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芭蕉 ・寿貞 ・甥桃印

2020.12.14 04:54

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/tohin.htm 【桃印とういん】 より

(生年不詳~元禄6年3月)

芭蕉の甥であるということだけが伝えられているが、誰の子供なのか判然としない。芭蕉の姉の子供 というのが有力で、その姉が婚家から離縁されたか、夫と死別したかして松尾家に出戻ったときに同道してきたのが桃印であるとする説がある。桃印5、6歳の頃で、芭蕉は22、3歳。何故か若い芭蕉が彼を養育することになったようである。これは、兄の半左衛門家が貧しく、桃印を扶養する経済力が無かったためかもしれない。その後、芭蕉が江戸に出て、生活のめどがつくのを待って 延宝4年ごろに江戸に呼び寄せたらしい。ただし、延宝8年頃の深川隠棲以後桃印が何処に住み、何を生業にしていたかは全く不明で謎である。

 芭蕉の桃印に対する愛情は並々ではなく、33歳という若さでの桃印の死に落胆した芭蕉は自らの生への執着をも喪失した風がある。許六宛書簡にその時の心情が吐露されている。また、桃印重態のため借金をせざるを得なくなった芭蕉は膳所の門人曲水に宛ててた書簡で1両2分工面してくれるよう依頼している 。

 「桃印」が俳号か本名なのかは分からないが、「桃」の一字は芭蕉が門弟などに俳号を与えるときに多用しているだけに、甥へのペンネームとしてこの名を与えたと考えるのは自然であろう。だが、古今の俳書のどこにも桃印の名は見えない。

 ということは、①余程、俳諧文芸に関する能力が無かったか、②興味が持てなかったか、③名前を公表できない事情があったか、ということが考えられる。それだけに、 「猶子桃印」については古来さまざまな憶測をよんできた。

 なお、謎の女性寿貞尼と桃印の関係について、彼らが夫婦であり、よって二郎兵衛やおまさ、おふうら三人は桃印の子供であるという説がある。これについては「寿貞」を参照。


http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/jutei.htm 【寿貞尼(じゅていに)】 より

(生年不詳~元禄7年6月2日)

 判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。 出自は不祥だが、芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時において「二人は好い仲」だった。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとする説がある。ともあれ、事実として、寿貞は、一男( 二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。 「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる 。ただし、それらを異性への愛とばかり断定できない。

 寿貞は、芭蕉が二郎兵衛を伴って最後に上方に上っていた元禄7年6月2日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、6月8日京都嵯峨の去来の別邸落柿舎にてこれを知る。

 なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、 「6月2日」は出来過ぎである。後世に捏造したものであろう。

 寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 。その子二郎兵衛もつかい申されし由。浅談。」(風律著『小ばなし』)が残っていることによる。 これによれば、二郎兵衛は芭蕉の種ではなく、寿貞が連れ子で母親と一緒に身辺の世話をさせたということと、寿貞には他に夫または男がいたことになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由も無い。だから、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。

浅談:浅尾庵野坡のこと。

風律著『小ばなし』:風律は多賀庵風律という広島の俳人。ただし、本書は現存しない。

芭蕉の種:寿貞の子供達は猶子」桃印(芭蕉甥)を父親とするという説もある。この説は、芭蕉妾説と同根である。すなわち、芭蕉の婚外の妻として同居していた寿貞と桃印が不倫をして駆け落ちをした。そうして彼ら二人の間に出来たのが二郎兵衛ら三人の子供だというのである。出奔した二人は、よほど後になって尾羽打ちはらして芭蕉の下に戻ってきた。そのときには桃印は結核の病を得ていたという。

 なお、この説では、芭蕉の深川隠棲のもとになったのも彼ら二人の駆け落ち事件が絡んでいたともいう。すなわち、駆け落ちをして行方不明になった桃印は、藤堂藩の人別帳のチェックが出来なくなったので、芭蕉は困り果てて、桃印を死亡したことにしてしまった。そこで、一家は日本橋に住むことは不都合となって、芭蕉は仕方なく深川へ転居したのだというのである。


https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11404004/ 【俳聖松尾芭蕉 ~ 妻寿貞 ~ 甥桃印】


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498749405.html 【数ならぬ身とな思ひそ玉祭     松尾芭蕉】 より

数ならぬ身とな思ひそ玉祭   松尾芭蕉(かずならぬ みとなおもいそ たままつり)

