舞台『君の顔なんかイモみたい』観劇
舞台『君の顔なんかイモみたい』
12/19(土)お昼の回を観劇。
なんだかんだで下北沢にはちょくちょく来ている。
感情への触れ方がとても丁寧で、何かメッセージを押し付けることなく、自然といろいろなことをこちらが考えるきっかけをくれるような。
さまざまな人の繋がりも、そのつながりを表す表現も、説明しすぎずそれでいて伝わる。
加えてキャストさんたちの高い熱量もあり、75分間集中して食い入るように観てしまった。
最近、
アマプラで一度挫折した鬼滅の刃をしっかり26話観まして。
年末年始に小学生の甥っ子に会える可能性があったので、
話についていきたいというただただまっすぐに邪な気持ちで。
(帰省やめたよ、百合子。)
26話見終わってしっかり「鬼滅の刃 無限列車編」を観たくなりましてね。
舞台終わりに見に行こうと計画していましたがやめました。
舞台の余韻が必要だった。
はたしてこの話が今必要だったのか。
とにかく観終わってあれこれ振り返りたいというのはとてもいいなと。
それが言いたかった。
観劇後、あれこれ相関図を書き進めていると
突然これでもかと巻かれた状態のパスタが到着。
せっかくなのでまだ全然途中の相関図と記念撮影(なぜ)。
そして底抜けに字が汚い。
手書きのブログだったら誰も読んでくれないところだった。
ちなみに巻いた状態でパスタを出すのは、
見た目がカッコいいというイキッた理由の他に、パスタが冷めにくいという説があるとかないとか。
この日はクッソ寒いし、下北沢といえばカレー、スープカレーだ!と適当に歩き進めていたのですが気づいたらパスタを巻いていたという、以上、怖い話でした。
(怖い話だったんだ)
さて、そろそろネタバレしますけど。
無駄な話はこの辺で。
来年1月に配信もあるみたいなので、これから見たい方はこのあたりで。
クラムチャウダーでも食べていただいてね。
あれだけ具が多いと、飲むよりは食べると言っちゃいますよね。
まぁ具が多いかどうかはそのクラムチャウダー次第なんですが。
舞台の感想も観た人次第ということで。
入口でこちらを渡される。
「ふむふむ。そういうことね。」
そんなわかったような顔をしながら開演までの20分を過ごしたが、たいして何もわかっていない。
全然関係ないけどトイレがすごい場所にあった。
駅で済ませておいてよかった。
事前にこの紙が渡されるということは、
こういう時代の移り変わりで話が進むんだ。
登場人物まで書いてあるのだから色々とそういうこと。
合わせて初日を見ていたお友達から「その紙持ってた方がいいかも(ちょっと見たくなった瞬間あった)」というアドバイスをもらい。
"全集中カサカサ言わせないぞの呼吸 壱の型"
(にわか過ぎてヤケクソ)
絶対に「カサッ」という音をさせない使命と共に、
(結局伝わる自信なくて言い直すならやめとけばいいのに)
紙を保持した状態でスタート。
確かに明確に名前を言うまでに話がずんずん進んでいく場面も多々あるので、これが事前に渡されていたのも意味がわかる。
なくても理解はできただろうし、気付くべきタイミングで気付くのだろうが、事前にこうした各時代を交差するエピソードがある心構えができて理解しやすかったし、よい一枚だった。
最後にマユが登場するがそこは紙に書いてないのも英断(書くわけもないが)。
※文字にするとマユとマコがわかりにくい問題。
75分の舞台を観た感想を書くのに気が付いたら何十時間も考えていて。
半分くらいは削ったんですが結構な長さになってしまっていました。
読むタイミングなどは良きタイミングを見計らっていただけると幸い。
(どこまで理解できているかもわからないし)
↓↓↓
2020年。
高校生(だった)山崎アオイ、杉カリン。
新型コロナウイルスで自粛が続く今。
学校は休校となり、まさに今自分たちのいる日本。
仲いいね。きみたち。
2042年。
富根マユ。そして友人の杉カケル。
杉カリンと苗字が同じだ。
22年後と考えると親子だろうか。母親の方の苗字なのかな。
そんなことを少し思う。
でもカリンは高校のときに苗字が杉だったかどうかは表現されていなかったかもしれない。
(1週間経つと徐々に記憶が薄れてしまっている)
まぁ、どうでもいい話。
ツバサとマユは、親子。
ツバサは離婚して、息子のマユは苗字が富根になったらしい。
この日は久々の再会のようだった。
