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芭蕉と女性

2020.12.14 05:58

https://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/184b24427f7a9a4c30fd3a50c50170b8 【小山榮雅『芭蕉、深川へ渡る』を読んで】 より

芭蕉の評伝に関した新刊本は目についたら片っぱしから購入することにしている。小山榮雅氏の『芭蕉、深川へ渡る』(発行・檸檬新社、発売・近代文藝社)をアマゾンで発注した時点では、同書が現代小説という体裁をとった謎解き本だとは予想していなかった。謎解きとはなにか。同書の帯に、こうある。

 日本橋の裏店へ、二十歳になる養子の桃印と二十五歳の内妻の寿貞と二歳になる次郎兵衛の三人を残したまま、一人で深川へ渡った芭蕉の「謎」に迫る。

 そう、芭蕉は謎の多い人物だが、とりわけ妻の寿貞そして桃印をめぐる三角関係には、いまだ定説がない。寿貞は尼となった女性の法号であり、本名は不明である。また養子の桃印は芭蕉の実の甥であるのに、これまた本名がわからない。桃印というのは芭蕉の使用した俳号桃青にちなんだ俳号であるはずだが、桃印の俳句は一句も記録されていないという不思議さである。

 寿貞と桃印は、かりにも親子の関係になるのだが、その二人が姦通し、つまり芭蕉を裏切って駆け落ちしたという説がある。小山榮雅氏は、姦通が死罪であった芭蕉の時代に、そんなことがありえただろうかと疑問を持ったらしい。そこで小山氏の出した結論は、寿貞は芭蕉が江戸に来てから、口入屋に依頼して雇った「年季奉公の妾」であり、年季が明けてから桃印と結ばれたとするものである。だから姦通罪には当らなかったというのだが、さてどうか。

 寿貞は芭蕉が江戸で知り合った江戸女とする小山氏の見解は、すこし強引すぎるように思われる。寿貞は芭蕉と同郷の伊賀上野の女性であった。江戸の口入屋が紹介した江戸出身の女性などではない。伊賀上野寺町の光明山念仏寺の過去帳に「松誉寿貞」の記載があるし、同寺の過去帳には「寿貞尼舎弟」あるいは「寿貞尼姉」という人物の記載もあるからである。この念仏寺は芭蕉の生家である松尾家の菩提寺ではないが、寿貞に「松誉」という文字をつけているのが意味深である。彼女は芭蕉と同じく藤堂新七郎家に仕えていた中尾源左衛門の身内であった、と私は信じている。くどいようだが江戸の女性ではないのである。

 実は謎だらけの俳聖の、その謎の多さの理由は彼が幕府の諜報活動者であるとすると納得がいく。寿貞も桃印も諜報活動に従事していた、という視点から私は時代小説を書き始めている。芭蕉の評伝は小説のかたちで類推するしかない、のは小山氏と立場を同じくするわけだ。

 それにしても、芭蕉の実子の次郎兵衛の芭蕉亡き後の消息がわからないのはなんとも歯がゆい。芭蕉のパトロンだった杉山杉風の子孫には山口智子という女優さんがいる。次郎兵衛や、芭蕉の子あるいは桃印の子とされる「まさ」や「おふう」の子孫が現存していても不思議ではない。どこかでひっそりと息をひそめられているのではないかという気がしてならない。


http://www.basyo370.com/?p=67  【恋する芭蕉】 より

俳諧には、「花の定座」「月の定座」と言って、月や花を詠み込むところが決まっています。同様に、「恋の句」も詠みこむ約束があります。俳諧にも人生にも、恋は不可欠のようですね。

芭蕉が愛した女性

芭蕉には、一人、妻のような女性がいました。寿貞尼(じゅていに)です。

元禄7年6月、彼女の死を知らせる手紙を、京都の落柿舎で受けとった芭蕉は、故郷での盂蘭盆で次のような句を作ります。

寿貞尼がみまかりけるをききて  「数ならぬ身となおもひそ玉祭り」

(取るに足らぬ、数に入らないような自分だとは思わないでおくれ。今、こうして初盆会をおこなって、あなたを弔っているのだよ)

寿貞の死を知らせてくれた甥の猪兵衛には、次のような手紙を書いています。

「寿貞無仕合もの,まさ・おふう同じく不仕合,とかく難申盡候」

(寿貞は不幸せ者、まさ・おふうも、おなじく不幸せ、とにかく言い尽くせません)

