『ワンダーウーマン 1984』ネタバレあり 感想
こんにちは。
WW84を観た勢いで綴った感想を前にアップしましたが、今回はこの映画が1人のワンダーウーマンのファンにとってどれだけ素晴らしく、大切なものを描いたかということを書いていきます。なっがいです。前作のことにも触れます。
この映画から溢れ出る愛が、1人でもいいから他の誰かに伝わることを願って。
はじめに
「ワンダーウーマンってどんなヒーローなの?」って聞かれたら、
アマゾンの王女!ビッグ3!とにかく強い!首を折る!猛々しい!カッコいい!美人!リーダーシップ!神の子!
などなど、出自や能力などを語る人は多いと思う。
でも、この『ワンダーウーマン 1984』(以下WW84)という映画はその問いに対して
「真実、そして愛と思いやりの力で世界の平和を追い求めるヒーローです」
と彼女の本質をスパッと、映画全体を通して前作より強く言い切って見せました。
この2020年に、です。
今は世界平和のためなんて高尚で大仰な目標を持ったヒーローよりも、もっとパーソナルな動機から行動して、たまたま自分や愛する人々の身に降りかかってきた災厄を打ち払った結果ヒーローと呼ばれる存在になっていた、という文脈の方が現実的です。
それが「大人の鑑賞に堪えうるヒーローもの」と考えられがちな時代だと思う。
もちろん例外はありますが、実際映像化するならそういった主人公の方が親しみも共感も抱きやすいですし、話の焦点も主人公の交友関係内に絞ってフォーカスさせてしまうことが可能なので、派手なアクションに負けない濃密な人間ドラマも練りやすい。
結果として幅広い観客層が満足できる、バランスの良いヒーロー映画が作りやすいのは間違っていないと思います。
特に、MCU作品はまさにこういった作品づくりをしてますよね。
最初は個人の話で始まるけども、個々の作品を通して少しずつ人間関係の輪を広げていくことがそのままユニバース全体の拡大につながり、最終的に映画のスケールがどんどん大きくなる。
色々意見はあるかもしれませんが、個人的にはものすごく堅実でスマートなやり口だと思いますし、何より自分もそんなMCUが大好きです。
しかし、ワンダーウーマンは彼らのようなヒーローとはちょっと違う。
MCUだけでなく、バットマンやスーパーマンなど、他のどのDC映画の主人公とも違います。
彼女は最初から、世界に平和をもたらす使命をもった存在として描かれているのです。
前作『ワンダーウーマン』の話
映画『ワンダーウーマン』の冒頭で、ヒッポリタがダイアナに「戦いはあなたを英雄にはしない」と前置きして、アマゾンの昔話を伝える場面があります。
その中で「アレスに毒されて争うようになった人間を救うべく神々がアマゾンを造り、人間の心を愛で包むことで地上に平和が戻った」という彼女たちの起源が語られます。
つまり、アマゾンという種族そのものが最初から平和をもたらすために誕生したわけです。
しかし人間は、アマゾンをいつしか奴隷のように扱うようになったため、アマゾンはヒッポリタを筆頭に反乱を起こし、ゼウスが作ったパラダイス島へとやってきます。
この時、アレスを倒すための武器として“ゴッドキラー”がアマゾンに与えられます。
それがゼウスとヒッポリタの娘、ダイアナです。
彼女は自分の正体を知りませんが、スティーブが島に来たことをきっかけに外の世界で戦争が起きていると知ると、アレスを倒すため迷わず故郷から去ることを決めます。一度出たら島には戻れないにも関わらず。
ダイアナはこの時から、身近な誰かを守るために戦いへ身を投じたわけではなく、世界をアレスから救うという目的のためだけにこの決断をしました。
しかし、この時点での彼女は救うべき世界のことを何一つ知りません。
真のヒーローというよりは、ゴッドキラーとしての本能に突き動かされているとも言えます。
そうしてダイアナは外の世界を知り、戦を知り、人を知りますが、ルーデンドルフにトドメを刺した後のスティーブとの会話、そして本物のアレスとの会話によって、人類は自分の思っていたほど無垢で美しいものではないことを否応なしに突き付けられます。