受付でのトミネ、コミネ問題の言い間違いから、
離婚理由に至る言い間違いのつながり。
離婚した理由を自分のせいだったのではないかと思おうとするマユの心情に対して。
「そんなわけない」とわかりつつも自分のせいにしたい彼の気持ちはどこか少しわかる気がした。
人との別れ、人の死に対して、「理由がない。わからない。」というのはとてもつらく、自分のせいでも良いから理由はないよりあった方が精神的に楽なことは多々ある。
その理由が辛くとも、「なぜ」を理解しないと次に進めない。
でもなんでもなぜを教えてもらえるほど簡単な世界ではなかったりもする。
など、ごちゃごちゃと関係ないことを考えながら。
2022年。
涼一とハコのシーン。
この2人のシーンはなんかよかった。
2022年という時代背景や2人の年齢設定的にも、
とても身近に感じる、リアルだったというのもあると思う。
これまでスポーツ万能、成績優秀、容姿端麗の木村マコと比べられ続けたハコが、
自分を軽く見ている涼一に対して、胸を張って「こっちからお断りです」と対応した姿は、"よくやった"とも違うが少しばかりの気持ちよさ。
一見、久々にパッと会った男に「ないわー」と思うだけのシーンに見えてしまうが、
あんな涼一のことをハコはずっとどこかで想っていたのだから、
ハコにとっては見た目ほど「どうでもいい」と切り替えるのが簡単な心情でもなかったはず。
一歩踏み出せたハコに拍手。
木村ハコという存在は、
物語のキーとなる富根マユの、その母親である木村マコに繋げるためにあったようにも見えるけど、この2人の存在がただマコの人となりを理解するためだけのシーンでは決して終わっていなかったのがよくって。
キャストさんお二人もとても役にハマっていて(拍手)。
ハコとマコが同級生で、ツバサはアオイ(たち)と同級生だと考えると、
ここでハコがお酒を飲める年齢ということはツバサはマコよりも年下か。
いや、アオイが2020年大学1年生18歳。その2年後だとすると同学年または同級生かも。
涼一は既に仕事で成功を収めているけど先輩だしな。
など。考えてみるも。
これもまた別にどうでもいい話をした。
2026年。
冒頭の2042年で触れられたマユの母親の再婚相手「トミネ」の登場。
ここは木村マコとトミネの出会いフェーズ。
マコの兄で社長のナルキからのパワハラに苦しむトミネ。
同じく兄に苦しめられ続けたマコは、
トミネの気持ちをすぐに理解したが、だからといって単純に私も同じです気持ちわかるよという態度ではなく、
自分はそんな兄の妹だという立場も理解していたし、相手の気持ちをわかろうと振る舞える人なのだと感じた。
「(謝られたからといって)それで自分はどうすれば。」
トミネという人物像がこれほどの強い言葉をボソッとでも関係のないマコに対して口にする時点で、どのような精神状態なのかを推し量る一つになった。
被害者が加害者にならなければいけない瞬間というのはいつも悲しいけれど、
"それ"を本当の意味で理解してくれるマコという存在はトミネにとって特別だっただろう。
「相手を変えることは難しい。自分を変えないと。」なんてことが、だいたいの自己啓発本に書いてあるが、
自分のことだけなら相手を変えずとも耐えたり逃げたりすればいいけど
同じことで誰かが苦しんでいて、それを肌で感じたとき、
黙って今まで通りでいられるんだろうか。
その変えるべく相手も、どうでもいい人ではない場合。
(元の言葉の本質は「自分が変わることで好転する」ことを伝える意味合いであって、「相手を変える必要はない」と言っているわけではないので、自己啓発本からすると迷惑な言いがかり)
あの場面のマコの行動を理解できるかできないかは微妙なとこだが、
そもそもギリギリの状態の人間の行動に、正しい正しくないと意見を言うのはおかしい。
兄の立場で考えると「自分はあの人(妹)がそんな行動をとるまで追いつめてしまったんだな。」が最もしっくりくる。
あのReal Face状態のマコとトミネの行動は、兄にもギリギリの感情を与え、
あの瞬間はとにかく全員が変わる必然性が発生していた。
自分のことでは動けなくても誰かのためなら動けることはあって。
これまでの積み重ねではあったものの、
自分一人だったらあのまま耐えて壊れていたかもしれない。
兄も、変わるきっかけを掴めず、これからも何人もの人を傷つけ、
命を奪い続けたかもしれない。
