主日の福音の黙想:教皇フランシスコとともに(待降節第四主日)
12月21日、待降節第四主日、
ミサの典礼の中で宣言された福音は、
ナザレのマリアへの、神の「お告げ」の箇所でした(ルカ1・26-38)
教皇フランシスコは、正午の「お告げの祈り」のとき、
ナザレのマリアの「はい(fiat)」が決して簡単ではなかったこと、
まさに「いのちの危険を冒して」、
いのちを賭けて差し出した答えだった、と言います。
[試訳]
マリアはどうしたでしょうか。
このように答えます:
「お言葉どおり、この身になりますように」
«Avvenga per me secondo la tua parola»(ルカ1・38)。
「そうなりますように:Avvenga(fiat)」
しかしそれは、福音が書かれた言語の中で、
単なる「なるように:si faccia」ではありません。
この言葉の表現は、強い望み、
何かが実現されるようにという意志を示しています。
別の言葉で言えば、マリアは、
「もしそうならなければならないなら、そうなりますように…、
それ以外方法がないなら(しかたがないなら)…」
と言ったのではありません。
それは、あきらめではありません。
服従的な弱々しい受容ではなく、
強い望み、生き生きとした望みを表しています。
マリアは、消極的(受身)ではなく、積極的です。
神に我慢して従うのではなく、
神に同調します(aderisce a Dio)。
マリアは、彼女の主に、すぐに、すべてにおいて仕えようとする
「恋人」(愛に生きている者)です。
もう少し考える時間をください、と願うことも出来たでしょう。
または、何が起こるのかについて、もっと説明を求めることも、
いくつかの条件を設けることも…出来たでしょう。
それに反して、
マリアは時間をかけません、神を待たせません、先延ばししません。
ここで教皇フランシスコは、
マリアの「ただちに、すべてを賭けて」神に答える態度に照らして、
わたしたち自身の態度を見つめます。
[試訳]
それでは、わたしたちのことを考えてみましょう。
なんとしばしば、わたしたちの生活は――霊的生活も!――
先延ばしすることで成り立っているでしょうか。
例えば、
わたしは、祈るのがいいことだと分かっているけれど…
今日は時間がない…
「明日にしよう、明日、明日、明日…」
わたしたちは、ものごとを先延ばしにします:明日しよう、と。
誰かを助けることは大切だと分かっている、
そう、助けるべきだ…明日しよう…。
それは「明日…」の連続です。
ものごとを先延ばしにすることです。
今日、主の降誕の扉(入口)で、
マリアはわたしたちに招いています。
先延ばしにしないように、
「はい」と言うように、と。
「わたしは、祈るべきだろうか?」
「はい、わたしは祈ります」
「わたしは、人々を助けるべきだろうか?」「はい」
「どうやってしようか?」
先延ばしせずに、「それをしよう」
あらゆる「はい」は苦労を伴います。
でも、マリアの「はい」は、つねに、もっと苦労を伴いました。
あの勇気ある「はい」、即座の(準備の出来ていた)「はい」、
わたしたちに救いをもたらした、
あの「[あなたの]お言葉どおり、この身になりますように」。
それでは、今日、
わたしたちはどのような「はい」を差し出すことができるか、と
教皇は問いかけます。
[試訳]
わたしたちは、どんな「はい」を言うことが出来るでしょうか。
この困難な時に、
コロナ・パンデミックのせいで、
したいことが出来ないことを嘆く代わりに、
より不足している人のために何かをしましょう。
わたしたちのため、友達のための、
数えきれないほどのプレゼントではなく、
誰も考えてくれない、助けを必要としている人へのプレゼント。
そして、もう一つ。
イエスさまが、わたしたちの中に生まれるために、
わたしたちの心を準備しましょう。
祈りに行きましょう。
「プレゼントを買わなければいけない、
あれをしなければ、これをしなければ……」という消費主義に
「乗せられる」のは止めましょう。
たくさんのことをする、あの熱狂…
大切なのは、イエスさまです。
兄弟姉妹たち、
消費主義は、
ベツレヘムの飼い葉おけの中にはありません。
飼い葉おけの中には、現実(リアリティー)、貧しさ、愛があります。
マリアがしたように、わたしたちの心を準備しましょう。
悪から解放された(自由な)心、受け入れる心、
神を迎え入れる準備が出来ている心。
最後に、教皇フランシスコは、
主の降誕が、わたしたちの生活、生き方に触れるのでなければ、
それは空しく、無駄に過ぎ去ってしまう、と言います。
[試訳]
「[あなたの]お言葉どおり、この身になりますように」。
これが、待降節最後の主日の中の、
おとめマリアの最後の言葉です。
そしてそれは、主の降誕に向かって、
具体的な歩みをするように、という招きです。
なぜなら、もしイエスさまの誕生が、
わたしたちの生活――わたしの、あなたの、みんなの生活――に
触れるのでなければ、
それは空しく過ぎ去ってしまうからです。
これからわたしたちが祈る「お告げの祈り」の中で、
わたしたちもまた、
「あなたのお言葉が、わたしの中に成し遂げられますように」と
言います。
わたしたちが、主の降誕をよく準備するために、
その言葉を、生活(生き方)をもって、
この最後の日々の態度をもって言うことが出来るよう、
聖母が助けてくださいますように。
主の降誕までの日々、
マリアの「はい」に、わたしたちの「はい」を重ね、
イエスを、わたしたちの心の真ん中に迎え入れるために、
日々の小さな「捧げもの」を、
喜んで差し出していくことが出来ますように!