【試し読み】船上の炎(第一章全文)
「船長! カール船長!」
見張りの青年が駆け込んだ一室で、男は机に広げた海図をぼんやり眺めていた。青年は男が顔を上げるのを待って口を開く。
「カリナの港付近の浅瀬で、政府の船が座礁したそうです。役人どもの安否は知りませんが、船が壊れたまま放置されていて、港付近の航行に支障が……」
「わかった」
報告を遮った男の言葉に青年は目を輝かせ、ぴょこんと頭を下げて船室を後にした。ほどなくして甲板が騒がしくなり、船が向きを変え始めた。ここから北西に位置するカリナへ針路を定めたのだ。
男は甲板を見下ろせる窓際に歩み寄った。乗組員たちが慌ただしく動き回っている。ここ暫く暇だった分、久々の仕事にいつも以上の活気が湧いているようだ。
その様子を見守りながら小さく息をついた男の背に、抑揚に欠ける静かな声がかけられた。
「行くのか、カーレント」
「放っておく訳にもいかないだろう」
背を向けたまま男は答える。相手をわざわざ確かめるまでもない。自分をそう呼ぶのは、この船で一人だけだ。
ラジュール号船長、カール――本名カーレント・シルヴィス。
今や世界中に知られるその名を、本人の前で堂々と呼び捨てにできるのは、彼の親友でこの船の副船長を務めるアンカー・フラットをおいて他にいない。
帆いっぱいに風を受け、船は速度を増す。波は大きくうねり、彼らを目的地へと誘う。
「なぁ、アンカー」
窓の外に視線をやったまま、カーレントは相棒を呼んだ。返事がないのはいつものことだが、彼の意識がこちらに向いているのは気配で察せる。
「俺たちは、このまま進んでいていいと思うか?」
即答はなかった。代わりに軽い靴音が鳴り、振り向いたカーレントの頬にアンカーの手が触れる。
「立ち止まらない、二度と振り返らない――それを、この傷に誓ったんだろう?」
静かで、淡々としていて、それ故に重い、揺るぎない意志。
アンカーの言う傷、その指先が触れているのは、右目の下から耳まで届く大きな古傷だ。同様のものをアンカーも負っている。長い前髪に隠されているのは、額から左目の際まで走る、忌まわしい記憶の断片。
カーレントはふっと笑みを零した。
行くのかと問う口で、立ち止まるなと言う。アンカーはいつもそうだ。カーレントの影のように付き従いながら、その目的を、行き先を見失うことは決してない。
後ろでも隣でも、カーレントが望む場所にアンカーがいるから、カーレントもまた迷わずにここまで来れた。そしてこれからも進んでいけるだろう。
「そうだったな、すまない」
カーレントの言葉に、アンカーの表情が僅かに和らぐ。他の船員たちには決して見せることのない穏やかな眼差しは、彼のカーレントに対する絶大な信頼の表れでもあった。
甲板のざわめきが次第に大きくなる。船が進む先に待つのは、彼らが生きる目的と意義を求める「仕事」である。
「これは酷いな……」
甲板の上で望遠鏡を覗いていたカーレントの呟きに、隣に立つアンカーが視線を向けてくる。手渡した望遠鏡を同じように覗き、若干険しくなったアンカーの表情で、カーレントは彼が自分と同じ感想を得たことを察した。背後にはカーレントの呟きを聞いて、さらに士気を上げる船員たちがいる。
カーレントは、無言で返された望遠鏡をもう一度覗いた。船の針路の先で、カリナの港を背景に、帆船が一隻横倒しになっている。
この辺りの海域は海流も穏やかだし、岩礁もさして複雑な造りにはなっていない。大型船でも比較的苦労せずに入港できる筈なのだが、舵手が素人だったのか突風でも吹いたのか、それは見事にひっくり返っている。
本体が激しく損傷しているので、局地的な嵐でもあったのかもしれない。波間には木片や荷の残骸が大量に漂っている。
確かにこれでは、港の運用に支障が出るだろう。一般人の小さな船で、この状態の港で働けというのは流石に酷だ。
