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https://www.ozizou.jp/fukei/?p=1076 【蓮華の五徳(蓮の五徳)】 より
仏教のシンボルの花は<蓮>極楽の絵には蓮の花が描かれ、仏さんは蓮の花の上に座られています。
蓮華の五徳
ではなぜ極楽に蓮の花が咲いているのでしょうか?
それは阿弥陀経(あみだきょう)というお経に書かれているからです。
<池の中に蓮華あり、大きさ車輪の如し・・・>
仏教のシンボルの蓮には、五つの徳が備わっています。
この五つの特徴を私達が持てば、極楽に生まれることができると言われています。
蓮華の五徳(れんげのごとく)
1 淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)2 一茎一花の徳(いっけいいっかのとく)
3 花果同時の徳(かかどうじのとく)4 一花多果の徳(いっかたかのとく)
5 中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく)
1 淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)
蓮は泥の中で育つけれども、その泥に染まることなく、綺麗な花を咲かせます。
私達もどのような厳しい環境にいたとしても、心の中は清浄に保てるということを表しています。
2 一茎一花の徳(いっけいいっかのとく)
蓮の花は一つの茎に一つの花を咲かせます。あなたは唯一無二の存在です。誰の代わりでもありません。自分自身をしっかりと持って、人生を謳歌しましょう。
3 花果同時の徳(かかどうじのとく)
蓮の花は花が咲くと同時に種ができています(※)。生まれた時から、すでに誰にでも仏の心が備わっています。仏の原石は備わっているので、きちんと磨きましょう。
※実際には、花が咲くと同時に種ができるわけではありません。
ここで重要なのは、植物学的な正しさでなく、そんな事を思わせるぐらい蓮の花は神秘的だということです。
4 一花多果の徳(いっかたかのとく)一つの花には沢山の種ができます。
自分の悟り(開花)が沢山の人を幸せにできます。
お釈迦様もご自身が悟りを開かれた後、生涯、その悟りを人々に伝え歩きました。
だから仏教として今に伝えられています。
5 中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく)
蓮の茎は外は硬いが、中は空洞です。その茎が太陽に向かって一直線に伸びます。
「私が、私が」という我を空にして、しっかりと悟り(太陽)へ向かう努力をしましょう。
以上、蓮華の五徳です。
この五徳を実践すれば、あなたは極楽に生まれる事ができます。
https://www.cocokuri.com/blog/__trashed-4/ 【蓮の花(ロータス)に学ぶ、知性や慈悲との向き合い方】より
こんにちは! cocokuri広報のゆりこです。
こちらのブログでは毎回、マインドフルネスや心と身体の健康関連のお役立ち情報や体験談などをコラム形式でお届けしたいと思っております。
今回のテーマは、仏教において重要なシンボルフラワーである「蓮の花(ロータス)」について。
蓮がなぜここまで仏教と密接に関連しているかということについて、蓮の持つ性質やその魅力について詳しくお伝えしたいと思います。
蓮の花は、インド原産の多年性水生植物であり、特に夏には美しい花を咲かせます。
花の形状が、ハチの巣に似ていたことから古来は「ハチス」と呼ばれており、そこから「ハス」になっていったとのこと。
蓮は仏教において知性や慈悲の象徴とされ、死後の極楽浄土に咲く花とされています。
その花言葉は「動じない心」で、まさに蓮の凛とした強さを象徴している様ですね。
蓮の性質として、泥水が濃ければ濃いほど蓮の花は大輪の花を咲かせ、真水のような綺麗な水では小さな花しか咲かないのだそうです。 人は誰しも苦難や困難を避けたいと思い、できれば楽しいことばかりの人生が幸せであると思うかもしれません。
しかし、蓮の花のように厳しい環境を受け入れ、悟り、花開くためには苦しみ、悩むという経験が必要であり、それ無しでは本当の幸せを感じるアンテナも鈍ってしまうのではないかと思います。
心豊かな人になり、実りある人生を送る事が出来るかどうかは、「どこまで自分が試練に立ち向かい、乗り越えれたか。そして今ある幸せを心から大切に思えるか。」によって大きく変わってくるのでしょう。
確固たる自分自身の意思と目的を持ち、それを指針に努力し続けられる、そんな蓮の花のような心を持って生きていけたら素敵ですよね。
Facebook・サンクチュアリ出版 投稿記事
孤独と向き合って、初めて出会える自分 ~心が楽になる考え方~
「人といるのに寂しい」「自分の居場所が分からない」「自分の存在意義が感じられない」多くの人が抱えるこんなモヤモヤ。書籍「続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編」の中から、そんなモヤモヤが楽になる思考法をご紹介します。