「まさ・おふう」は寿貞の子どもたちです。薄幸の妻(?)に対する愛情があふれる句と手紙ではありませんか。寿貞の死の4ヶ月後、芭蕉もあとを追うかのように逝去しました。

芭蕉は、江戸に出てきて日本橋で暮らしていたとき、寿貞と同居していたようです。芭蕉と同じく伊賀出身で、芭蕉を追って江戸に出たのだという説も、江戸で知り合ったという説もあり、詳細は不明です。

寿貞には次郎兵衛・まさ・ふうという3人の子がいましたが、父親は、芭蕉ではないようです。

寿貞がどのような女性であったのか、それ以上は分かっていません。そもそも「寿貞尼」という名も出家してからの名前で、本名は何といったのか、それさえもわかっていません。

明治45年に、芭蕉の孫弟子にあたる風律の『小ばなし』に次のような一文があることが紹介されました。「寿貞は翁の若き時の妾にて、疾く尼となりしなり」

芭蕉の門人、志太野坡(しだやば)が情報源のようですが、又聞きですから、正確性には欠けます。また、こんな説もあります。

芭蕉は日本橋で寿貞と暮らしていたが、こともあろうに、寿貞が、芭蕉の甥の桃印と駆け落ちしたから深川に移ったのだそうです。藤堂藩では、5年に1度帰郷して近況報告する義務があったが、それができなくなったので桃印は死んだことにし、自分は知る人のない深川に隠遁したというのです。

よくわからないことだらけです。が、だからこそ、興味がつきませんね。

芭蕉は、恋の名手だった!

芭蕉は、恋の句の名手でもありました。

芥川龍之介は『芭蕉雑記』で、「芭蕉の付け句を見れば、芭蕉が恋愛や人情を描いた詩人であるとわかる」という意味のことを書いています。さて、どのような恋の句があるのでしょうか。

宮に召されしうき名はづかし 曾良 手枕(たまくら)に細きかひなをさし入いれて 芭蕉

(元禄2年「風流の」歌仙)

(高貴な方のお相手に召し出され、浮き名を流したのが恥ずかしいわ。あの夜、細い腕をあの人の手枕として差し入れたのよ)

この句ができたのは、『おくのほそ道』の旅の最中。須賀川で巻いた歌仙の中に入っています。 足駄はかせぬ雨のあけぼの 越人  きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉

(元禄元年「雁が音も」歌仙)

(逢瀬の翌朝、雨の中を帰ろうと足駄《あしだ》をはくことができない。

後朝《きぬぎぬ》の別れにあたって、姫君があまりにもか細く、あでやかであるので)

「後朝の別れ」とは、一夜をともにした男女の翌朝の別れのことです。王朝の物語の一場面ような妖艶な句。

起きもせできき知る匂ひおそろしき 東睡   乱れし鬢の汗ぬぐひ居る 芭蕉

(貞享4年 「旅寝よし」半歌仙)

(起き出さなくても、よく知った匂いからあの人が忍んできたことがわかって、不安と期待とでいっぱいよ。逢瀬の後は、乱れた鬢の汗をぬぐうの)

源氏物語の一場面のような、何とも色気のある句です。

只そろそろと背中打たする 去来  打明けていはれぬ人をおもひ兼 翁(元禄4年 「蠅並ぶ」歌仙)

(病床で背中をゆっくり叩かせている。それは、思いを打ち明けて言うことができない相手への恋心が募ったせいなのだ)

身分違いの恋に病む人の苦しさを歌っています。 いかがでしょうか。

さても、匂い立つような芭蕉の恋の句の美しさ、あでやかさ。

どんな恋を経験してこんな句が作れるようになったのか、芭蕉の恋に思いを巡らせてみるのも、一興です。


もしかして 芭蕉は 江戸、日本橋で桃印、寿貞尼(じゅていに)親子と同居したとは考えられないでしょうか?。藤堂藩の規定で 5年に一度帰ることを求められる二人。掟を破れば里の家族を窮地に追いやることに。おりしも日本橋の大火。 火事で焼け出されたことを口実に桃印が焼死したと偽り 芭蕉一人が深川に移転。

奥の細道の旅を終えて江戸に帰り4人と再会。 第三次芭蕉庵で同居。

甥の桃印の看病と死 → 第三次芭蕉庵

寿貞尼(じゅていに)元禄7年6月、彼女の死を知らせる手紙を、京都の落柿舎で受けとった→ 第三次 芭蕉庵での死

その4か月後 芭蕉の死


https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/201904040018/ 【芭蕉と女性(親族)】より

