芭蕉ゆかりの地を訪ねて
http://www.dtsun.jp/stroll/2305.html 【下町探訪(第111回芭蕉ゆかりの地を訪ねて①)】
今回は松尾芭蕉を取り上げます。芭蕉は、1644年(寛永21年)、伊賀上野赤坂(今の三重県上野市)で郷士の身分を失っていた農民の子として生まれました。
1662年(寛文2年)、芭蕉19歳の頃より藤堂藩侍大将藤堂良精の嫡子良忠(俳号蝉吟)に仕え、宗房と名乗りました。そして蝉吟とともに貞門派の季吟に師事し、俳諧に親しみました。
ところが1666年(寛文6年)4月25日、蝉吟が亡くなって、士官の道は断たれてしまいました。
1672年(寛文12年)、数え年29歳(満年齢28歳)となった芭蕉は、自選の三十番発句合「貝あわせ」を携えて江戸に向かいました。とはいえ、伊賀上野の俳句仲間で多少名を知られた程度で、江戸でいきなり俳諧師として身をたてられたはずもありません。
江戸に出てきて、4年程はどこに住処を定め、どのようにして生活していたのか定かでありません。
本所(現在の墨田区東駒形)に、芭蕉を山号、芭蕉が初めて得た俳号桃青を寺名に持つ芭蕉山桃青寺というこじんまりとしたお寺があります。
もともと1626年(寛永3年)起立された当時は、定林院と称していました。
このお寺には、芭蕉が住職の黙宗和尚に随従して数年間同寺に草鞋を脱いだとの伝承があり、江戸に出て数年このお寺に住まいしていた可能性があります。
定林院は、山口素堂以下の葛飾蕉門が、俳諧活動の拠点にしていいたお寺でしたので、かれらがその活動拠点を蕉門の聖地としようとして芭蕉山桃青寺と名付けたというのが、寺名の由来のようです。かって境内には1743年(寛保3年)建立の芭蕉堂があり、現在も芭蕉、西行、山口素堂以下の葛飾蕉門の木造が安置されています。
こんな芭蕉も、1676年(延宝4年)頃には日本橋大舟町や小田原町の借家に住み始めていたようです。芭蕉のような借家人は当時店子と呼ばれ、店子が住んでいた長屋は、裏店と言われていました。
この絵でも分かるように、四方を表店に囲まれた方二十間の空き地に建てられた建物で、中二階造りや平屋の長屋が一般的で、通い小店員、職人、遊芸人、日雇い等中下層民の居住地になっていました。店子層は、江戸町民の大半を占め、その特徴は移動率の高さ、他国出身者の多さ、貧困層の多さにあると言われています。
1680年(延宝8年)の俳諧師住所録には、「小田原町 小沢太郎兵衛店 松尾桃青」と記されておりますので、芭蕉は小沢太郎兵衛店の店子だったようです。
小沢太郎兵衛は、日本橋大舟町の名主で、芭蕉を俳諧の師と仰ぎ、芭蕉に「卜尺」との俳号を名付けて貰っていました。「卜尺」という俳号の由来は、「小沢」という字の左部分を省略したもので、芭蕉らしく機知に富んでいます。
とにかく家主とのこのような関係からすると、芭蕉は裏店に住んでいたとはいえ、小沢太郎兵衛との関係は、普通の店子と家主と比べると、対等で親密な関係にあったようです。
日本橋小田原町は、今の日本橋三越前の中央通りの反対側、日本橋室町一丁目辺りにあり、そこの「鮒佐」という佃煮屋の老舗の店頭に芭蕉の「発句なり 松尾桃青 旅の宿」の句碑があります。
桃青の看板を掲げて迎えた春の意気軒高な様が見て取れます。この辺が芭蕉の裏店のあった場所のようです。
http://www.dtsun.jp/stroll/2317.html 【下町探訪(第112回芭蕉ゆかりの地を訪ねて②)】 より
「♪お江戸日本橋七つ立ち」と唄われた日本橋の北岸には魚市場が広がり、江戸庶民の台所として賑わっていました。
今では高速道路が橋の上を走り、無残としか言いようのない現状にあります。