アレスは閃きや武器を与えはしたが、争いそのものは人間の責任で起きているのだということ。そしてアレスから、地球にとって害悪でしかない人類を滅ぼすことで、世界をあるべき姿、美しい永遠の楽園に戻そうという誘いをダイアナは受けます。
ダイアナは一度誘いを断りますが、スティーブが自らを犠牲にして爆撃を防いだことをきっかけに自暴自棄になり、そのままDr.ポイズンを殺すようアレスに迫られます。
しかし、最終的にダイアナはスティーブが別れの直前に示してくれた愛を選び、Dr.ポイズンを殺さずアレスを倒しました。
このときダイアナはゴッドキラーとしての力を開放しますが、同時に愛を信じ、人類に希望を見出すことを決めました。ここから彼女はヒーローになったのです
『ワンダーウーマン 1984』
そして60年以上も時が経ち、エッタやサミーア達もみなこの世から去った1984年に舞台は移ります。(余談ですが、サミーア、チーフ、チャーリーの3人はThe Oddfellowsというアーガス所属の組織としてコミックスに逆輸入されました。リーダーはスティーブ。嬉しかった)
ダイアナにとって愛する人間は、もうこの世界に一人もいません。
アマゾンはまだ生きていますが、島に帰ることは叶いません。
それでも、人々を救いながら暮らしているよということが序盤では描かれています。
この、大切な人がいるわけじゃないけど人助けをしているというのは、彼女のヒーローとしての活動が、特定の誰かを守るためのものではないということを明確に表しています。
ここも最初に書いた、最近のヒーロー映画で描かれるヒーロー達と少し違う部分だなあと思います。彼らの多くは世界よりも先に個人として守りたいものがあるけれど、ダイアナはそうじゃない。ダイアナが守るのは、すべての人です。
だから、爽快な人助けのシーンのあとに昔の仲間たちの写真が次々映し出されたり、1人レストランで食事するシーンが挿入されるわけです。
何よりも、スティーブが復活する前にヒーローとして活動してることを示すことに意味があるんですね。
制作陣のインタビューで「WW84を前作の続編だとは思っていない」って発言が度々出ていますが、それは多くの人が考えてるのとは若干ニュアンスが違っていて、どちらかといえば「シリーズものの型に縛られて制作しているわけではない」って意味だと思うんですよ。
思いっきり前作の台詞も出ますし、ダイアナが前作で得たものはダイレクトにこの作品に反映されている。
なので、公式サイトなどで予習は不要と言われてますが、個人的には前作も鑑賞の上でWW84は観るべき映画かなと思います。
で、序盤の人助けシーンが終わった後ダイアナはかなりの時間コスチュームを身に着けません。これはですね、前回の感想で“前半パートは懐かしい”的なことを書いたんですが、リンダ・カーターのTV版に非常によく似ています。というか、意識してるんだと思います。
TV版のワンダーウーマンって基本的に1話完結型のストーリーなんですが、ダイアナはずーっとワンダーウーマンとして活動しているわけではなく、普段はダイアナ・プリンスとして活動していて、ここぞという場面で変身して苦境を乗り越えるスタイルなんですね。
特にシーズン2(『紅い旋風ワンダーウーマン』)以降ダイアナはワシントンD.C.で国防機関の仕事に就いて、一人前のエージェントとして働き始めます。
そのため普段着で調査したりアクションする場面も非常に多くなるのですが、WW84の前半パート、特にマックスの部屋を調べるくだりは本当にあのTV版の雰囲気を思い出して、もうその段階で懐かしかったし、自分はそういうダイアナもずっーと求めていたものだったので、それだけで胸にこみあげてくるものがありました。
(インタビューだと偶然と言ってはいますが服装も似てる)
では、ここからはキャラクターごとに分けて好き勝手書いていきますね。長いです。
頑張ってね!