マコもトミネもあのとき「今変わらなきゃ」と動き、
自分たちが変わる、兄が変わるきっかけになったターニングポイントとなる日。
そして。
こうしたマコが変わるきっかけを、ツバサはこれまで作ることができなかった。
夫婦だからと言って、好きな人間だからと言って、
そのすべてに関わる必要はないし、トミネだからできた役割だと理解していても。
この出来事を知らないツバサだが、
そんなツバサの感情にも少しだけ触れておきたいと思った。
2020年。
アオイとカリンの2人だけでやった卒業式。
タイムカプセル。
自分は全ての学生時代にこんな友達はいなかったが、学生時代は親友と呼べるようなこういう人がいるのが"普通"なんだろうか。
卒業旅行なんて話が出たことすら、いや、そもそも生まれてから今まで、自分が誘うことはあっても誰かに遊びに誘われたことなんて数えるほどもないのでは。
ただそんな自分の事も客観的に見て納得感があるし、まったく不満に思わないのだが、
この抜群のビジュアルと関係性を解き放ってくる自分とは真逆の2人を見ていると、急激に悲観的になり、
本当に自分が今もなお息をしていることを申し訳なく思いながら見てしまう。
と、製作側からしたら知らんがなな感情に襲われながら、
そんな話はいいとしてここで言いたいのは、それくらいに羨ましいほど両想いの2人だったということ。
「塔、今日閉鎖」
「#東京閉鎖」
の流れはここだったっけ。
ここに関してはいろんな思考が交錯しているので、
人それぞれ切り口によって考えたい内容は特にいろいろあると思う。
意図せず、そんなつもりなんてないのに、
大きく傾いてしまうことはあるよねと。
ここはあえて深く考えず。
一番浅い「言葉の湾曲」に目を向けて。
「塔、今日閉鎖」が「東京閉鎖」になる話自体に
毎日、意味を捻じ曲げられた言葉がトレンドに並び。
発信したものの意味は簡単に失われ、
責任だけは初めの発信者が背負いながら、
様々な意志によって意図的に捻じ曲げられ一方的に言葉は加速。
日々、一般人のブログが炎上させられ、
言いたいことと離れた理解する気のない感想ばかりで埋め尽くされる。
そんな今に関しては、そりゃぁ息はしづらい。
そんな話をサッカーで例えて何時間もかけて書いたが、
自分の中ですっきりせず。
でも、まぁ、なんでしょう。
そんな一語一句ドンピシャで立っているだけで足元にすっぽり収まるパスなんてどんなプロでもそうそう来ないし、
そんな文章なんてないよなぁ。
ズレていようとどんなパスでもしっかり意図を受け取って、
相手の思想を次に繋げるのは受け取った自分の役割というか。
相手が言おうとしている根本のところはなんだっけってとこだけ大事にすればいいんじゃない。
とか、感じることは多いけど。
ということで。
今、俺、自分の言いたいこと言ってるだけになってきてるね。
舞台と関係ない。
舞台の名前を借りて自分の意見を。
よくない。
次に進もう。
2034年。
ここは東京閉鎖で揺れる東京の街か。
かつての失敗から変わろうと翻弄するマコの兄ナルキ。
大きくなり医者となったアオイの姿。
2034年、杉カリンは自ら命を絶っていた。
なぜだろう。
アオイにとってカリンを失うことがどれほどの事か。
そう思うとこんな時にタイムカプセルを探しに来たこの状況はすんなりと受け入れられる。
ナルキは大変そうだった。
ナルキも変わろうとしているが
環境は変えるべきだと思う。
どんなに変わってもマコとトミネと会うのはどちらかが死ぬ間際か死んだ後。
それでも遅くないと思う。
あれから8年経ってもまだこの段階というのがまた嘘のない世界だった。
関係ないけどナルキが自らを戒めるために、
「くそーっ!」と自分を叩くシーンが二度三度あったが、そのピンと伸びた肘と膝あたりをエイッてやっていたのが、トータルテンボスの内もも叩きを彷彿とさせていたため少しだけ笑いそうにはなったが、絶対にそんなこと思っていい場面ではないのでそんな自分を戒めた。
2046年。
カケルはカリンの娘だった。
カリンは「とても幸せだった。」と死んでいったらしいが、
それはちょっとわからんでもない。
ちょうど数日か数週間前に「これまで良い人生過ぎたし今だってとても良い人生だと思う、けど特にもう何もやることがないなぁ」みたいな話をここでしていたのもあり。
その感情が今のところ自死に繋がらない自分との差はありながらも、タイムリーな感情だなぁとは思って観ていた。
