巡洋艦のように舞い、戦艦のように刺す
どうも、トロオドンです。
heislandmine.workとか言う鯖でなんかうだうだしょうもない話をしてるアカウントでゴロツキとは関係がないんですが、茅野さんに軍艦の話をしてほしいと言われたので軍艦の話でもしようかと思ったんです。しかしまあどこに書こうかと思ってゴロツキに書いてやろうかと思いました。鯖缶の押尾さんとはなんだかんだ仲良くしてるのでゴロツキ作文集に戦艦の話を書き込むやべえ奴になってやろうかと、そう言う魂胆です。
heislandmineではrodney1944というIDですし、他のサービスではyamashiro1944というIDを使っている私なんですがこれは軍事ネタに詳しい人ならなんとなく察しがつくはずです。
(admin注:???????????????????)
山城
ロドネイ
これは日本の戦艦山城とイギリスの戦艦ロドネイからとった名前でして、まあ端的にいって私は戦艦が好きなわけです。それで戦艦の話でもするかと思ったわけですが、山城の話をしてたら一生終わらないので、とりあえず置いておこうと思いました。で、僕はnoteにも戦艦の話書いたりもしてて、その辺と話題がかぶらない感じの戦艦の話をしたいなと思いました。
(admin注:知らねかった)
そんなわけで今日話していく戦艦の話は日本の巡洋戦艦の始まりともいえる軍艦、筑波型とその後に作られた鞍馬型の話をしていこうと思います。
筑波
鞍馬
なぜこれらの軍艦の話をしていくかというと、筑波や鞍馬は歴史的にあまり注目されない軍艦なわけですが、実はこれらの軍艦は日本海軍という軍隊が戦艦というものに対して非常に先進的な考えを持っていたことが明らかであり、それが偶然タイミングの問題でマイナー軍艦になってしまったというだけの話だからです。ではなぜ筑波や鞍馬がそんなに評価される軍艦なのか、それを今回は解き明かしていきたいと思います。
1.巡洋戦艦の黎明
そもそも巡洋戦艦とは何か、という話をするべきかも知れないがその前に巡洋戦艦が生まれる前の話をしていくべきだろう、なぜならここはゴロツキ作文集、戦艦に詳しくない人にもわかりやすく書くべきであろうからだ。時期的には日露戦争の前あたりの頃、このころの戦艦はいわゆる前弩級戦艦と今では呼ばれている。
三笠
横須賀には戦艦三笠が展示してあるが、あの戦艦三笠は日露戦争で活躍した戦艦であり、典型的な前弩級戦艦である。世界的にも有名な戦艦であり、このような艦が簡単に見に行けるというのは非常に素晴らしいことだと思う。横須賀に行った際にはぜひ寄っていただきたい場所だ。ハワイで戦艦ミズーリに乗ったこともあるが、やはりこういった記念艦というのは大切にしていくべき文化だろうと思う。
明治時代の日本海軍には六六艦隊計画というものがあり、戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻を主体にした艦隊を整備することでロシア海軍の増長に対抗しようという計画だった。戦艦6隻を主体にしつつ、その補助戦力として装甲巡洋艦6隻を整備する、これが六六艦隊計画であった。
装甲巡洋艦出雲
装甲巡洋艦がどういった軍艦かというと、戦艦よりも火力は劣るが機動力が高く、巡洋艦よりも機動力に劣るが火力で勝る、そういった戦艦と巡洋艦のあいの子というべき軍艦である。三笠など当時の戦艦は12インチ(30.5cm)砲を装備するのが一般的だったのに対し装甲巡洋艦は8インチ(20.3cm)砲を装備していたように、小型の戦艦と言った趣の軍艦であり、当時世界各国が保有していた。装甲巡洋艦は主に「強い敵からは逃げ弱い敵をボコりまくる」という、軍艦というピラミッドの戦艦と巡洋艦の間にいる生き物であったわけだ。