バーバラ
今作の冴えない彼女、見た目はわりと最近のコミックスで描かれた見た目に似せていますが、ここまで自分に自信がないのは映画オリジナルかなと。
彼女は80年代に物語がリブートされたあとの(それまでの設定が消えて、ストーリーが最初からになること)ワンダーウーマン誌で、ダイアナの持つ投げ縄を手に入れるために敵として立ちはだかったのが最初の登場でした。
簡単に言えば、考古学者として神話の遺物を持つダイアナに嫉妬したわけですが、現在のコミックでもアマゾンへの憧れが転じて妬み、そして憎しみに代わり、セミッシラへ乗り込んで暴れたり神々を殺してまわったり色々やらかしています。
コミックスにおける彼女が気になる方は、『ワンダーウーマン:イヤーワン』、『ワンダーウーマン:ザ・ライズ』という作品が日本語で読めて予備知識もそこまで必要ないので強くおすすめしておきます。
名家のご令嬢という設定もあるのですが、今作では持たざる者としての描写を強調するためか、その設定は出てきませんでした。
また、バーバラのチーターはコミックスではウルズカルタガという植物神と切り離しては語れない存在なのですが、今回ウルズカルタガも登場しませんでしたね。
『スーサイド・スクワッド』のエンチャントレスと描写が似てしまうからかなとか色々理由を考えたんですが、別にウルズカルタガを出さなくてもしっかりチーターを描いてくれていたので個人的には良かったと思いました。
WW84のバーバラは願いの代償としてこの映画で最も大切なもの、“真実の心”を失ってしまいます。それは彼女がダイアナと出会う前から持っていた、温かい人としての心です。
そして2回目は、彼女本来の姿すらも失います。
コミックスで彼女がウルズカルタガという神によってチーターというアイデンティティを与えられたのは、ダイアナがオリンポスの神々に選ばれた存在であることのミラーリングでもあると自分は捉えています。(各々の内情はまた違うんですけどね)
それが本作では失うものを通して、彼女がワンダーウーマンの対になる存在としてしっかり据えられていたと思います。最初は一緒に笑いあっていた2人ですが、ダイアナが弱くなるのと反比例してどんどん強くなるバーバラ、ホワイトハウスで最後に向き合った時の、ぐしゃぐしゃの顔のダイアナと勝ち誇るバーバラ。
そしてなにより、最終的に真実と向き合うダイアナと、願いを取り消した描写が描かれないバーバラ。ここがしっかり対比として捉えることができるようになっているのは、監督意識してやっているなと思いました。泣いちゃう。
バーバラが願いを取り消したのかどうかは定かでありませんが(人間の姿には戻っているけど1度目の願いはどうなったのか分からない)、取り消していないなら、いつかまたスクリーンでぜひ観たいですね。
自分はクリステン・ウィグのバーバラすごく気に入りました。
ホワイトハウスのバトルで、人の姿のままチーターの動きをするのもすごく好きです。
また、ダイアナ、スティーブ、バーバラ、マックスの全員がどこかしらでチーター柄のものと一緒に映る場面があるのも注目して欲しいポイント。
石油で潤ったマックスの部屋にはチーターの敷物が置いてあるのですが、コミックスで一番初めにチーターとして登場したプリシラ・リッチというキャラクターはチーターの敷物を身にまとうことでチーターとして活動していました。彼女もワンダーウーマンへの嫉妬が引き金となりチーターとなったキャラクターです。監督はこれも意識して置いているはず。
というか個人的には、獣人化する前の段階でチーター柄の衣装をまとったバーバラが戦うのも、間違いなく昔のチーター達(プリシラと姪のデビー。デビーは環境活動家で、プリシラの死後コブラというヴィランの洗脳によってチーターになりました。ボートに乗ってやってくる)へのリスペクトだと思っています。
パティ監督の愛は本当に素晴らしい。
スティーブ
コミックスでは70年代にスティーブが死んだとき、アフロディーテの力により復活したことがありました。
が、しかしそれが実はスティーブ本人ではなかったという事実が後々明かされたということがありまして、パンフレットでもやはりその部分が紹介されてたので今回の復活はそれのオマージュなのかなとか考えています。
(とはいうものの、デジタルだと真相が明かされる部分は配信されていないので、自分は彼が復活したところと、その後自身でもスティーブ本人だと信じ込んでダイアナとそれはそれはイチャイチャしてるところしか読んだことがありません……)
今回は本人ではないというより他人の身体を借りての復活でしたが、それでも3日くらいしかダイアナと一緒にいれなかったんですよね。
でも、マックスに自分自身の身体を願うかと言われて願わなかったのが彼らしいと思います。そもそも他人の身体に長居するつもりもなくて、いつかは元に戻らないといけないのを最初から覚悟してたんだろうなと。
ちなみにここのマックス、多分ピノキオの物真似してますよね?