2020年の東京オリンピック後に、この高速道路地下化工事が着工される予定とのこと、早く重しから自由になった日本橋を眺めたいものです。
日本橋を南北に貫く中央通りは、かって「本町通り」と呼ばれ、芭蕉も「実や月間口千金の通り町」と一句ひねっているとことからもわかる通り、江戸でも有数の高級商店街でした。
小田原町の南側に広がる大舟町、安針町には魚店、日本橋三越の地には呉服店の「三井越後屋」、少し北側の本町には薬種商・・・などの大店が軒を並べていました。
現在でも中央通りの日本橋三越周辺は、老舗とコレド日本橋のような巨大なショッピングセンターが共存する賑やかな一帯になっています。
さしずめ芭蕉の裏店は、今風に言えば都心の一等地の賃貸マンションといった趣だったかもしれません。
ところで、芭蕉というと生涯独身といったイメージがあります。それだけに、芭蕉は小沢太郎兵衛の裏店で独り者として生活していたのか?一家を構えていたのか?も気になりますが、どうも裏店時代は寿貞という女性と一緒に暮らしていたようです。
幕末の蕉門研究家で刈谷藩の家老を勤めた浜田岡堂の「蕉門人物便覧」に、芭蕉の「愚妻儀このたびは本復おぼつかなく」との書簡があった旨の記載があります。この書簡は、芭蕉裏店時代のものと考えられており、愚妻とは後に芭蕉が出家した際に尼となった「寿貞」のことを意味していると考えられています。
寿貞尼には、長男の二郎兵衛、長女のまさ、次女のおふうの三人の子がありました。この女性が芭蕉の妻であったのかについては、意見が分かれています。
寿貞は芭蕉に妾奉公をしていたとの説があるからです。この説は、芭蕉の門人志太野坡が「寿貞は芭蕉の若い時の妾だ」と言っていたとの聞き書きを根拠とするもので、「悪党芭蕉」で読売文学書を受けた作家の嵐山光三郎も妾説の提唱者の一人です。
芭蕉自身が寿貞を「愚妻」と呼んでいたこと、芭蕉が息子の二郎兵衛とともに1694年(元禄7年)に最後の旅に出た後に寿貞が深川芭蕉庵に移り住んでいたこと、この旅先の京都嵯峨の落柿舎で寿貞尼の訃報を受け取った芭蕉が、「寿貞無仕合せもの・・・」との慟哭の書簡を残していることなどからすると、寿貞はやはり妻であったと思いたくなります。
http://www.dtsun.jp/stroll/2403.html 【下町探訪(第113回芭蕉ゆかりの地を訪ねて③)】 より
日本橋小田原町に居を定めた芭蕉は、1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの四年間、神田川の水道工事に従事しました。
「町触(まちぶれ)」に神田上水の改修工事に携わったことを示す記載が残されていますので、その事実に争いはないようです。
しかし、芭蕉は、その工事に一労働者となって従事したに過ぎないのか?それともその工事の請負人となって一日に数百人の人夫を差配するなどしていたのか?となると見解が分かれています。
どちらの見解を採るかは、芭蕉の人間像理解に大きな違いが出てきます。一労働者に過ぎなかったのであれば、後の詫び寂びの世界との繋がりを理解するのは容易ですが、一日に数百人の人夫を差配していたとなると芭蕉は世間並み以上に処世術にもたけていたことになり、後の詫び寂びの世界とはイメージがうまく繋がりません。
請負人説は、1680年(延宝8年)6月に出された「町触(まちぶれ)」に、「神田上水の上流域で「惣払」を実施するので、町々でその分担箇所を事前に話し合い、その結果を桃青(芭蕉)方まで報告するように。桃青に報告していない町々の月行事は・・・担当区間の割り当てを受けるように。」との記載があるところからすれば芭蕉は名主業務の代行者たる「町代」であったと考えられること、藤堂本家が幕府より神田川改修工事を命じられており芭蕉の元の主人藤堂藩侍大将藤堂良精が惣奉行として小石川周辺に出張し芭蕉もこれに従ったとの記録があること、などを根拠としています。