当初この装甲巡洋艦は「安くてコスパの良い船」として英仏などの国において植民地警備などの用途として建造されていたのだが、次第にこの装甲巡洋艦が発展し戦艦に次ぐ艦隊の主力艦として計算されるようになる。日本海軍の六六艦隊計画はこの時期に立てられたもので、当時予算に余裕がなかった日本海軍は戦艦を大量整備するロシアに対して装甲巡洋艦で戦艦の不足を補うという決断をすることになった。
この時日本海軍が海外に発注した装甲巡洋艦はさっき言ったように主砲が20cm砲となっており、これは当時の諸外国の装甲巡洋艦の主砲が6インチ(15.2cm)クラスだったことと比べれば一回り大きい主砲を装備していたといえ、その火力はかなり大きいものであった。船のサイズも大型化し防御力も戦艦と殴り合うことを考慮して強化した一方、巡洋艦として求められる機動力は戦艦の18ノットに対して装甲巡洋艦は20ノットと諸外国の装甲巡洋艦よりも戦艦に寄せた軍艦として建造された。これは一つの正解を導き出した方針であり、当時まだ海軍がそこまで発達していたわけではない日本海軍だったもののその方針は非常に優れたものだったと言える。
他国の装甲巡洋艦が戦艦と殴り合うことが厳しい性能であったのに対し日本の装甲巡洋艦はある程度戦艦と殴りあうことが出来、最悪差し違えるぐらいのことはできる性能である。敵にとっても貴重な戦艦をそれよりひとまわり小さい装甲巡洋艦で食うことができれば、日本にとっても貴重な戦艦を温存することも可能で、コスパが最も優れた船と評価することも出来る。実際日本は日露戦争前にロシアとの激しい競争の末にアルゼンチンからイタリア製装甲巡洋艦2隻の購入に成功しているように、装甲巡洋艦という戦力を重視していた。
2.巡洋戦艦の始まり
そして日露戦争が始まると日本の連合艦隊はまずロシア東洋艦隊を撃滅、日本海海戦でバルチック艦隊は灰燼に帰し、理想的な勝利をもたらした。これは単に日本海軍の戦力整備が貧弱な国力の中で成功したことも勝因の一つと言える。何よりこの戦争を見ていたイギリスはこの日本海海戦にこれからの海戦と戦艦の変化を見出し、イギリス第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャーはイギリス海軍の改革に着手することとなった。
ドレッドノート
イギリスは全戦艦の建造計画を一時停止し全国力を投じて新戦艦ドレッドノートの建造に注力。このドレッドノートは従来の戦艦の倍以上の火力を発揮する戦艦で、これが誕生したことで世界中の戦艦が一瞬にして旧型と化す大革命が起きた。俗にいう「弩級戦艦」の時代が訪れたわけだ。これは戦艦における産業革命のような大ショックであり、その影響は世界各国に波及した。
ドレッドノートにおける最大の革命はずばり火力の統一で、前弩級戦艦には大小様々な大砲が積まれていたものをドレッドノートは全て12インチ(30.5cm)砲に統一したことで火力の効率が上がり、理論上一隻で倍以上の火力を発揮する高性能を手に入れた。
さらにフィッシャーは「機動力こそ最大の防御」を掲げ戦艦と同等の火力を発揮し機動力を限界まで引き上げた戦艦を計画、これは「巡洋戦艦」と名付けられることとなった。
巡洋戦艦インヴィンシブル
巡洋戦艦インヴィンシブルの特徴も火力の統一で、戦艦と同じ砲を装備し全ての砲を一つに統一することで最大限の火力を発揮させるという思想はドレッドノートと同じ。装甲を削り薄くすることで軽量化し、ドレッドノートの倍ちかい出力の機関で速力は25.5ノットという爆速を発揮し、これにより世界の装甲巡洋艦は全て旧式となり果ててしまった。これ以後フィッシャーは巡洋戦艦に取り憑かれイギリスは狂ったように巡洋戦艦を量産し続けることとなる。
ではここに生まれた巡洋戦艦の定義とは何なのだろうか。これはインヴィンシブルから明らかで、「戦艦と同等の火力を持ち、巡洋艦と同等の機動力を持つ艦」が巡洋戦艦である。その代わり防御力は犠牲になっており、大出力機関などからその性能を実現するためには莫大なコストがかかる非常に高価な軍艦でもあった。
3.筑波型装甲巡洋艦・鞍馬型装甲巡洋艦