「君の願いは、本物の少年になることかなあ?」的な。違ったら恥ずかしいけど映画館で笑ってしまいました。
本作のスティーブは前作と違って完全OFFモードなのと、80年代に来たというワクワク感で常にキラキラしているのは新鮮でよかったですね。
そして本作でもダイアナとの悲しい別れが待っているわけですが、今回の別れ、個人的には前作以上にキツかったです。
最期にダイアナを諭すスティーブのまなざし、苦しみに歪むダイアナの顔、そして息が止まりそうなキス。そのまま振り返らずに去るダイアナに、声をかけるスティーブ……
映画館で泣くのってあまりしないように努めてるのですが、ここは本当に堪えられませんでした。(そして以降何度も泣いてます)
前作のノーマンズランドは音楽とスローモーションが奇跡のマッチングをした名シーンだと自分は考えているのですが、この場面は完全に2人の演技で生み出された名シーンだと思う。
ダイアナが全力で走ってるシーンがね、ほんとにもう胸いっぱいになりました。
予告だとあんなシーンだとは思わなかった。
今回もスティーブはヒーローでした。
序盤のアンティオペの教えを、もう一度ダイアナに伝えるこの世界のヒーローです。
ダイアナにとってのヒーローは2人とも、もうこの世界にいないというのが余計に切ないね。
そして風に乗る力。
ダイアナが空を飛ぶシーン、そりゃもちろんワンダーウーマンって80年代から基本的にはずっと飛んでるキャラなんだから映画でも飛んで欲しいな、って気持ちはありましたよ。
でもWW84だとそれ以上に、飛んでるときはスティーブと共にあるんだな、というのにグッときました。他作品との整合性に縛られてたらできなかったことだけど、今回は思い切ってこれをやってくれてよかったと、心から、心の底から思いました。
ロボットプレーン、というかインビジブルジェットも出してくれたしね。投げ縄の力で似たような能力を使ったことはむかーしあったけど、まさかダイアナ自身の透明化パワーで登場させるなんてびっくりしました。
個人的にアーマーもジェットももっとパラダイス島と絡ませて登場させてほしいと思ってたんだけど、出してくれたらそれだけで「ま、いっか」ってなってしまった。
ちなみにアメリカではテレビ番組の司会がジェットの登場をネタバレしちゃったみたいです。それ知る前に観れて良かったなあ。
なんにせよ、注目すべきはジェット機が最高にロマンチックな演出に使われて、ダイアナの飛行にもつながる大事な場所になったことですね。効果的な使い方だったと思います。
TVドラマ版は70年代で、コミックでもまだダイアナが飛ばなかった頃なのでめちゃくちゃこのジェットが登場しました。ドラマ版だと座ってるダイアナは透明じゃないんだけど、今回だと完全に透明だったね。
何より、スティーブが操縦するというのが地味に嬉しかったです。
それだけで目頭がじんわりしてました。
あと本作、スティーブは前作と同じようにダイアナとずっと一緒にいるのが良かった。
前作でダイアナがアレスを倒したのって休戦とはあんまり関係がなくて、スティーブの行動があったから無事に休戦が叶ったわけなんですけど、今回はダイアナが彼女自身の力で世界を救う番なんだよね。
それをもう一度、スティーブが前みたいに背中を後押しする。
そしてダイアナは今作でヒーローから、ワンダーウーマンになったんです。
ワンダーウーマン
突然ですが、自分は常々、ワンダーウーマンの戦いとは敵を打ち負かすことではなく、敵を説得することだと思っています。
もちろん、一概にいつだってそうとは言えませんが、それでもダイアナの戦いの根幹には愛と平和があって、それはヴィランを排除することで成すべき目的ではなく、彼らに対しても等しく向けられているメッセージだと捉えているんです。