素人判断にしかすぎませんが、「町代」は名主を補佐する有給の事務員に過ぎず町内の序列も下位に位置付けられていたこと、惣奉行藤堂良精に従ったといっても芭蕉は良精の嫡子良忠に仕えた軽輩であって郷士の身分を失っていた農民の子に過ぎなかったこと、などからすると、「一日に数百人の人夫を差配」していたとするのは、飛躍がありすぎると思われます。
とはいえ、芭蕉請負人説は、その後の芭蕉との落差が多くの人々に魅力的に映ります。作家嵐山光三郎がこの説の提唱者の一人であることも頷けます。
ところで芭蕉が神田川の水道工事に従事した際、関口村の龍隠庵に居住したとの伝承があり、この伝承に基づいて葛飾蕉門の長谷川馬光らが五月雨塚を築きました。それに始まるのが、関口芭蕉庵です。
芭蕉がこの工事に従事するようになる前年である1676年(延宝4年)12月27日、芭蕉が住んでいたとされる日本橋大舟町や日本橋小田原町周辺一帯が大火に見舞われ、芭蕉も焼け出されていた可能性が高いのです。龍隠庵即ち関口芭蕉庵は、被災後の芭蕉の一時避難場所になっていたと考えられるのです。
この関口芭蕉庵へは、地下鉄有楽町線江戸川橋から神田川沿いの散歩道を上流へ向かいます。
川面を眺めると鯉が泳ぎ、亀が甲羅干しをしています。都心にこんな場所が残っていたのだと、うれしくなりました。
http://www.dtsun.jp/stroll/2425.html 【下町探訪(第114回芭蕉ゆかりの地を訪ねて④)】 より
芭蕉は、1680年(延宝8年)冬に深川の芭蕉庵に移り住みました。
芭蕉の住んでいた裏店近辺の日本橋三越から芭蕉庵までは、日本橋人形町、新大橋通りを経由して新大橋で隅田川を渡ります。
新大橋というと新しい橋のように思われますが、隅田川では千住大橋、両国橋に次いで3番目に造られた古い橋です。
芭蕉は1692年(元禄5年)と1693年(元禄6年)の二度にわたってこの橋を詠んでいます。
「初雪やかけかかりたる橋の上」(其便)
「有難やいただいて踏む橋の霜」(芭蕉句選)
ここから新大橋は1693年(元禄6年)冬に竣工したことがわかります。
当時の新大橋は、今の新大橋よりだいぶ下流に架けられていたようで、萬年橋の北側に旧新大橋の石碑が残されています。
新大橋を渡ると、しばし川風に吹かれながら川べりを南下します。東京湾が近いためでしょう、潮の香りが胸一杯に広がります。道々芭蕉の句碑が目につきます。
途中高い防潮堤を乗り越えて萬年橋通りをやや北に戻ると江東区立芭蕉記念館があります。
さて肝心な芭蕉庵です。
当初「泊船堂」と称し、そこでの新たな生活をその「寒夜辞」で次のように詠じていました。
「深川三またの辺りに草庵を侘びて、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船を浮かぶ。あさぼらけ漕行船のしら波に、蘆の枯葉の夢とふく風もやや暮過るほど、月に座しては空き樽をかこち、枕によりては薄きふすまを愁う。櫓の声波を打って腸氷る夜や涙」
芭蕉は、侘しい生活を強調していますが、遠くには富士山を望み、萬年橋の欄干越しに隅田川が見え、そこには白い帆掛け船が浮いています。人家も少ない寂しいところであったかもしれませんが、芭蕉庵周辺は、風光明媚な景勝地でもあったのです。
http://www.dtsun.jp/stroll/2443.html 【下町探訪(第115回芭蕉ゆかりの地を訪ねて)】より
日本橋で俳句の宗匠として、それなりの名声を得て安定した生活をしていた芭蕉が、どうしてそのような生活捨てて、寂れた田舎の深川の地に引っ越すことにしたのか?