筑波型装甲巡洋艦
さて、時は遡って日露戦争時の日本。日露戦争前に装甲巡洋艦2隻を購入し強化された連合艦隊だったがロシア東洋艦隊との戦闘で戦艦八島と初瀬を喪失しており、戦力はむしろ開戦前よりダウンするという厳しい状況に追い込まれた。バルチック艦隊が控えていることから日本海軍は東洋艦隊との戦闘で主力艦を喪失するわけにはいかなかったのだが、現実はそう容易ではなかった。
そこで日本海軍は1904年度の予算で追加の装甲巡洋艦建造計画を承認、呉造船所で筑波と生駒の建造を開始した。これは建造当時国産最大の軍艦でもあった。この筑波型の建造にあたって喪失した戦艦の代替戦力を期待されていたことから筑波型の主砲は12インチ(30.5cm)となり、ついに装甲巡洋艦と戦艦の主砲が同じとなった。これは装甲巡洋艦における一つの革命である。装甲に関しても戦艦より少し薄い程度で装甲巡洋艦としては厚い防御が施されており、速力は20.5ノットと他の装甲巡洋艦と同程度の機動力を発揮させることが可能だった。
そう、この筑波型はある意味において巡洋戦艦の先駆けと言える軍艦だったのだ。しかしまだ当時巡洋戦艦という言葉はなく、装甲巡洋艦に分類されていただけのことなのである。これは日本海軍の先見の明が光る部分であったと言える。
しかし筑波が竣工したのは1907年1月ですでに日露戦争は終結していた上、ドレッドノートの就役は1906年12月で完成した頃にはすでに時代遅れとなっており、インヴィンシブルも1907年4月に完成したことで筑波型は完成と同時に旧式軍艦となってしまうという悲しい結末となってしまった。筑波型は1912年に巡洋戦艦に分類が変更されている。
鞍馬型装甲巡洋艦
鞍馬型に関しても同様で、日露戦争時の臨時軍事予算によって1905年に建造が認められ筑波型の改良型として設計された。筑波型が副砲として6インチ(15.2cm)砲を搭載していたのに対し鞍馬型は副砲を8インチ(20.3cm、日露戦争時の装甲巡洋艦の主砲と同等)まで拡大し火力を強化、防御力は同じで機動力が21ノットから22ノットと強化されたことで全体的に性能が向上し、これも巡洋戦艦にカウントすべき軍艦であった。しかし当然ながら弩級戦艦の誕生により鞍馬型も旧式となってしまった。
結果、後世の歴史からはこの筑波型・鞍馬型の存在は非常に薄いものとなってしまい、一部軍事オタクから世界最初の巡洋戦艦と呼ばれる程度の微妙な立ち位置となってしまっている。
4.巡洋戦艦のその後
日露戦争に影響を受け巡洋戦艦を発明したイギリスはその後次々と新型戦艦を建造し続け、弩級戦艦も1912年に完成したオライオンによって旧式戦艦となってしまう。そこからは超弩級戦艦の時代となり、イギリスは名実ともに世界最強の海軍国となる。イギリスと敵対していたドイツも海軍拡張を続け膨張したその戦力は第一次世界大戦で衝突、後世に語り継がれるユトランド海戦では英独両軍の主力艦隊が全力でぶつかり合う展開となった。戦闘は最終的に両軍ともに損害を出して撤退、引き分けという形に終わったものの、このユトランド海戦では多くの学びが生まれた。
爆沈するクイーン・メリー
爆沈するインディファティガブル
沈没したインヴィンシブル
甚大なダメージを受けながらもなんとか帰還する独巡洋戦艦ザイドリッツ
この海戦においてイギリス海軍が誇る巡洋戦艦はドイツ海軍の戦艦相手に圧倒的防御力の不足を露呈、クイーン・メリー、インディファティガブル、インヴィンシブルと3隻もの巡洋戦艦が爆沈するという悲劇に見舞われた。一方のドイツ海軍はイギリスほどの極端な軽防御ではなかったこと、伝統的なダメージコントロールの強さから異常な粘り強さを発揮し巡洋戦艦の損害は1隻にとどまった。この戦訓から防御力を削った足が速いだけの戦艦には価値がなく、防御が硬いが足の遅い戦艦もまた使い勝手が悪いという結論に至り、戦艦の高速化または巡洋戦艦の高防御化が進み、これらは高速戦艦として収束することとなる。
