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カトリック(イエズス会)松が峰教会

2020.12.18 02:32

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%9D%BE%E3%81%8C%E5%B3%B0%E6%95%99%E4%BC%9A   【カトリック松が峰教会】 より

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

カトリック松が峰教会(カトリックまつがみねきょうかい)は、栃木県宇都宮市にあるキリスト教(カトリック)の教会およびその聖堂。大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築であり、1998年に国の登録有形文化財に登録された[1]。

1888年 - パリ外国宣教会 カジャック神父により川向町に宇都宮天主公教会が創立された。

1932年11月20日 - 現聖堂が竣工し、11月23日に献堂式が挙行された。設計は、当時横浜に住んでいたスイス人建築家のマックス・ヒンデル。施行は宮内初太郎(施工統括)と安野半吾(石工棟梁)による。

1945年7月12日 - 太平洋戦争でアメリカ軍の空襲により罹災した。

1998年12月11日 - 建物は国の登録有形文化財に登録された。


http://www.nanpou.com/?pid=149938160 【奄美・沖縄 カトリック宣教史―パリ外国宣教会の足跡―】 より

パリ外国宣教会の若き神父たちが奄美・沖縄にかけた巨大な努力の記録

日本の鎖国が解かれてからも、キリスト教はなお宣教が許されなかった。沖縄での孤立と島人に溶け込んでいった奄美での日々。多くの仲間を病気や水難で失いながら、地震の被害の中でも住民に手をさしのべつづけた神父たち。

在日50年を越え、長崎の崎津教会の墓地に眠るハルブ神父が大正期に書きとめた、初期奄美・沖縄のカトリック宣教の情景が、いま生き生きとよみがえる。

◎オリビエ・シェガレ神父(渋川教会・前パリ外国宣教会日本管区長)

 奄美大島での宣教のことを知る貴重な資料として、日本の多くの方々におすすめします。非常にていねいな翻訳で、ハルブ神父の文章の個性やニュアンスが見事に反映されています。ハルブ神父はこの本の出版をきっと大いに喜んでいます。

◎百瀬文晃神父(元上智大学神学部教授・イエズス会司祭)

 訳者の岡村和美さんは、本文の翻訳だけでなく、当時の状況や地理の確認も、情熱をもって取り組みました。明治時代のカトリック教会史はもちろん、およそ福音宣教とは何なのかを、改めて考えさせる書物です。

◎押川壽夫神父(カトリック那覇教区・名誉司教)

 奄美の宣教師たちが肌で感じた島の姿が生き生きと描かれた歴史ドキュメント。琉球弧・奄美文化のルーツを辿り、今は滅びた懐かしい島の年中行事やたましいの姿を識る貴重な記録として、心のふるさとの原風景を知るには最良の書といえよう。

◎郡山健次郎神父(カトリック鹿児島教区・名誉司教)

 ハルブ神父様についての著作は読んだことがあるが、本人の残されたものはこれが初めてで翻訳が完成したことをとても嬉しく思います。我が古里の瀬留教会建設にも尽力された神父様なので当時、神父様がどんな思いで宣教されたのか教会建設に関してどんな苦労をされたのか具体的に知ることができるので、直接手にとって読むことができるのを楽しみにしています。多くの皆さんに読んでもらいたいと思います。

初期カトリック宣教の情景が、いま生き生きとよみがえる。


https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12566310224.html 【 イエズス会と フランシスコ会の 教会の違い 】 より

● 「 二十六聖人殉教 」 の頃の、大坂や 京都の教会は、どのようなものだったのでしょうか。イエズス会の教会と フランシスコ会の教会では、決定的に違っていました。

● [ イエズス会の教会 ] ですが、1587年の “ 伴天連追放令 ” 後、建てられていた教会堂は 破壊され、宣教師たちは 国外追放を命じられましたので、滞在や活動は、非合法的に 潜伏の形で 進められていきました。

秀吉を 刺激せぬよう ・ 怒らせぬように、教会堂を建てることはせず、一般家屋の中の 奥まった部屋に 小聖堂を設け、人々との応対には、入口に近い部屋を使うようにして、外部の者に 悟られないようにしていました。

大坂では、アンドレ小笠原の家が 教会として用いられ、表向きは、秀吉に対する通辞 ( 通訳 ) として 日本滞在が認められていた、ジョアン ・ ロドリゲスに 貸している形にしていました。ジョアン ・ ロドリゲスに 貸している形にしていました。

都では、ロドリゲスが 正式に 住まいとしていた家を、大坂の場合と同じように、こっそりと、教会として使用していました。

実際には、都や 大坂の家に、4人の神父と 6人のイルマンが住んでいたわけですが、あくまでも 潜伏している形でしたが、“ 伴天連追放令 ” が出された後の 10年間 ( 1587 ~ 97年 ) で日本全体で、6万5千人が受洗した と報告されています。