この点は、大きな謎となっています。それまでの俳諧の否定説、宗匠生活の否定説、寿貞と甥の桃印の駆け落ち説、経済的破綻説、火事による被災説など、諸説紛々の状況にあります。
専ら芸術上の理由を根拠とするのは、あまりに格好良すぎます。駆け落ち説は、スキャンダラスで文学者の想像力を掻き立てるからでしょうか、嵐山光三郎がこの説を採っています。
火事による被災で深川に転居したが、そこでの避難生活の中で侘びさび的な世界を発見していったといった辺りが真実に近いのではないでしょうか。
芭蕉は、深川でそれまでの撫で付け髪を切り落として僧形になり、家族と離別して草庵に入りました。といっても仏門に入った訳ではありませんでした。
川べりの芭蕉庵の跡地には、現在芭蕉稲荷神社が建てられています。
余りに狭い一角にちまちまとした石碑が置かれた小さな神社で、そこからは高い堤防に妨げられて隅田川も全く見ることはできません。
この神社そばの堤防上の狭い一角に芭蕉庵史跡展望庭園があり、芭蕉翁像が隅田川を見つめています。この翁像、午後5時には回転して向きを変え、夜間にはライトアップされ、と訪れる芭蕉ファンを楽しませてくれています。
展望庭園から広重・北斎の浮世絵で有名な萬年橋を渡って小名木川を越えます。
小名木川は、しばしば芭蕉が船を浮かべて楽しんだところで、小名木川橋の「小名木川五本松」の木陰に舟を泊めて「川上とこの川しもや月の友」の句も読んでいます。
小名木川を渡って清洲橋通りを東に向かうと臨川寺があります。
芭蕉は、深川の草庵に入った1680年(延宝8年)冬頃より、鹿島の根本寺の住職仏頂禅師に俳句を教え、その傍ら禅を学びました。
仏頂禅師は鹿島の根本寺二十一世住職でしたが、寺領を鹿島神宮に奪われ、それを取り返すべく江戸寺社奉行に訴えに来ていました。その時の江戸の住まいが臨川庵(後の臨川寺)で、仏頂禅師はここに居を構えて9年間の訴訟を戦いました。勝訴して根本寺に戻っていきましたが、この間芭蕉と親交を深めました。
根本寺に戻った仏頂禅師の「月を見にいらっしゃい。」との誘いの手紙に従って、芭蕉は1687年(貞享4年)8月14日、小名木川、行徳を経由して鹿島詣でに出かけました。その時の旅紀行が「鹿島紀行(鹿島詣)」です。
http://www.dtsun.jp/stroll/2463.html 【下町探訪(第116回芭蕉ゆかりの地を訪ねて⑥)】より
臨川寺のすぐ南側に清澄庭園が広がります。泉水・築山・枯山水を主体にした回遊式庭園で、東京都指定名勝になっています。紀伊国屋文左衛門、岩崎弥太郎の邸宅になったこともある名園です。
ここには有名な「古池や蛙飛び込む池の音」の句碑があります。もっともこの句は、芭蕉庵で催した句会で詠んだものです。
清澄庭園をさらに南へ向かい、仙台堀川に架かる海辺橋の袂の採荼庵(さいとあん)があり、濡縁に腰掛けた「奥の細道」に出掛ける旅姿の芭蕉像が置かれています。当時芭蕉は数えで46歳でしたが、歳よりだいぶ老けて見えます。
この橋の東側の仙台堀川沿いの小道に芭蕉の名句を書き記した木製の句碑が並んでいます。
この川岸を泳ぐ魚がいるので目を凝らすと何とヱイではないですか。東京湾は目と鼻の先にあることを実感させられました。
ここまで一通り芭蕉ゆかりの地を巡ってきました。最後の仕上げは清澄庭園に戻って涼亭で食事でもしていきませんか。池に突き出て佇む涼亭で一献傾ければ、幸せな気分になれること間違いありません。