防御力が高く機動力もある戦艦、よくよく考えるとこれは筑波型や鞍馬型も一種の高速戦艦であったのではないか?と考えることも出来る。つまり筑波型や鞍馬型の思想は決して間違ってはいなかったのだ、そして世界最初の高速戦艦であったとも言えるのではないか、と。
5.火力は七難隠す
結局戦艦に求められるものとは何なのか。それは日本海軍がよく理解していた部分であり、詰まるところ火力のない戦艦には存在価値などないということである。さっき巡洋戦艦を否定するようなことを書いておきながらアレだが、相手を殴り殺せるだけの火力があればどんな軍艦であろうと勝機はある。相手を殴り殺せない戦艦に価値はないのだ。どんなに堅い防御を持とうが相手の巨弾が降り注げばノーダメージとは行かない。だからこそ相手を上回るだけの火力を持たなければいけないのである。
ではなぜ巡洋戦艦がなぜダメだったかと聞かれれば戦艦同士の殴り合いにおいて機動力は防御力に大きな影響を与える要素ではないから、と言えるだろう。フィッシャーが戦艦の機動力を過大評価しすぎたことが巡洋戦艦失敗の原因と言える。「機動力こそ最大の防御」は正しくなかったわけである。機動力を防御力として利用することが出来ない以上一定の防御力がなければ敵艦とは殴りあうことが出来ないということが明らかになった。
この場における一定の防御力の定義が難しいが、一般に軍艦を設計する場合その軍艦が交戦する距離で自身と同程度の攻撃に耐えうる性能を元に設計される。つまり自分の主砲に耐えられる性能というわけであり、巡洋戦艦は残念ながらその基準をとても満たすものではなかった。例えばイギリスのレナウン級巡洋戦艦は完成当初側面装甲5インチ(15.2cm)、水平装甲3インチ(7.6cm)という圧倒的な薄さを誇ったが後に改装で強化され側面装甲9インチ(22.8cm)、水平装甲5インチ(12.7cm)と倍近くまで強化されている。しかもこれでもまだ薄い部類の装甲で、これ以後の戦艦は恐竜化が進んだ。
金剛級高速戦艦
日本海軍は早くから戦艦は火力を重視すべきということに気づいていたと言える。もちろんイギリス海軍も理解していたが、日本海軍は近代海軍が発足してまだ長くない時期に主力艦において最も重視すべき性能は火力であることに気づいていたということはここまでの話から理解していただけるだろう。そこからの日本海軍は常に世界最大の火力を持つ戦艦を整備してきた。当時イギリスが13.5インチ(34.3cm)砲を主力にしていた時代に日本は金剛をイギリスに発注、金剛は主砲を14インチ(35.6cm)とした巡洋戦艦であり、当時世界最強の巡洋戦艦の一つであった。その性能はイギリス海軍も羨ましがり第一次大戦時にイギリスから金剛を貸してくれないかとの相談も来た。
後に金剛は巡洋戦艦の失敗から防御を強化した高速戦艦へとモデルチェンジし第二次世界大戦に突入する。第二次世界大戦においても金剛は30年前の旧式戦艦でありながら米海軍に恐れられ、そして日本海軍の戦艦で最も活躍した戦艦ともなる。なぜ金剛が旧式にもかかわらず第二次世界大戦でも通用したのか、これは単に火力にある。もし金剛が当初の計画通り12インチ(30.5cm)砲を装備していれば第二次大戦時にはここまで脅威とならなかったであろうことは容易に想像ができる。14インチという大口径砲を搭載したことが彼女の寿命を伸ばしたというわけだ。火力は七難を隠すし、その火力とは結局主砲の口径なのである。
そして長門の建造で41cm砲の搭載に踏み切るとこれも当時世界最大の火力を誇る戦艦の一つとなりこれら世界最強の戦艦を総称してビッグセブンと呼ばれるようになる。そして皆さんご存知戦艦大和は主砲がついに46cmとなり、これは間違いなく世界最強の火力を誇る戦艦である。日本の考える戦艦というのは実にシンプルで、世界最大の火力とそこそこの機動力を持つというところである。世界最強の火力を持った戦艦群が25ノットという戦艦にしては高速な機動力を持っており、数こそ少なかったもののその質は非常に高いものがあった。戦艦大和もその延長線上にあった軍艦であり、最強の軍艦というのはシンプルであることが重要ということに気づかされる。どんなものでもその性能はバランスが大事なのであり、何かを尖らせると全体のバランスが崩れてしまうのだ。
