を分けるとは、自分の意識を半分に分けているということです。
人は好きな物と嫌いな物を分け、自分の意識を分割し、いい環境と悪い環境を分けまた
自分の意識を半分にして、都合のいい出来事と都合の悪い出来事を作りだしてはまたまた自分の意識を更に細かく分けていきます。
こうしてあなたは自分の意識を自らちっぽけな存在へと駆り立てているのです。
自分を愛するとは自分の意識を広げるという事です。
自分を大切にしたい人は、人を拒絶するのではなく受け入れていく事です。
あなたが今嫌いな人を受け入れるたびにあなたの意識は拡大します。
都合の悪い出来事を受け入れた時、あなたの意識が広がります。
「嫌いな人を好きになれといわれてもそんなの無理だよ」と思っているのも解っています。
しかし人が人を嫌いに感じるには分けがあります。
それはあなたの意識の中に、こういうことをすることはいけないことであり、許せないといった考え方があるからです。
あなたの中のこういう認識が一つ消えるたびに、他を分ける思いが消え、あなたの意識が広がります。
ある人があなたを非難します。するとあなたは突然その人に敵意を感じます。
「あの人は失敬な人だ。俺は悪くない。人の話もろくに聞かずにいきなり人を罵倒するとは
なんという無礼な人だ。あんな人は断じて許せない。あんな人がいるからこの世がおかしくなって来るんだ」などと、あなたのエゴのつぶやきは心の中でエスカレートしていきます。
あなたのエゴは傍若無人、こんな時は無理やりエゴを黙らせたりせず、思う存分エゴに喋らせてあげて下さい。ただし人のいないところでやることをお奨めします。
エゴはとても飽きっぽいのです。
無理やり理性でブレーキをかけたりせず、好きなだけ発散させてあげると、やがて波が引くようにあなたのエゴの声は小さくなり、おとなしくなってお休みします。
その瞬間本物のあなたが意識の表面に上がってきて、「あれ、俺はどうしてこんなに
イライラしていたんだ?」と感じます。
起きた現実を、目覚めた状態で観察してみると
「どうやら俺は人から非難されたときにカッとなる性質があるようだな」と自分の内部にある認識に気付きます。こうなればしめたもの。
現実の渦に巻き込まれず、常に醒めた状態で観察し続けると「人から非難されたとき俺はなぜ怒りの感情が出るんだ? あいつがいきなり俺を非難したということは、きっと何か俺のことが原因であいつの感情を逆撫でしたに違いない。きっとあいつは自分の感情を癒したくて俺にあんなことを言ったんだ」人は怒りや恐れの感情にいるとき、人を愛することが出来ず人を責めてしまいます。それが人の常です。
本当はあなたを阻害する人なんかいないのです。
もしそのように見えたり感じたとしたら、単にその人は、今、自らを守るために必死で戦っている弱い人でしかありません。
本当に自分のことが解ってくると、世の中に悪い人などいないということが解ってきます。
世の中に悪い人がいないということを確信すると、嫌いな人はいなくなります。
あなたが今そのままで最高であるように、あなたのまわりにいるどの他人も例外なく、今その瞬間が最高なのです。
たとえ今怒り狂っているように見える人がいたとしても、その人の進化にとってそれがよいことだから起こっているわけです。
この世界で真の意味で困っている人など一人もいません。
あなたの意識が透明で無色になってくると、比較するための基準が無くなり、人や出来事や環境を比較しなくり、総てをあるがままに受け入れられるようになってきます。
まずあなた自身、今あるがままをそのまま抱きとめ、今そのままを心から愛し大切にして下さい。大切な事は自分が自分であること、どの瞬間もただ自分のままであり続けること。
それがブッダの言った中道に入るということです。自分が自分であるとは、普通であること。あなたにとってどんな特別な状態もないところ、最もいやすいところ、それがありのまま、あなたが最も他に貢献できるポジションです。
悟りとは、手の届かない高みにあるわけでなく、総てを手放したときそこにあったことに気付きます。大切なことは自分が自分であること。それが究極の悟りです。