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奥の細道歩き旅1 深川

2020.12.14 03:53

http://www.ne.jp/asahi/m.mashio/homepage/okuhoso-2.htm 【奥の細道歩き旅1 深川】より

深川界隈

我が家の初詣は、これまでは明治神宮とか浅草寺などが多かったのだが、今年(2005年)は芭蕉ゆかりの深川を訪れてみようと思い立った。正月の3日、妻と二人で深川不動堂、富岡八幡宮に出かけた。地下鉄門前仲町で下車すると不動堂までの参道(仲見世通り)は初詣客であふれかえっていた。不動堂、富岡八幡宮をお参りし、名物の「あさり飯」を食べた後、深川の雰囲気をさらに味わうため周辺を少し歩いてみた

深川不動堂

成田山新勝寺の東京別院。仲見世通りは、まっすぐにこのお寺まで続いており、参詣の中心となっている。仲見世通りには江戸時代からの老舗が続き、下町情緒を味わえる

富岡八幡宮

江戸で一番大きな八幡様というのがキャッチフレーズだ。この神社の境内は、江戸大相撲の発祥の地である。その後、両国の回向院に移された

深川七福神というのが周辺にある。来年の正月には全部回ってみようと思いながら今回はパス。清澄通りを少し歩くと、右手に深川江戸資料館と書いた常夜灯が二つ並んでいる。この道を少し行くと大きな深川江戸資料館の建物が見えてくる。ここには江戸の町並みや庶民の生活を映画のセットのように展示してあり、昔の深川あたりの雰囲気をつかむには最適だ。

芭蕉の名著「おくのほそ道」のあとをたどろうというのに、私はまだこの本を読んだことがなかった。そこで正月の深川訪問の後、「おくのほそ道」を読むとともに芭蕉についての知識を深めた。そして最近(4月)になって再び深川の芭蕉ゆかりの場所を訪れた。

都営地下鉄新宿線、大江戸線の森下駅で下車し、新大橋の手前で左に曲がると、江東区芭蕉記念館がある。この記念館の近くにかつての芭蕉庵があったが、長いことその場所を特定できなかった。大正9年(1917)の大津波の後、「芭蕉遺愛の石の蛙(伝)」が見つかり、この地を芭蕉庵跡として地元では芭蕉稲荷神社を建てた。しかし、その場所はあまりに狭いので、江東区で「芭蕉記念館を建て昭和56年に開館した。記念館では現在このとき見つかった「石の蛙」をはじめ、芭蕉ゆかりの品々を集めて展示している。

深川江戸資料館の内部

映画のセットのような町並みが、昔の深川の情緒を感じさせてくれる

深川江戸資料館通り

清澄通りから右に曲がるところに案内の常夜灯が二つ立っている。清澄通りの向かい側には清澄庭園がある

芭蕉記念館を裏口から出ると、隅田川の堤防がある。この堤防に沿ってそのまま川沿いに歩くと200mくらい先に記念館分館の小公園がある。階段を上ってゆくと小さな公園の中に、芭蕉の坐像、説明パネルなどがある。ここからは、隅田川の眺めが大変よい。すぐ横で小名木川が隅田川に流れこんでおり、少し先には優美な姿の清洲橋が見える。芭蕉像は、まっすぐに川のほうを眺めている。

この展望公園の少し先には芭蕉庵跡といわれる芭蕉稲荷神社がある。堤防を越える階段を上り、川辺のテラスに出る。ここには新大橋から小名木川までの間に8つの芭蕉句碑が建てられている。いずれも当時の様子を髣髴とさせるものばかりなので、いくつか紹介してみよう。

芭蕉稲荷神社 ここで石の蛙が発見されたので、芭蕉庵跡と推定されている

芭蕉遺愛の石の蛙(伝) 芭蕉記念館に展示されている。思ったよりも大きなものだった

芭蕉記念館 芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年に開館した

・名月や池をめぐりて夜もすがら ・名月や門に指(さ)しくる潮頭

・芭蕉葉を柱にかけん庵(いほ)の月・芭蕉野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞夜哉

・しばの戸にちゃをこの葉かくあらし哉・花の雲鐘は上野か浅草か

芭蕉がこの地に移り住んだ当時この辺は未開拓であり、付近は萱が生い茂った湿地帯であったという。門のすぐ近くまで潮頭がやってくる様子、そしてよく知られているように芭蕉庵には大きな芭蕉が植えられていた様子なども読み取れる。また、ここにはなかったが「古池や蛙飛びこむ水の音」の名句もここで作られたという。「花の雲・・・」の句がこの地で作られたとは知らなかった。かつてこのあたりから上野、浅草方面の桜が遠望でき、鐘の音なども聞こえたのだろう。しばし浅草方面を見つめたが、300年余の時代の隔たりの大きさを感じるばかりだった。

