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【武士道 part4】 ~第二章その1 武士道の源はどこにあるか『仏教編』 ~

2020.12.23 10:00

※新渡戸稲造著「武士道」を、私なりに編集してお届けしています。


武士道の源泉 ー

それは三の思想・宗教・哲学が合わさったところから湧き出でました。

その三つとは、仏教・神道・儒教です。

武士道は、この三つが合わさった日本特有のハイブリッドな道徳観だったようなのです。

それでは今週も、新渡戸氏の言を借りながら解き明かしていきましょう。


今回は仏教編です。


『仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心をあたえた。具体的にいうなら危難や災禍に際して、常に心を平静に保つことであり、生に執着せず、死と親しむことであった。』

仏教といっても、たくさんの宗派があります。

その中でもとりわけ『禅』が武士たちの素朴でストイックな精神に合っていたようです。

禅宗が日本にもたらされたのは、ちょうど武士初の政権ができた、鎌倉時代の頃です。

のちに、ここから多様な武士文化、日本固有の文化が花開きました。


再び、新渡戸氏の言を借りましょう。

『 禅とはディアーナの日本語訳であり、それは言語による表現範囲を超えた思想領域を、瞑想を持って到達しようとする人間の努力を意味する。

その方法は座禅と瞑想であり、その目的は私の理解する限りでいえば、あらゆる現象の根底にある原理について、究極においては『絶対』そのものを悟り、その『絶対』と自分を調和させることである。

このように定義すれば、その禅の教えは一宗派の教義を超えている。

そしてこの『絶対』を認識し得た者は誰でも、世俗的なことを超越して『新しき天地』を自覚することができるのである。』


私自身も、坐禅を習慣としているので、新渡戸氏の言わんとしていることがよく分かります。

坐禅は『不立文字』と禅の言葉にある通り、言葉ではどうしてもうまく表現できない体感領域にアクセスすることです。

そして、仏教には「諦念」という言葉もあります。その意味は、余計なこだわりを捨てるということです。それは先に引用した『生に執着せず、死と親しむ』という新渡戸氏の言葉にも通じます。


また、仏教には「死随観」という瞑想法なんかもあります。

自分が死に朽ち果てていく姿をありありと体感的に想像する、瞑想方法です。もちろん、生は素晴らしいものです。

しかし、人間の苦しみの根源は、その生への執着からくるのもまた真実です。

そこで、死と親しむことで、人はよりおおらかに生を充実させられるのではないでしょうか。

そして、新渡戸氏が「禅の教えは、一宗派の教義を超えている」と書いたように、その非言語的体感領域においては全ての宗教・思想・哲学の言葉は一つに交わります。

つまり、仏教で『月を指すゆび』に喩えられるように、本質は月にあり、言葉はそれを指し示すゆびにすぎないということです。

多様な言葉で真理を表現したところで、本当は、ただ一つの真理たる月が輝いているだけなのです。

そう捉えると、武士道における仏教は「月」の役割なのかもしれませんね。



さて、あとの二つはなんの役割になるのでしょうか?

それでは、次回もお楽しみに!