その主力戦艦群に対して高速戦艦の金剛も高火力の主砲と30ノットの高い機動力があり、これを侮ることは出来ない。25ノットの戦艦群と30ノットの高速戦艦群は世界でもトップクラスに高速の編成であったと言える。これについてはそれまでの30年間地道に行ってきた戦力整備が結実した結果であり、決してその戦力は劣ってはいなかったと言える。
米海軍も開戦時は戦艦戦力について数で日本より勝っていたがかなり日本海軍を恐れておりその戦力については日本より劣っていたと言える。新型戦艦群を完成させたことで火力で日本を上回ることには成功したが数の主力は旧式戦艦群であり、これらの速力は全て21ノットと低速だった。21ノットと28ノットの組み合わせでは25ノットと30ノットの日本海軍にいいようにやられてしまう。機動力が高いということは戦場を選択する権利があるということであり、機動力に劣るアメリカ海軍は日本海軍に主導権を握られる可能性を残していた。アメリカ海軍は新型高速戦艦アイオワ級の完成をもって28ノットと33ノットの組み合わせとなり日本海軍を上回る戦力整備に成功した。
しかし日本海軍最強の戦艦部隊は結局太平洋戦争ではまともに運用されることなく終わってしまった。なぜか。
日本海軍は日露戦争においても戦艦を積極的に投入することを恐れていた。なぜならいつかバルチック艦隊との大決戦があり、その大決戦のために戦艦戦力を温存しておく必要があったからだ。そして主力艦は戦艦でありながらも実質的には装甲巡洋艦が主力艦となり、ありとあらゆる戦場を駆け巡った。装甲巡洋艦が巡洋戦艦となり、高速戦艦となってからもその考えは抜けることがなかった。
第二次大戦時の金剛は日本海軍にとっては沈んでも構わない使い勝手の良い駒であり、その根底にあるのは日本海軍本命の主力は戦艦部隊という認識である。その戦艦部隊は結局使い所に欠き、結局最も出番が多かった金剛級が最も戦果を挙げることとなった。これは機動力の高い戦艦が使い勝手が良いということでもある。真珠湾攻撃で日本海軍が空母全戦力を投入できたのも例え空母が全て沈んでも日本には戦艦があるという部分があったと言える。
日本人特有の切り札を最後まで残しておこうという考え方が最終的に自分の首を締めてしまったと言えるだろう。似たような考え方に「fleet in being」日本語で現存艦隊主義という考え方があり、艦隊は存在していることに価値があり実際に運用して消耗してしまっては元も子もない、艦隊が存在するという事実だけで敵を妨害できるという考え方がある。艦隊が存在するだけで敵国海軍はその存在を封じ込めるために数倍以上の戦力を常に準備し抑えておく必要がある。つまり艦隊は存在することに意味があり、実際に決戦で運用する意味はないという考え方である。
しかし日本海軍は決してそうではない。なんなら日本海軍は日露戦争の体験から戦争の命運を決める艦隊決戦に勝利するためなら艦隊全戦力を失っても良いぐらいの覚悟があった。その決戦に勝利し、戦争に勝利することこそが日本海軍の戦略であり、その決戦で運用しないことなど考えられないことなのだ。日本海軍は艦隊現存主義とは異なり最終決戦で使うために最後の最後まで使うことを避けていただけにすぎない。実際に起こるはずもない艦隊決戦のために戦力を温存し続け敗北してしまったと言える。
日露戦争から日本海軍はずっと戦艦に対して求めるものが正しかったということが明らかになると同時に、その戦略に対する考え方も日露戦争からずっと変わらなかったということがわかるのがこの筑波と鞍馬という船の存在なのである。