「名月や池をめぐりて夜もすがら」句碑

新大橋から小名木川までの隅田川テラスにこのような句碑が8つ立っている。いずれも当時の様子を髣髴とさせる句だ

芭蕉記念館展望公園の芭蕉坐像

夕方になるとこの像は90度向きを変え、ライトアップされるのだという。(東京新聞で東京のミステリーとして紹介されたことがある)

隅田川テラスは小名木川で途切れるので、階段を上ってゆくと小名木川に架かる万年橋がある。このあたりにはかつて川舟番所があった。芭蕉が当初住んでいたのは、このあたりの生簀(いけす)番屋を改造した草庵だった。ここに移り住んで2年目、この庵は天和2年(1682)の大火(俗に八百屋お七の火事)により焼失してしまう。その2年後に元の庵の近くに新居が完成する。これが第2次芭蕉庵といわれるもので、その5年後にはこの庵を人に譲って奥の細道の旅に出立している。

万年橋を渡り、左に曲がると清澄通りに出る。これを右に曲がってまっすぐ行くと清澄庭園がある。この庭園は、元禄時代に紀伊国屋文左衛門の別邸であったといわれ、その後、明治11年岩崎弥太郎の所有となり、同18年に庭園が完成した。園内南隅の芝生広場に芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の大きな句碑がある。びっくりするくらい大きなもので、はじめは芭蕉庵跡に立てられたが、敷地が狭いので庵の改修の際にこの地に移されたという。

清澄庭園の少し先に「海辺橋」があり、その橋を渡ってすぐのところに「採茶庵(さいとあん)」跡がある。ここに庵の一部が再現され、芭蕉が旅姿で腰掛けている。芭蕉はここから奥の細道の旅に出立している。採茶庵は芭蕉の門弟杉山杉風の別荘で、このあたりにあったという。芭蕉は、それまで住んでいた庵を人に譲り、旅立ちまでの間しばらくここに住んでいた。

この像の横を流れる仙台堀川に沿って遊歩道があり、ここに「おくのほそ道」で詠んだ18句の板の句碑がある。

関口芭蕉庵

芭蕉庵と名のつくものは、実は深川以外にもう一つある。場所は神田川沿い、現在の椿山荘のあるあたりである。神田川は昔は神田上水といわれ、玉川上水のできる前は江戸で最大の飲料水供給源だった。神田上水はこのあたりで堰止められ、水位を上げて小石川の水戸藩邸を通し、さらに水道橋の架橋を渡して神田、日本橋方面に給水した。

松尾芭蕉は寛永21年(1644)伊賀上野で生まれた。ここで領主藤堂家に仕え、俳諧の研鑚をつんだようである。寛文12年(1672)、芭蕉は俳諧師として立つため仕官を辞し、江戸に向かった。芭蕉29歳の年である。江戸での芭蕉は、はじめ日本橋本船町名主小沢太郎兵衛(俳号、ト尺)のもとに身を寄せ、その後、杉山杉風とも知り合った。しかし、俳諧のみでは生計を立てることができず、ト尺(ぼくせき)の尽力によって数年間神田上水の水役を兼業することになる。仕事としては軽作業で、アルバイト的なものだっただろうと言われている。

地下鉄有楽町線江戸川橋で下車し、神田川沿いの江戸川公園を歩いてゆくと、昔の大洗堰の説明板などが立っている。さらに歩いてゆくと、公園のはずれあたりに、古い立派な門が見えてくる。ここにかつて芭蕉庵があったという。

仙台堀川沿いに立てられた板の句碑

川沿いに「おくのほそ道」で詠まれた18句の板の句碑が建てられている。木陰の気持ちのよい道である

採茶庵跡に建てられた芭蕉像

芭蕉はここから舟に乗り、奥の細道の旅に出立した。いまにも「ドッコイショ」と立ち上がりそうだ

清澄庭園

明治18年に岩崎弥太郎により完成した庭園。池には隅田川の水を引き込み、「回遊式林泉庭園」となっている。

「古池や蛙飛びこむ水の音」句碑

清澄庭園内にある。昭和9年に芭蕉庵跡に立てられたが、大きすぎたので、改修工事の際この地に移された。幅2m、高さ1mある

奥の細道歩き旅 第1回序章  深川・関口

富岡八幡宮

江戸で一番大きな八幡様というのがキャッチフレーズだ。この神社の境内は、江戸大相撲の発祥の地である。その後、両国の回向院に移された

深川不動堂

成田山新勝寺の東京別院。仲見世通りは、まっすぐにこのお寺まで続いており、参詣の中心となっている。仲見世通りには江戸時代からの老舗が続き、下町情緒を味わえる

さあ、私も旅の準備が整った。そろそろ奥の細道の旅に出発しよう。