今作にマクスウェル・ロードの登場が確定したとき、正直なところ少し憂鬱でした。
マックスが嫌いだからではありません。コミックスでダイアナとマックスといえば、マックスはダイアナに首を折られて殺されたことでも有名だからです。
『ワンダーウーマン:ベストバウト』という邦訳コミックにそのエピソードが収録されているので、気になる方はどうぞ読んでみてください。
先ほど述べましたが、自分にとってワンダーウーマンは愛と平和の使者です。
もしかしたらワンダーウーマンは殺しもするイメージが一部ではあるかもしれませんが、ダイアナにとっても殺しはかなりイレギュラーなことなんです。
前作でルーデンドルフを殺したり敵兵をなぎ倒したりするのも実はあまり好きではありません。ただ、あの時はまだ島を出たばかりで、ヒーローというより戦士でした。
そういった納得の仕方を自分はしています。
けれど、ダイアナはもう戦士からヒーローになりました。
本作で人を殺せば、その納得の仕方は通用しなくなる。
これがすごく怖かった。
しかし、WW84でマックスの首を折れば、人間に背を向けて生きてきたらしいBvSにおける設定との整合性は取りやすくなります。
マックスはダイアナと因縁はあるものの、ワンダーウーマンのヴィランとは言い難い存在です。似たようなパワー(コミックスだと洗脳するパワーがあります)を持ったワンダーウーマンの代表的なヴィランなら他にもいますし、社長系ヴィランだってWWの敵にはいます。
それなのにあえて彼を出すということは、他作品との整合性を取るために、あのイレギュラーなダイアナの姿を世界の人々に植え付けるつもりなのだろうかと最初はすごく心配になりました。
それくらい、ファンの間ではダイアナとマックスといえば首を折るシーン、というのが定着してしまっていましたし、コミックでもそのシーンを度々回想として繰り返しているんです。
でも、パティ監督は前作でワンダーウーマンが愛のために戦うヒーローだということをしっかり描いた人です。
だから何のためにマックスを登場させるのか真意は掴めないけど、きっと首を折らない方向でなんとか上手くやってくれるだろうと自分を落ち着かせていたんですね。
それが蓋を開けてみたら、WW84は全くもってそういう映画ではなかった。。
それどころか、今回の彼女のバトルすべてが、前作とは方向性が全く違うのです。
前作はまさに戦士として、剣と盾を持って特攻型のバトルを繰り広げていました。
それが、序盤のショッピングモールでは泥棒が地面に頭をぶつける直前で足を掴んだり、カーチェイスでも「ブレーキは壊していない」と敵に伝えるのをわざわざアップで撮るわけです。ホワイトハウスでもスティーブが剣を持つと、それは元に戻すように諭します。
今作のアクションは、爽快感よりもダイアナがいかに相手を傷つけないように戦っているかという、配慮を見せることに重点が置かれているのです。
顕著なのはゴールドアーマーです。伝説の戦士アステリアの話で、このアーマーはパワーを底上げするというよりも、“守るため”の最大の防具として登場しました。
そして実際にチーターとの戦いでも、ダイアナがこのアーマーですることのほとんどは防御なのです。
こういった戦い方のすべてが、自分には理想のワンダーウーマンでした。
ワンダーウーマンといえば能力や強さの話はよく出てくるし、今までの映画でもそのパワーを見せつけるようなことはあったけれど、ワンダーウーマンの心を反映したようなバトルはまだスクリーンにあまり登場していなかったからです。
それをWW84で全編通してやってくれたのは、本当にびっくりしたし、嬉しかった。
そして。
ダイアナとマックス一対一のバトル。
ダイアナが殺しの選択に迫られるのかと一番緊張していたこの場面で、殺しどころか、初めてダイアナは拳を全く使わず、全世界を“説得”します。