<芭蕉の姉>

土芳や竹人の記す姉は一人である。その姉は山岸重左衛門、俳号半残に嫁したとの説があるが、半残は芭蕉より年下なので、その父同重左衛門、俳号陽和の妻だったろうとの説が出た。また、山岸家は五千石の藤堂玄蕃家の臣で、陪臣ではあるが三百石前後の家であり、家柄から見て松尾家と格差がありすぎるとし、この婚姻関係を否定する説もある。

芭蕉との関係で半残は最も親しかった伊賀蕉門の一人と見受けられ、妻といっても、このころは正妻ならぬ妻も考えられるから、山岸家との姻戚関係も全然否定し去ることもできないように思うが、土芳はこの姉は早死したと記している。ほかに中尾氏に嫁したとの説もあるが、これも証左なく、この辺はどうもはっきりしていない。 なおまた、芭蕉の書簡中にはこの姉とは思えない別の姉の存在が考えられる点が出てくるので、それについて異母姉を考えたり、次に述べる寿貞の姉や桃印の母を推量したりする説がある。

<寿貞尼>

問題の女性、寿貞のことは芭蕉の最晩年の元禄七年の文献上にあらわれてくる。すなわち、

(一)同年五月十六日付曾良宛芭蕉書簡中に、留守にしている深川の芭蕉庵について述べるところに、「寿貞も定而移り居可申」とあり、

(二)、閏五月二十一日付杉風宛中に、病人の寿貞が芭蕉庵中にいることが見え、

(三)六月三日付猪兵衛宛中にも寿貞のことを心配しているが、(四)六月八日付猪兵衛宛中には、寿貞が、まさ・おふう・理兵衛らを残して死んだことが見える。

(五)芭蕉はその七月に寿貞たまの死を悲しんで、「数ならぬ身とな思ひそ魂(たま)祭り」とよみ、

(六)十月の遺言状の中にも、奮の世話をしてくれた猪兵衛の感謝の言葉をのこしている。

そして、後年の文献(「小ばなし」)でではあるが、門人野坡の回顧談中に「寿貞は翁の若き時の妾にて、とくに尼になりしなり。其子次郎兵衛もつかひ被申し由」と見える。

次郎兵衛が寿貞の子であることは、其角の「芭蕉翁終焉記」の中にもすでに書かれているが、その次郎兵衛は元禄三年には江戸にいたと認められる(曾良芭蕉宛書簡)から、寿貞もそのころには江戸にいたらしい。

ほぼ以上のような文献から、寿貞に関する諸説があらわれている。すなわち、

(一)芭蕉の故郷亡命説に結んで、藤堂家出仕時代に関係の生じた女性とする説。

(二)芭蕉の「閉関之説」から考えて、芭蕉の遊蕩時代に関係の生じた玄人女(遊女)とする説。

(三)次郎兵衛を芭蕉との間の子とする説。

(四)次郎兵衛のみならず、理兵衛・まさ・おふうも芭蕉との間の子とする説。

(五)理兵衛は寿貞の父、まさ・おふうは芭蕉と別れた後の夫との間の子とする説。

(六)猪兵衛を寿貞の姉の夫とする説。

(七)㈲次郎兵衛も芭蕉との間の子ではないとする説。

(八)寿貞は後述する桃印の妻であったとする説。

(九)まさ、が桃印の妻、おふうが猪兵衛の妻であったとする説。

(十)寿貞はその子らと共に長く芭蕉の故郷の兄の家に同居していたとする説。

(十一)寿貞は元禄六年には再建の芭蕉庵に同居していたとする説。

(十二)右の芭蕉庵同居説を否定する説。

(十三)門人野坡談を信じ得ぬとし、芭蕉との妻妾的関係を認めない説。

その他、詳細に及んではここに書きつくせない。

<若き時の妾>

故郷上野の念仏寺の過去帳、二日の条に「松誉寿貞中尾源左衛門」とあるのが指摘され、寿貞は元禄七年六月二日没、芭蕉在郷時代の女性(A)と考える説がことに有名であるが、今日ではその説にも弱点があげられて来ている。すなわち、諸説紛々としていずれとも決しがたいが、上記の文献類から、寿貞は芭蕉との特別な関係があった女性とは認められよう。野坡談の「若き時の妾」というのは、同談の他の部分から類推しても、ほぼ信じてよさそうであり、芭蕉の在郷時代、あるいは江戸に下った初期のころには、正妻とまではしなかったであろうが、特に親しんだ女性が在存したことを考えても不自然ではない。