深く息を吸い、声を張って、カーレントは船員たちに指示を出し始めた。
「よし、船の解体と漂流物の回収だ、適当に散れ。周囲の監視も怠るな」
「はい、船長」
「東のコベルが、先日襲撃されて被害が出ている筈だ。航路を確保しろ」
「了解!」
指示を受けて、船員たちがばたばたと動き回る。横転した船を手際良く解体し始め、波間に漂う残骸を小舟で回収する。次々と運び込まれてくる荷の整理にも余念がない。
随時報告に来る部下に細々とした指示を繰り返すカーレントの隣で、アンカーは黙って海上を見渡していた。暫くして、その面持ちに険が差す。
無言のまま腕を引かれて、カーレントもアンカーの視線を追い、南の海上に目をやった。一隻の帆船が近付いてくる。
「あれは……」
「セーヴィル海域保安艦隊の主艦だろう」
「ふん、今頃お出ましか」
カーレントは近くにいた船員に船を敵の針路を塞ぐ形で旋回させるよう指示を出した。政府の旗を掲げた船は、威嚇するように空砲を一発放った。船首に立つ、幹部らしき男が怒号する。
「また貴様らか、海賊が政府の船に手を出そうとは、我らを侮るのも大概にしろ! 貴様らがどれ程嗅ぎ回ろうとも、我らに弱点などない!」
対峙したカーレントは落ち着き払って、男に冷ややかな視線をくれる。
「誰が弱点を探ってるって? 俺たちはおまえらが放り出していった船の後片付けをしてやってるんだぜ。民衆の為に働く保安艦隊なら、機密情報の無事より港の状況を確認しな」
「な、なんだとこの若造が!」
「その若造に毎度出し抜かれてる政府が聞いて呆れるぜ。味方を増やしたいなら、俺たちの仕事を減らしてくれ。それがお互いにとって一番だ」
唸る男を後目に、カーレントは撤退命令を下した。東方に向けて、ラジュールは風のように走る。狙撃手が砲台に待機していたが、追撃はなかった。
船室に戻ると、敵船が近付いてから甲板を離れていたアンカーが確認してくる。
「追ってこないな」
「カリナの住民の手前、俺たちを追うより港を掃除する方が奴らにとっても有益だろう」
普段通りを意識して、カーレントは答える。過去のとある一件以来、アンカーは政府の人間を嫌悪している。下手な答えを返すと、相手がカーレントといえども不機嫌になるのだ。
その理由は、今の彼らの仕事にも繋がっている――
彼らは政府から「海賊」として識別されているが、実は略奪行為は一切行っていない。
他の海賊同士の争いで大破した船の残骸などを回収し、物資の足りていない近くの島に運んだり、荒らされた港や町の復興に力を貸す。漂流者を拾えば、故郷へ帰してやることも、船で世話をすることもある。
いつ頃からか、私利私欲の為に動き出し、本来の姿を失くしつつある政府。その暴虐な檻に囚われた民衆にとって、カーレントたちの存在は救いだった。
民心が離れていくことを快く思わない政府は、彼らの行動を、政府に対する反逆の意思を示す海賊行為と見なし、しつこく追い回してくる。カーレントたちは、それに真っ向から対立し、何者にも支配されない集団であることを誇りに生きているのだった。
船員の中にも、かつてカーレントに拾われ、そのまま船に居着いてしまった者が大勢いる。彼らは、暴走を始めた政府に虐げられる者を増やさないことがこの船で働く意味だと考え、生涯尽くすべき仕事だと信じている。
「船長、そろそろコベルが見えます」
しばし回想に耽っていたカーレントは、部下の声で我に返った。わかったと答え、船室を出ながら、カーレントはさりげなくアンカーの顔色を窺った。壁に背を預け、視線を宙に据え、彼は今、何を考えているのだろうか。
これだけ長く共にいても、アンカーが自分と世界とを完全に遮断してしまうと、その意思はカーレントですら掴めなくなる。
今は、一人になりたい。そう告げられた気がして、カーレントは小さく息をつき、再び甲板に出て行った。