拳をふるう代わりに、ダイアナは全ての人に真実と愛の大切さを伝えるのです。
しかもマックスを通して。
そこに、ワンダーウーマンがいました。
ダイアナというヒーローが、明確にワンダーウーマンになった瞬間でした。
ずっと心配していた場面が、理想のワンダーウーマンが表現される最高の1シーンになったわけです。
普通のヒーロー映画なら、ここは一番気合のアクションが繰り広げられていたはずの場面。
もちろん、多くの観客はこの映画にもそういったシメを期待するのかもしれません。
でもね。何を感じたにせよ、お願いだからこれだけは知ってほしい。
ワンダーウーマンは、愛の力で世界を平和にするためにいるのだということ。
ワンダーウーマンの真実がこの場面にあるのだということは、知ってほしい。
そして、彼女の台詞に耳を傾けてほしい。
“綺麗ごと”に向き合うパワーを受け取ってほしい。
叶った願いを取り消すことがどれだけ困難なことか、自分に置き換えて考えてみればよくわかる。もし本当に1つだけ願いが叶ったら。
自分だったら、たとえ取り消せないとしても「願いを取り下げる」なんて冗談でも口に出せないかもしれない。
それでも、この映画の人々はその困難に打ち勝っていました。
世界のために。
現実はそんなに甘くないよ、っていうのは分かる。
でも、大事なのはこの“綺麗ごと”をしっかり真正面から受け止めることだと思うんです。
現実は甘くないなんてそんなのみんな分かってて、それでも言ってしまうのは大抵の場合、現実を諦めてるからなんですよね。
それでもダイアナは世界を、現実を諦めません。
現実の厳しさに負けたりはしないのです。
だから、アレスの誘いに乗らなかった。
だから、愛する者がいないこの世界で、孤独に人々を救って生きてきた。
そんな彼女だからこそ、こんなどうしようもない世界の只中にいるのに、美しい世界を目指そうよと、心の底からみんなに語りかけることができるんです。
真実は美しい。真実と愛で、世界は良くなる。
これは、世界中の1人1人が自分自身と向き合うことでもあります。
覚えている方はいるでしょうか、
“What One Does With The Truth Is More Difficult Than You Think.”
(真実に直面した時、どう行動するかは想像以上に難しい)
という台詞。
1作目冒頭のナレーションで、ダイアナが語るセリフです。
そして前作の締めくくりには、「選択によって人は決まる」という台詞があります。
前作で、ダイアナは外の世界には常に光だけがあるのでないことを知り、その上で愛が世界を平和にすると信じ、ヒーローとしての人生を選んだわけです。
そして今作はダイアナだけではなく、すべての人間がこの困難に向き合い、選択を迫られます。だからこそ、この場面で次々と願いを取り消す人の顔が映し出されるのは、非常に大きな意味があるのです。
意味とは、“すべての人がワンダーウーマンなんだ”ということ。
性別も年齢も関係ない。ここで映し出された人々は願いを叶えたけれど、みんな真実と向き合い、そして難しい決断を下すほうを選んだ。
自分の願いよりも、目の前にある世界を愛することを選びました。
そして真実の自分を受け入れることを選んだんです。
この場面で人類は、前作のラストでダイアナが選んだヒーローの心を持ったのです。
今作ではみんなが、ワンダーウーマンなのです。
そして、だからチーターだけは願いを取り消すシーンは明確に描かれない。
彼女はワンダーウーマンではなく、チーターだから。
WW84という映画は、ダイアナを通してのみならず、映画全体でワンダーウーマンを体現しようとしている
それに気付いて、心の底からボロボロ泣いてしまいました。
この先、これ以上のワンダーウーマン映画が出るんだろうか?