だが、その女性が家族的に関係を持ち続けたとまで考え得名根拠はなはだ弱い。おそらく、関係に中断があり、芭蕉が有名になり、生活も安定した晩年のころに再び芭蕉の周辺に近づくようになり、芭蕉にも特別な愛着があったし、寿貞も尼になり病身になっていたので、元禄七年の留守になる芭蕉庵にはこれを入れることも許したのであろうが、そのころの関係は、「若き時の妾」という以上ではなかったと思われる。

<次郎兵衛>

それで、次郎兵衛が寿貞の子だったからといって、すぐに芭蕉の子でもあったと考えることも承認はしかねる。芭蕉は晩年の芭蕉庵生活では次郎兵衛を身近かに置き、これを使い、元禄七年の最後の旅にはこれを同伴し、途中この若者を気にして労わったさまは、その旅から猪兵衛や曾良へあてた書簡中によくうかがわれる。この辺から芭蕉の父としての姿を読みとろうとする説もある。しかし、次郎兵衛のことを記した門人らの記事中には、これについて敬称が全く用いられていない。次郎兵衛は芭蕉の臨柳身終の病床にも侍し、葬式にも参列しており、そのことを特に其角も記しており、かつ、遺言状等を江戸へとどける使者ともなっているが、支考は「芭蕉翁追善之日記」に「従者二郎兵衛……この者はみな月の頃母を失い、此度は主の別をして」と記している。それに、芭蕉没後の次郎兵衛の消息は消えてしまう。多くの門人が非常に敬慕した芭蕉の子であるならば、こうした状態はおかしい。次郎兵衛は芭蕉の子とは見なしがたい。まして、まさ.おふうや理兵衛もそうである。結局、芭蕉には妻子があったとは認めがたい。後述するように、かれが多くの人々から尊敬された理由の根本には、よく孤独.貧寒な生活を堅持したという点のあったことも考慮せずにはいられない。

<猶子、桃印>

桃印については芭蕉自身が元禄六年四月二十九日付、荊口宛書簡中で「猶子」と書いており、同年三月二十日ころの許六宛申に、「旧里を出て十年余二十年に及び候て、老母に二度対面せず、五~六才にて父に別候て、其後は拙者介放にて三十三に成候」といい、三月十二日付公羽宛中にも「手前病人」として見え、肺結核で、その春に芭蕉庵内で死んだ事実が認められる。

猶子には養子・義子の意もあるが、ここは甥の意であろうか。すると、その父母のことも考えねばならないが、それは明らかでない。ともかく右の芭蕉の手記によると、桃印は寛文十年(芭蕉十八歳のとき)に生まれ、同五~六年に父と別れ、延宝二年ころ(二十年前)故郷を離れ、以後芭蕉が世話をした。別に元禄三年に江戸にいたことがわかるが(曾良宛芭蕉書簡)、その桃印が同六年春に芭蕉庵で死んでいるのである。

<猪兵衛・桃隣>

某その他、芭蕉の縁辺で考えられる人に桃隣がある。

天野氏・通称を藤太夫といい、太白堂・呉竹軒、晩年は桃翁と号した。芭蕉と同郷人で、芭蕉より年長であるが、芭蕉の門に入り、俳人として活躍した。また、前出した猪兵衛は伊兵衛とも書き、その山城の加茂にあった実家を芭蕉もたずねているが(元禄七年閏五月二十一日付書簡)、「真澄の鏡」によると、芭蕉の甥であり、一時杉風方の番頭をつとめたが、のち高山ビジの世話で武士となり、松村真左衛門と名乗り、本郷春木町(文京区)に住んだという。『芭蕉翁真跡集』などを著わした桃鏡はこの人の子孫だという。なお、望翠。半残のことは既述したが、故郷で芭蕉を親しくかこんだ俳人たちの中には、土芳・雪芝・卓袋。意専らにも縁辺関係が考えられるという。

こうした点は上記のようにまだ不明なところが多いのであるが、芭蕉伝にとっては見過しえないことであるので、あえてこの序章に述べておくのである。