● 一方、 [ フランシスコ会の教会 ] ですが、1593年に、マニラ総督の使節として来日した ペトロ ・ バプチスタ神父でしたが、豊臣秀吉と 日比の友好と 貿易の契約を結んだ時、

“ キリスト教宣教の許可 ” も与えられ、京都滞在も許された と誤解してしまい、そのように行動していきましたので、京都 ・ 四条堀川、妙満寺跡に、1594年、りっぱな フランシスコ会の聖堂 ・ 修道院が建てられ、教会の近くには、 「 聖アンナ病院 ・ 聖ヨゼフ病院 」 も建てられました。

大坂にも、都ほどでは ありませんでしたが、 「 ベトレヘム修道院 」 が建てられ、活動していきました。フランシスコ会の教会や 修道院は、「 秀吉が生きている間、恐れることは ありません。彼は、私たちの父になると 言っています。」 と、バプチスタ神父が言っているように、全面的に、 “ 秀吉の許可が与えられている ” という 確信と信頼がありましたから、教会活動も、潜伏の形ではなく、積極的に 進めていったわけです。

● しかし、それらは、都合のいい理解による、誤解でしか ありませんでした。

  秀吉による “ 罪状書き ”

「 これらの者は ルソンから来て、余が禁じた キリシタンの教えを宣べて、長期間 日本に滞在し、教会を建て、無礼な振る舞いをしたので、処刑する。」


https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12566549136.html【 その時 右近は ? 】より

● マルティンス司教が、ポルトガル国 ・ インド副王の使節として、1596年11月、伏見城で 豊臣秀吉に謁見した時に、ひそかに、オルガンチーノ神父 ・ ロドリゲス神父 ・ ペレス神父 ・モレホン神父 が、大坂の家 ( 教会 ) に集まっていました。

司教を見送った後、彼らの所に、大坂奉行 ・ 小出播磨守に仕える、一人の キリシタンの小姓がやって来て、“ 王 ( 関白 ) が、すべての神父を処刑させるので、 播磨殿 ( 奉行 ) が、家来に、神父達の家を捜索して、しっかり 見張りを置くように 命令した。”━━ という情報を 伝えてきました。

オルガンチーノ神父だけは、病気療養のために、都に滞在することが許されていましたが、他の3人は、 “ 不法滞在 ” ですので、捜査を受けて 見つかったら大変なことになります。

すぐに、オルガンチーノと ロドリゲス神父は、小西アウグスチノ行長の家に、ペレスと モレホン神父は、宇喜多パウロ左京亮の家に 身を隠します。

オルガンチーノ神父は、ふだんは 京都にいましたので、下京にあった ミヤコの家 ( 教会 ) にいる 2人のイルマンに、信頼出来る人を介して、小姓の話を 伝えてもらいました。

都の イルマン達は、それを聞いて、 “ 殉教 ” の時が来たことを覚えて 非常に喜び、これから起こってくる出来事のために、準備し ・ 励まし合い、伏見の 髙山屋敷にいる 髙山ジュスト右近や、他の数人の キリシタン達に、その事を知らせたのでした。

右近は、すぐに、伏見から 馬を走らせて、下京の家 ( 教会 ) にやって来て、 “ 2人のイルマンと一緒に、死を迎える覚悟である ” ことを 意思表示しました。

この噂が、他の キリシタン達にも広がっていき、多数の者が、急きょ教会に駆けつけて来て、聖なる話をもって 励まし合ったのでした。

● まもなく、オルガンチーノと ロドリゲス神父は、都に戻りましたが、教会には行かずに、小西行長の兄の 小西如清が都に持っている家に隠れて、様子を見ることにしました。

そして、如清の家から、一人のイルマンを 下京の家 ( 教会 ) にいる右近のもとに遣わして、“ 都に帰って来ていること ・ 関白が 神父の死刑を命じたこと ” を、正式に 伝えたのでした。右近は、そのことを聞いて、非常に喜び、「 今こそ、神の御慈悲が 私の上に表れ、オルガンチーノ神父と共に殉教者になる。」と、期待で 心躍っているような様子で 語ったのでした。

● そして、直ちに 馬に乗って、伏見の 髙山屋敷に戻り、主君の 前田利家に 報告し ・ 別れを告げるための 準備をしました。

高価な、2器の 「 茶壺 」 ( 両方合わせて、4 ・ 5千万円の価値 ? )を持って、前田屋敷に出かけて行きました。

 奥座敷で、前田利家と会い、「 私も キリシタンであり、師である オルガンチーノ神父の上にくだされる宣告に、共に あやかるつもり故、お別れに参りました。」と言って、準備した 2器の茶壺を 差し出したのでした。

前田利家は、『 今、新たに、貴殿の覚悟と 決心を知り 感嘆するが、私は、関白殿が 大坂で、神父に激怒した時、その場にいたが、殿の怒りは、ルソンから来た者 ( フランシスコ会の神父たち ) に対してのみ、向けられたことである。貴殿は、イエズス会の友人である故に、別に 心配する必要は ない。 殿は、彼らに対して、何も するつもりは ない。』