今作は前作よりも明るい画面で、もっとエンタメに寄った作品を出してくるんだろうな、それも楽しみだな、とすら思っていたのです。
だから、前作以上にワンダーウーマンの本質をぶつけてくる映画が出てきたことに、本当に感動しています。
そして、自分はこのシーンで本心から語るガル・ガドットを見て、はじめて彼女を自分の中のワンダーウーマンと重ねることができたんです。
今までも大好きなワンダーウーマンを演じてくれることへの感謝の気持ちはありました。もちろん前作も大好きな映画ですし、ガルのダイアナに反発があったわけでもありません。
ただ、実写映画にありがちな、自分の持つWWとはイメージが少し違っていただけ。
しかし、このすべての人に真実と愛を呼びかける場面は、本当に本当に本当に素晴らしかった。
ここで、ガルとダイアナの2人は、本物のワンダーウーマンになりました。
本当にありがとうございます。
マックス
そしてマックスです。
この映画、彼抜きには語れません。チーターがダイアナの対になる存在ならば、マックスはこの映画におけるもう1人の主人公だとさえ自分は思っています。
彼は最後石の力で手に入れた全てを捨てて、彼にとって本当に大切なもの、彼にとっての真実、つまりアリスタへの愛を選びます。
ヘリコプターで急いで息子の元へ駆けつけたマックスがアリスタと交わすやり取りの中で、マックスは、真実の姿のままで素晴らしいのだという証明がされます。
この場面、用意されている台詞自体はありきたりな内容なのにあんなにも胸を打つのは、ダイアナの「真実は美しい」というメッセージが演技と演出で全力で表現されているからでしょう。ペドロ・パスカルの演技力、素晴らしいを通り越して恐ろしかった。
今回マックスを起用したのは、先ほどのダイアナが全世界へ語りかける場面で、コミックファンに衝撃を与えるためだったのかなと思います。少なくとも自分には本当に最高のサプライズでしたね。
ちなみに、コミックスではエンペラー・マックスというヴィランが登場したことがあります。
一度は世界の頂点に立っていた成功者でしたがそれに飽き、今度は世界中に愛されるために自分の複製をたくさん作って各国のテレビに出演したり、慈善贈答をしたり……と良い人なのか悪い人なのか分かりづらい行動をするキャラクター。そんな彼は、ワンダーウーマンからカリスマ性を奪うためにダイアナを捕まえます。
その話でマックスの秘密基地にダイアナを誘い込むのが掴める人工雷で、ダイアナがそれをつかんでスイングする場面があったりするんです。そしてダイアナを助けに来るのは前述した、復活した偽のスティーブ……。
と、想起させる部分が色々とあるので、もしかしたらこの話も少し参考にしてるのかなと思いましたが、そんなことないかもしれない。
ちなみにこのマックスはマキシマスの略です。こんなに濃いキャラなのに、これ以降出番はほぼ無し。こういうキャラ結構いるんですよねワンダーウーマン。
アステリア
はい。私がワンダーウーマンを心から好きになったきっかけ。
リンダ・カーター。
もうね、もうね、もうね、彼女のためにゴールドアーマーがあったんだよねって思ってるし、それで私は全然いいです。
スーパーガールの大統領でも嬉しかったけど、これはもう感動の桁が違う。一生忘れないレベルのサプライズでした。
奇跡だと思ったのは、WW84のプレミア試写会16日だったんですけど、同日朝5時から本作のオンライン・ワールドプレミアがあったんですね。
そこで、リンダカーターがゴールドアーマーを意識した衣装で登場して、ああ最新の映画にあわせてくれてるんだなあってそれだけで感極まってたんですよ私。で、ガルガドットがワンダーウーマンへの扉を開いてくれてありがとう、みたいなこと言ってて、もうすごい感動してました。
