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神炊館神社

2020.12.21 04:12

http://urawa0328.babymilk.jp/hosomiti2/suwajinja.html 【神炊館神社】より

総鎮守神炊館神社由緒

 主祭神は建美依米命(たけみよりめのみこと)。同命は成務天皇の御代に初代石背国国造として当地に赴任しました。着任するや、社壇を築き収穫された新穀を炊いで天神地祇に捧げて政治の成功を祈願しました。 社名はこの故事に由来しています。その場所(現西川茶畑町)は、「社壇様」と呼ばれましたが、後に社殿が築かれ「神炊館神社」と名づけられました。 後世当地を支配した二階堂氏は、城郭内に諏訪社を建立し建美名方命(たけみなかたのみこと)を勧請しましたが、落城後の慶長3年(1598年)に両神社を併せて新たに社殿を造営し、諏訪大明神と称しました。会津城主上杉景勝公の庇護を受けていましたが、北門の石鳥居は景勝公寄進のものであります。正徳2年(1712年)、正一位の神階の位を授けられ、「岩瀬総社諏訪大明神」を称し、末社は郡内80社に及びました。松尾芭蕉が『奥の細道』行脚の途次、当神社を参拝したのは、元禄2年4月28日でした。

 (『曽良随行日記』)

 明治11年、現在の社名に復称し、須賀川町の総鎮守となり、現在に至っています。

神炊館神社社務所   参道に石灯籠が続く。 

道山草太郎の句碑があった。秋風や一盞の酒にひびきあり 昭和51年(1976年)4月、桔槹吟社建立。道山草太郎は道山壮山の孫。

「奥の細道碑」があった。

古人各自筆ヲ用翁之手跡ハ岩瀬郡須賀川諏訪之社ニ 有写之各像ハ辰之浦翁ハ古図ヲ写旧化書 うらみせて涼しき瀧の心哉   桃青

「奥の細道碑」について

 『宗祇戻』(柿衛文庫蔵)は、宝暦4年(1754年)、白河の俳人和知風光が編集した俳句の本。挿図に松尾芭蕉の肖像と諏訪明神(神炊館神社)に奉納されていた芭蕉真筆の句として 「うらみせて涼しき瀧の心哉」に説明を加えて掲載しています。

(この句は岩波版芭蕉俳句集)(492)、加藤楸邨『芭蕉全句』(525)に収録されています。『曽良随行日記』(天理大学図書館蔵)は、元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に随行した弟子の河合曽良が書きとめていた日記。須賀川には4月22日から29日まで滞在しました。碑に刻まれているのは、28日諏訪明神に参詣した時の一節です。

 廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来而延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行而及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。

 三基の石灯篭は、芭蕉が参詣した元禄年間に当神社に奉納されたものです。

総鎮守神炊館神社

 元禄2年4月26日、芭蕉は須賀川から江戸の杉山杉風に書簡を送付したが、その折、次の句を記す曽良の書簡が添付されているそうだ。

日光うら見の瀧  ほとゝぎすへだつか瀧の裏表  翁うら見せて涼しき瀧の心哉 曽良

神炊館神社本殿

元禄9年(1696年)7月、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で須賀川に2泊、諏訪明神へ参詣して句を詠んでいる。

須ヶ川に二宿、等躬と両吟一卷満ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正(いちのかみ)秀陳饗応。

○文月に神慮諫ん硯ばこ [無都遅登理 五] 諏訪神社近くに石井雨考が住んでいた。


https://ameblo.jp/kappa1959/entry-12264468663.html 【120.神炊館神社探検記(福島県須賀川市諏訪町)】より

神炊館神社はおたきやじんじゃと読みます。

神社でいただいたパンフレットでは、俗称諏訪神社とも書いてあります。江戸時代までは諏訪神社でした。

鳥居と社号標と米粒のオブジェ

扁額は山岡鉄舟の揮毫   駐車場の看板 神紋は抱き稲穂 

由緒には、初代須賀川城主、二階堂為氏が文安元年(1444年に城内の守護神として建美名方命を勧請し諏訪社として建立したとされる、新しい神社を取り上げたのは、相殿が建美依米命、その父建許呂命だからです。誉田別も祀られていますが、後に合祀されたもので特段取り上げることではありません。

建許呂命をWIKIより引用。

建許呂命(たけころのみこと)は古代日本の人物。建己呂命、建凝命とも書き(『新撰姓氏録』)、また天津多祁許呂命や多祁許呂命(『常陸国風土記』)、建許侶命(『先代旧事本紀』)とも書く。