「 私は、数回、フランシスコ会の教会に、その教えを聞きに出かけて行き、彼らの教えが、私が受けたそれと、同じものか 否かを 確かめましたが、まったく 同じだと わかりました。

私が、殿 ( 利家 ) の家臣である故に、多分、私を安心させようとしてそのように言われているのでは ありませんか。」

『 疑う必要は ない。関白殿は、はっきりと、イエズス会の神父は 処罰しないと 言っている。』

● 利家は、右近を見送った時、多数の家臣たちの前で、次のように言ったのでした。

『 ここにおいでになる 髙山右近は、優れた人物で、勇敢にして智力、賢慮において 高名であり、もし 王の寵愛を受けていたら、現在、日本の 第一 または 第二の大名になっていたであろうが、キリシタンをやめるのを拒んでいるので、このような状態に置かれている。

 私は、彼のため、王に取り次いで 話をし、右近が 王の承認を得てキリシタンになっているのであり、そういうわけで、以前のように イエズス会の神父達の味方であるだけである、と説明している。』


https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12566814365.html【 その時 左近は ? 】より

● [ 京都所司代 ] であった 前田玄以は、僧籍にありましたが、豊臣政権を支える 実務担当の行政官として、 “ 五奉行 ” の一人として、朝廷や 公家 ・ 寺社との交渉役を 担当していました。他の4人は、 石田三成 ( 主に行政 ) ・ 浅野長政 ( 司法 ) 長束正家 ( 財務 ) ・ 増田長盛 ( ました ・ 土木 )

● 前田玄以は、仏僧でしたし、豊臣政権が進める [ 伴天連追放令 ] の実行者であったわけですが、そうした 父の姿を 反面教師としてでしょうが、2人の息子たちが、ひそかに、キリシタンになり、洗礼を受けました。

 長男 ・ 秀以 ( ひでもち )。パウロ左近。1595年、19歳で受洗。

 三男 ・ 茂勝。コンスタンチノ主膳。 同じ 1595年、13歳で受洗。

● “ 関白 ・ 秀吉が、神父の死刑を命じた ” ━━ という噂が、パウロ左近が城主だった 丹波 ・ 亀山城にも 伝わってきました。左近は、この噂を聞いて 戸惑いますが、確かな事実を得るために、家臣を 大坂と ミヤコに送ります。そして、自分自身は、“ 噂通りであったら、直ちに 神父達と一緒に 死にに行く ” ために、「 殉教者になる方法 」 を考えて、計画を立てていったのでした。

・ もし 私が、直接に大坂に行けば、両親に心配をかけるだろうが、家臣と共に、まず、伏見にいる 舅 ( しゅうと ) の 蜂須賀阿波守を訪ねて行くことにして、そこから、大坂に立ち寄る形にすれば、真相が わかるだろう。

・ もし 噂通りであったら、私と家臣のために 家を借りて、そこで 結果を待つことが出来る。

・ もし、前田家の紋が入っている着物を着ていけば、私が 誰であるかが分かってしまい、いくら “ 神父の弟子である ” と言っても、誰も、私に手を掛けて 捕らえようとは しないだろうから、頭を剃り、教会で勤めている 同宿が着ているような服を着ていれば私の望みを果たすことが出来るであろう。

● そして、左近は、自分の部屋に退いて、主なるデウスに 祈ったのでした。

「 主よ、心から 願い奉る。私を、あなたの 聖なる殉教者の数に加え給え。試練の時に、弱気を起こして、あなたへの信仰を 捨てることのないように、力を与え給え。」

それから、両親と 乳母に宛てて、3通の 別れの手紙を書き、死に行く理由を 説明することにしました。「 私は、既に、キリスト信者となり、神父が殺される故、彼らと一緒に死にたいと 思っています。私が、愚かに 生涯を終えたと お思いにならぬように、この手紙を書きました。私のために、 ( 仏式の ) 葬儀を なさる代わりに、キリシタンになられることを お願いします。そうすれば、何故、私が今 死ぬ覚悟をしたかかが、お分かりになるでしょう。」

● 結果的には、“ 関白殿の怒りが、ただ、フランシスコ会の神父達に対してのみ である ” ことが はっきりしてきて、準備した 3通の手紙は、文箱に入れられたままになって、届けられることは ありませんでした。

パウロ左近は、数日後、ペトロ ・ ゴメス 副管区長 宛に、次のような手紙を 書き送っています。

「 神父 及び イルマンと一緒に死に、彼らと共に、我が主からの冠を受ける準備をしていましたが、我が主は 別な事を お定めになりました。このような よい機会を失ったことを 悲しみましたが、神父 及び イルマンが、この日本の教会の保護のため、無事で自由であることを喜びました。我が主が、私達を、その恵みの中で 守り給うことを。 アーメン。」