11月15日礼拝
創世記12章1−3節
創世記の物語をユダヤ・キリスト教は数千年、語り伝えてきた。
ここにリアルがあるから。
ここに私の物語があるから。
創造物語。
天地創造。
神が言葉で世界を造る。
そこは寸分違わず、神の思いが実現している。
神と世界が一致している。
ところがこの一致にヒビが入る。
人が動き出し一致が崩れる。
エデンの園で何不自由なく暮らしているアダムとエバ。
神が「食べるな」と言った善悪の知識の木の実。
彼らはこれを食べてしまう。
一致が崩れる。
そしてエデンの園を追放される。
アダムとエバのこどもたちカインとアベル。
それぞれの捧げ物に対しての神の対応をめぐって諍いになる。
カインは弟アベルを殺してまう。
そして「さすらう者」にされてしまう。
洪水物語。
ノアの家族を残し全てがこの地から消されてしまう。
ノアの子孫たちが起こしたのがバベルの塔。
天に届く塔を作ろうと建築をする。
だが、神に言葉を乱され、実行できない。
混乱し、散り散りになる。
ここにリアルがある。
私の物語がある。
この創造物語に共通しているものは何か。
どの物語も神のよって散らされている。
自分の場所を奪われている。
私たちにも経験がある。
自分の場所だと思っていたところから追い出される。
愛するものと別れざるをえなくなる。
予定、計画、夢、希望、それらが現実と離れていってしまう。
乖離、分離
私たちはそれを知っている。
暗い道に、寂しい道に放り出される。
その道でうずくまるのも私たちの選択。
だが聖書はその先を語る。
バベルの塔から散らされ、地の果てにいる家族。
その家族にアブラハムというものがいた。
このアブラハムに神は語りかける。
「私が示す地に行け。
そこであなたを祝福する」
神によって散らされたもの。
そのものに神は「行け」と言う。
示しているから「行け」と言う。
暗く寂しい道に私たちは入り込む。
それが私たちのリアル。
だが、その道で行くべきところが示される。
暗い道は私が行くべき所につながっている。
ユダヤ・キリスト教はこの物語を大切に守ってきた。
ここにリアルがあるから。
私の歩んでいるこの道は行くべき所につながっている。
信じる。
祝福。
永遠の喜び。
すでに備えられているところへ私は行ける。
聖書は数千年、語り伝えられてきた。
これがリアルだから。