常陸国風土記において建許呂命が出てくるところを、河野辰男著口訳常陸国風土記(筑波書林刊)より

引用します。(著者は隊長と同じ姓ですが血縁ではありません、笑)

「茨城の郡]

茨城の国造の初代の多計許呂命は、息長帯比売天皇=神功皇后の朝廷に仕え、品田(ほんだ)天皇=応神天皇がお生まれになるときまでいたという。多計許呂命には子供が八人もいた。その中の男である筑波の使主(おみ)は、茨城郡の湯坐(ゆえ)の連らが初祖である。

また古代史俯瞰 tokyo blog さんのHPより引用。

天津彦根命の十四世孫。成務天皇の時、石城國造となった。

また、建許呂命の六人の子も各国の国造となった。

意富鷲意彌命(師長國造)、大布日意彌命(須惠國造)、深河意彌命(馬来田國造)、 屋主刀禰(道奥菊多國造)、宇佐比刀禰(道口岐閉國造)、建彌依米命(石背國造)。

また『先代旧事本紀』では「茨城國造の祖」とあり、筑紫刀禰(茨城國造)の父、あるいは祖と思われる。

参道 良い雰囲気が出ています。

本殿 扁額と鈴 祭神の分だけ鈴があります。(諏訪はひとつにしてあるようですが)

本殿 千木は男千木 鰹木には神紋の抱き稲穂がずらりと。

境内社 松尾神社(大山咋)   境内社の青麻神社 天満神社 祭神は菅原道真と なんと数学者、哲学者と言ってもよい岡潔。

 三八稲荷奥宮  三八稲荷社にあった石

われわれの解釈では、建許呂命は一方のヤマトタケルになります。(ヤマトタケルは東西二人いる)詳しく述べますと、建許呂命=ヤマトタケル=安曇磯良=表筒男=タジマモリ=高霊天皇のひとり、となります。」常陸国では、日立市十王町黒坂の堅割(たつわれ)山、黒前神社の祭神黒坂命も建許呂命だと考えるようになりました。

理由を述べます。

①許呂(ころ)→くろ(黒)と転訛してもよいこと。。

②黒坂の坂は酒に通じること。(建許呂命=ヤマトタケルの祖母はコノハナサクヤヒメ=酒解神=前玉姫:埼玉の語源)

坂は酒に通じ、前、埼、裂け、割けであり堅割(たつわれ)に通じる。もちろん金山彦(事解男、根裂、面足)からの継承です。また「坂」はシャカ族=須賀族、スサノヲ系につながる。当然ブッダにつながります。

ブッダガヤ、祇園精舎、アユタ国、バラナ(波羅奈市)、フェルガナ(破洛那)、アルタイ(金山)、アムール川(真室川)⇒黒龍江⇒菊理(キクリ:白山姫)⇒高句麗(コクリョ)に関連してきます。

③黒坂命は多氏の一族、鹿島系(建御雷=海幸彦=天児屋根)だとされている。コトバンクによれば茨蕀(うばら)(いばら)をもって土着先住民の国巣(栖)(くず)をほろぼしたという。茨とは唐橘(からたち)、トキジクノカクノコノミ、タジマモリにつながる。

④父と推定している彦太忍信(彦坐王=日多珂)は正統アジスキタカヒコネであり、奥州一の宮都都古別(つつこわけ)神社の祭神であり、住吉神の大元である。都都古別神社は筒子別で表筒男(安曇磯良)の子である岩背国造建彌依米命が建立したと考えられる。

状況証拠はそろっていますね(笑)

では二階堂氏が勧請した建美名方との関係はどうなっているのでしょうか。

この神社ではタケミナカタを建美名方と表示し、タケミヨリメを建美依米と表示しています。二柱の関係性を示唆しているかのようです。

われわれの百嶋脳内系図(新解釈系図)では、タケミナカタは、タケミヨリメ(ヤマトトトヒモモソヒメ)の母方の祖父という捉え方をしています。

以前探検した長野県駒ケ根市の大御食(おおみけ)神社 と上田市の生島足島神社 との類似性を指摘しておきましょう。御饌や米粥が関係しています。

大御食神社の祭神は日本武尊(やまとたけと呼んでいた)、ミヤズヒメ、誉田別(のちに合祀)。

生島足島神社の祭神は生島神(タケミカヅチまたはナガスネヒコ)、足島神(オキツヨソタラシ姫)。

九州からの移動を想えば、東国に入る前の経路を示唆しているようではあります。