そしたらさ、まさかゴールドアーマーの持ち主だったなんて。
で、最後に風船が空に飛んでくじゃないですかこの映画。
あれはワンダーウーマンのティアラとか、ピアスを表す赤い星なんですけど、あの星を見ると真っ先に思い出すのがリンダカーターなんです。
ティアラだけじゃなく、ブレスレットにも赤い星がついてたし、何よりね、もう刷り込みレベルで私は赤い星をみると彼女を思い出す人間なんだ。
(もちろんコミックスの歴代ワンダーウーマンへのリスペクトでもあると思います)
そしたら、まさかの、最後の人助けする場面で。
アステリア。意味は星の女。
ぜーーーーーーーーーーーーーーーんぶ持っていきました。
ほんとにびっくりだったし、もう涙がとまらなかった。
私の永遠のワンダーウーマンが、記念すべき映画のワンダーウーマンの世界に登場した。
しかも、ダイアナよりずっとまえから地球にいたアマゾンとして。
そして流れる“Themyscira”
もう完璧です。これだけでこの映画は死ぬまで愛すると心に決めました。
ほんとに、書いてる今も、この感動をどう伝えたらいいかわからないんだ。
ほんとに、愛してます。ほんとにありがとう。世界はこれで平和になる。
この映画はありがとうだらけだけど、この感謝はオリンポスの天を突き抜けるほど深いです。
あ、ワンダーウーマン77(ワンダナ77)っていうのはTV版をベースにしたコミックのタイトルで、77年はシーズン2の放送開始年です
最後に
実はDCコミックスのファンの間でも、ワンダーウーマンが誰なのかはわかるけど、彼女がどんなキャラクターなのかイマイチ掴みどころがないように感じるって人はそこそこいると思ってます。
それは目立った悲劇や復讐劇などがなく、ヒーローとしての原動力がどこにあるのかわかりづらいからじゃないでしょうか。
(ちなみにコミックだとスティーブは生きています)
でも、この映画を観たら、この映画そのものがワンダーウーマンなんだと知ってほしい。
そしてこの映画に込められたワンダーウーマンの愛を感じて欲しいです。前作とあわせて。
そしてもしあなたが自分の人生をちっぽけなものだと思っていたとしても、信じるものがあれば、世界を救えるんだということを知ってほしい。
あなたはヒーローになれる。
あなたもワンダーウーマンになれる
WW84は、私やあなたがヒーローになるかどうかを問いかける、映画の姿を借りて現実にやってきた本物のワンダーウーマンだと、私はそう思います。
全ての人にありがとう。ありがとうございます。ほんとに。
え、評価が割れてる?そんなのいいよ。
映画館でこれを観てくれたってだけで愛だから。それだけで鑑賞したみんな素晴らしい。
興収が見込めないと続編が出せるかは分からないから、あまりに悪い評価ばかり広まるといやだなという不安はもちろんあります。不安どころかそうなったら世界で一番悲しい。
でも、WW84は映画全体を通して“ワンダーウーマン”を示すものになりました。
しかもコロナ禍という困難の年に、クリスマスの贈り物として。
少なくともワンダーウーマンの映画を世に送り出す意義は、これ以上にない形で果たされたと私は思います。この作品を観て少しでも希望を感じる人がいれば、それだけでヒーロー映画として計り知れない価値があるから。映画そのものが誰かにとってのヒーローになる。
この映画の欠点をあげるのは正直いくらでもできます。状況説明がうまくないし、手放したはずの投げ縄が次の瞬間には美しくまとまって腰元に戻っていたりするし、アクションを魅せる工夫も充分ではないし、取り消す!って叫べば何でも元に戻るなんて都合よすぎるし、あのアーマー宣伝のわりに強くないし、何より長い。ファン的にも、すべてのオマージュが完璧というわけではない。