https://sanctuarybooks.jp/webmag/20201205-6297.html
【孤独と向き合って、初めて出会える自分 ~心が楽になる考え方~】 より
「人といるのに寂しい」「自分の居場所が分からない」「自分の存在意義が感じられない」多くの人が抱えるこんなモヤモヤ。書籍「続 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。孤独も悪くない編」の中から、そんなモヤモヤが楽になる思考法をご紹介します。
家庭でも、職場でも、学校でも、なんだか居心地が悪い。自分が本当に受け入れられているのか分からない。
心安らぐことができない、このような人は少なくないと思います。
本書のキャラクターである白いねこ(パフェねこ)は「居場所がないと思う時の居場所って、どこなんだろう?」「ないのは居場所じゃなくて、自分や他人を受け入れる勇気なのかも」と私たちに語りかけます。
でも、今はこう思うのです。居場所って、自分がそこにいるのを許してくれる場所であると同時に、自分自身が他人といることを許せる場所でもあるのではないかって。
だから、自分も他人も受け入れられずにいると、居場所の選択肢を減らしてしまう気がしました。(書籍本文より)
職場や学校に「嫌な奴」がいたとします。
それでも、その場所を自分にとって心地のいい居場所にしたいと思うなら、まず相手のことを認める、理解することから始めるべきではないでしょうか。
嫌な相手を変える必要も、自分を無理に変える必要もありません。
「自分も周りも今のままでいい」と受け入れることができれば、居場所を探さなくても、今いるここを居場所にできると思います。(書籍本文より)
「人といるのに寂しい」人と一緒にいる時に、疎外感を感じる、会話に入れない、むしろ1人でいるほうがホッとする…。
これも当てはまる人が多いと思います。
著者は、「孤独を感じるのは人がいるかいないかではなく、自分の存在を認められる場所があるかないかだと思う」と言います。
1人でも寂しくない時は、「自分はここにいていい」と、不安を感じることなく、安心できる時なんです。
1人でその場所を作れる人は1人でも孤独じゃないし、自分に居心地がいい人間関係を築いている人は、その人達と一緒にいれば孤独を感じないと思います。(書籍本文より)
あなたは何をしている時に幸せを感じますか?どんな時に心が満たされるでしょうか?
1度じっくり考える時間をとってみてください。
寂しい寂しいと思って、集まりに積極的に顔を出していたけれど、よくよく考えてみたら1人で家で読書している時間が1番幸せだった、なんてことに気づけるかもしれません。
Facebook・相田 公弘さん投稿記事【人に喜ばれる存在になること】
小林正観さんの心に響く言葉より…人生の目的は、人生を楽しむこと。
では、人生を楽しむとはどういう生き方をすることでしょうか。
どこかのテーマパークや遊園地に出かけて、ジェットコースターやお化け屋敷でキャーキャー騒いだり、おいしい料理をとお酒を味わったりすることとは、根元的に違います。
真の人生の楽しみ方というのは、「自分の存在が喜ばれているという喜びを、実感しながら生きていく」ということ。
これが一番楽しい人生の過ごし方です。まわりの人に「あなたがこの世にいてくれて嬉しい」と言ってもらえる。
それが喜びであり、楽しみであり、幸せだと感じる日々を送ることです。
ものすごくほしい物を手に入れた。それも楽しい。
幸せなことかもしれませんが、喜びの質も大きさも違う。
「人に喜ばれる存在」になった喜びは、人間にとって最大の喜びなのです。
人の上に抜きん出て優れた人になるのではなく、どんなポジションでも、どんな側からでもいいから、自分の持っている特徴、特性を生かして、社会に参加する。
たとえば、家をつくるという大工さんの仕事は、社会で喜ばれています。
壁塗りをする左官屋さんも、素人には到底真似できない技で、丈夫な壁に仕上げてくれます。職人の世界だけではありません。新聞や牛乳を配達する人も喜ばれています。
電車の運転士や旅客機のパイロットも喜ばれています。
プロスポーツ選手のように人に感動をもたらして喜ばれている人もいます。
お笑い芸人のように人を笑わせて喜ばれている人もいます。
重要なのは、本人が「喜ばれている」と実感して生きているかどうかです。
『ごえんの法則』大和書房 https://amzn.to/2Wd5CKZ
人生を楽しむとは、「人に喜ばれること」。
人に喜ばれることが、人にとって一番楽しいことだからだ。
喜ばれる人は、いつも明るく、機嫌がよくて、ニコニコしていて、感謝が多い。
そして、頼まれたことを、嫌な顔をせず「ハイ」と引き受けてくれる。
そして、「愛語」がある。
反対に、嫌われる人は、冷たい言葉や皮肉を言ったり、不機嫌で、愚痴や文句が多い。
感謝することなどない。
そして、頼まれごとを、言い訳したり、嫌な顔して断る。
人生の目的とは、人に喜ばれる存在になること。
あなたがこの世にいてくれて嬉しい、と言われる人でありたい。