「玉祭」とは「魂祀り」…、つまり「お盆」に、お供え物をして、亡くなった人の霊を慰めることである。

芭蕉にはたくさんの名句がある。

この句は、芭蕉ファンなら知っているが、世間には、さほど知られていないであろう。

ただ、私は「お盆」の頃になると、ふと、この句を思う。お盆の句で、他に思い出す句は(私には…、)ない。

寿貞尼(じゅていに)がみまかりけるとききてと前書きがある。

「寿貞尼が亡くなった、と聞いて」という意味だ。

この句は元禄7年7月15日(旧暦)、伊賀上野の松尾家のお盆で作られた。

寿貞尼は、この年の6月2日、芭蕉不在の、深川芭蕉庵で死んだ。

芭蕉が、その訃報を知ったのは6月8日、京都嵯峨野の落柿舎に於いてであった。

この芭蕉庵は「第三次芭蕉庵」である。

「第一次芭蕉庵」は天和2年(1682)の天和の大火(八百屋お七の火事)で焼失した。

「第二次芭蕉庵」は、元禄2年(1689)、「おくのほそ道」へ出発するため、売り払っている。

第三次芭蕉庵は「おくのほそ道」のあとに作られた庵だが、実際、芭蕉は短期間しか住んでいない。

第三次芭蕉庵が建てられたのは元禄6年。

「おくのほそ道」の旅は元禄2年だから、4年ほど、芭蕉は江戸に帰っていない。

実際、芭蕉はもう、江戸に帰る気はなかったのではないか、と私は思う。

芭蕉の名はいまや天下にとどろいている。

芭蕉にとって、江戸は立身出世の場で、いまや、そこに固執する必要はなかっただろう。

「おくのほそ道」のあとは、京都周辺や、故郷・伊賀上野あたりをずっとうろついていたのである。

ひょっとしたら、芭蕉は死期を感じていて、その近辺で亡くなることを願っていたのかもしれないが、確証はない。

さて、「寿貞尼」とは何者か?これも実はよくわかっていない。

一番有力な説は、芭蕉の妾だった、ということだ。しかも「子持ち」の妾である。

嵐山光三郎さんが、延宝8年(1680)、芭蕉が日本橋から深川へ、突然、居を移したのは、この、寿貞尼と、芭蕉の甥の「桃印」が「駆け落ち」してしまい、それを知られないためだった、という説を著書の中で主張している。当時の不義密通は大罪だったのである。

芭蕉と寿貞尼は夫婦ではなかったから、それで不義密通になるのだろうか、という疑問はあるが、きっと、そうなのだろう。

しかし、この説も確定ではない。おそらく、深川へ移る頃から、芭蕉の手紙などから、寿貞尼や桃印の名がぱったりと消えてしまった、ということであろう。

その寿貞尼がなぜ、第三次芭蕉庵にいたのか?どうやら、また芭蕉庵にひょこりと戻ってきたようだ。

そのためかどうかはわからないが、芭蕉は四年ぶりに江戸深川に戻り、、第三次芭蕉庵に半年だけ滞在し、また伊賀や関西へ向かう。

その際になぜか、寿貞尼の子の次郎兵衛を伴っている。

なにかいろいろな複雑な事情があるように思えるし、ただ単に老年となった芭蕉の旅を手助けするための随行かもしれない。

まあ、ようするによくわからないのである。

ただ、この寿貞尼が、さほど恵まれた人生を生きて来た女性ではないのはなんとなくわかるであろう。

その彼女の訃報を聞いた芭蕉の心持はどうであっただろう。

芭蕉は、数ならぬ身とな思ひそ

つまり、とるにたらない身だと思ってはいけないよ。と呼びかけている。

きっと、寿貞尼は、時折、そんな言葉をもらしていたのではないか。

死ぬ時も、そんなことを思って死んでいったに違いない、と芭蕉は思ったのだろう。

そうではないんだよ。と芭蕉は、呼びかけている。

私たち(私だけか?…)は、自分は特別な存在だ、と思う気持と、自分は世の中にとって、取るに足らない存在だと思う気持と両方あるのではないか。

悲観的に考えれば、ほとんどの人が「取るに足らない身」つまり「数ならぬ身」なのではないか。

私がこの句に感動するのは、これは芭蕉と寿貞尼の間だけに成立する句ではなく、広く普遍性を持っているからである。

亡くなった私の父も、叔父も、祖父も祖母も、私にとってはかけがえのない人物だが、大きく見れば「数ならぬ身」であるに違いない。

人間の大半はおそらくみんなそうなのだ。

ただ、この句を呟く人にとっては、その思う人は「数ならぬ身」では決してない。

寿貞尼がおのが運命を悲しんだとしても、芭蕉にとってはかけがいの人なのだ。

私が、こうしてお前の死を悼んでいるじゃないか。

私が悼んでいる限り、お前は「数ならぬ身」ではないのだ!と言っている。

芭蕉はこの三ヶ月後の、10月に亡くなっている。