そういう感じで死んじゃうのは、人の気持ちなどわからない前提の上でのアレは感じた。
マユとツバサの別れとは種類が違うとはいえ、
カケルもまた母との別れに理由を求めていた。
別れに理由は欲しい。
ここでもまたそう思ったが、カケルはなんというか理由が欲しいとかそういうことでもなかったんだけど上手く言えないからここは語るのを潔くあきらめる。
それにしてもこの2046年は突き刺さる言葉で溢れていたな。
母と同じく?、この世界に絶望したのか、
大好きなこの街がなくなることに、
疲れてしまったのか、一人を感じたのか、
あらゆる条件が重なり、
カケルにも自死を選択するタイミングが来たときに
マユのかけた『君の大丈夫になるから』という言葉は特にすごかった。
とても優しくて力強くて包んでくれるこれ以上あるのかって表現。
"君の大丈夫になりたい。"
好きな温度の言葉だった。
この舞台をずっと繋ぎ続けたテーマ曲
『ウーロンハイと春に』。
この曲の歌詞があらためて刺さる。
「その時まで僕はきっとうまくやるさ」
うまくやるさ。
なんていい温度のことばですか。
2042年。
マコもまた。
あの時、包丁を手にしたトミネにとっての大丈夫であり、
トミネもまたマコにとっての大丈夫だったんだと思うと。
今の関係性もストンと落ちた。
この舞台の言葉の変換に関していうと
「塔、今日閉鎖」×「#東京閉鎖」という負の暗転から
最後は
「君の顔なんかイモみたい。」×「君の顔、何回も見たい!」という好転を表現していて
言い間違い、聞き間違い。
思い込みや自分の思想から相手の言いたいことを間違えて受け取ってしまう。
そんな少しのズレで上手くいかない事ばかりの世の中で
相手の伝えたいことはもっと素敵なことかもしれないんだって。
2つの受け取り方の違いの変化も
綺麗だったと思う。
木村マコ、ハコ。
トミネ、コミネ。
など、わかりやすく間違える話もあれば
冒頭で書いた
※文字にするとマユとマコがわかりにくい問題。
というのも既にこの舞台の世界の一部に落ちていた気がした。
そしてカーテンコールからあのエンディングは、本当にねー。
全員が本当に楽しそうに歌い騒いでいる姿は、
これまでの75分間のおかげで、とても感動してしまった。
アクリル板で客席は見えなかったと思うけど、マスク越しに自然と笑っていた。
伝えたいことを口にするだけならTwitterで140文字で表現すればいいし、
それで人の心を動かせるのなら簡単なんだけどそんな簡単にいくわけがなくて。
140文字ではけしてできないことを演劇でやっている。
観に行った価値があったなぁと思う。
人との繋がりも、お話の繋がりも、歌も、いい温度で放った言葉たちも。
どれもとても綺麗に繋がっていてスッと落とし込める舞台だった。
キャストさん視点でいうと、
本当にみんなよかったなぁと思っている中で、
カケルのラストに訴えかけてくるというか、畳みかけるシーンは、
平井さんの芯のある気持ちの強さと熱量が、あの強いセリフを心情的にも物理的にもうるさくなく成立させていてよかった。
平井さんの歌は簡単に上手いという言葉で表現するのが納得いかないくらい羨ましくなるほどに特別な声を持っていて素敵でした。
トミネを演じた三宅くんは、以前ナイゲンで、個性的なキャラクターばかりの中にいる"THE 普通"を演じていたけど、この日もまたどこにでもいる普通なキャラクターを演っていて。
自分が観た2回中2回がこういう役だったのもあるけど、ほんとにさすがだなぁと思った。
確実に好きな役者さんの1人になりつつある。
嶋さんは、自分が鬼のように通っていたChubbiness時代から知っていたけど。
(鬼がめちゃくちゃChubbinessに行ってたかはわかりませんけどね)
アイドル時代の舞台ではコメディ要素の強い役柄も多く感じた中で、最近は今回のようなTHE人間の感じをわりと見るようになって。
どんな役もできる系女子だなぁと思った。
(系女子とか使うだけで怒られる世の中さんきゅーです)
元々人間的にもとても面白い人なのでわりとこれからも楽しみにしていたりする。
終わってからアホほどosageを聴いてる。
この曲を聴けばこの舞台を思い出せる。
というのももちろんあるけど
もうシンプルに
良い曲っていうね。
僕等は大丈夫かなぁ
大切な人たちの大丈夫になりたいから、
もう少しがんばる。
osage
「ウーロンハイと春に」MV