すべて私なのかもしれない。としたら世界はどう変わるのだろう
The role of the work of the day
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もしかしたら、目の前に映るすべての人は、私なのかもしれない。
最近、そう感じながら過ごしていました。
子育てをする友人も、私なのかもしれない。
通りすがりの働く人も、私なのかもしれない。
コンビニでレジを打つ人も、私なのかもしれない。
どこかで怒っている人も、どこかで嘆いている人も、私なのかもしれない。
すべて私の一部、私なのではないか。そう思うようになったのは、ある、きっかけがありました。
2018年6月の夏至の日から、奈良の地とのご縁があり、その時に見た光景に私は心底自分を恥ずかしく思ったのです。「なんて美しいのだろう」と、人の生きる姿の美しさに心を奪われたのと同時に、都会で服を汚すこともなく、キレイゴトを話す自分が恥ずかしくて、めまいがする感じでした。もともと、私は自分がいつもキレイゴトを言っているような気がしていている自覚はありました。たいして経験もない私が、何をキレイゴトを並べているのだろう。しかし、それでも、まっすぐに言葉にしようと意識するとそうなってしまうので、なんとか自分の中で受け入れようとしてきました。
そのことを奈良の友人に思い切って話しました。するとこう返ってきました。「都会の中で生活しながら、目に見えないものや、美を感じ取ることは自分にはできないと思うから凄いと思うよ。」
少しずつ、少しずつ、私はわたしでいいのだと思えるようになれた言葉でした。
すると、今度は、新しい考えが生まれてきました。
もしかしたら、奈良で生きるその姿もまた、私なのかもしれない。
...嗚呼
この世界はもしかしたら、すべてわたしといえるのではないか。
誰かが誰かを補い、役割を担いながら、
誰かの怒りも、悲しみも、老いも、生きる姿も、私の一部であり、私なのかもしれない。
「あなたは私、私はあなた」そういう言葉があるのは知識としては知っていましたが、あまりピンとくることはありませんでした。しかし今は、少しずつ深い部分で体感しているような感覚があります。
他の誰とも異なる私がいるから、世界は成り立っている。
そんな私の姿はあなたでもあり、あなたは私でもある。
もしこの概念が本当の意味で世界中に広がったら、世界はどう変わるだろう?
Blog by Mami Grace Osada
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