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【武士道 part5】 ~第二章その2 武士道の源はどこにあるか『神道編』 ~

2020.12.24 10:00


※新渡戸稲造著「武士道」を、私なりに編集してお届けしています。


武士道の源泉 ー

それは三の思想・宗教・哲学が合わさったところから湧き出でました。

その三つとは、仏教・神道・儒教です。

武士道は、この三つが合わさった日本特有のハイブリッドな道徳観だったようなのです。

それでは今週も、新渡戸稲造氏の言を灯明に、この道を解き明かしていきましょう。



今回は神道編です。


『仏教があたえられなかったものは、日本古来の神道がそれを十分に補った。

他のいかなる宗教からも教わらないような、主君に対する忠義、祖先に対する尊敬、親に対する孝心などの考え方は、神道の教義によって武士道へ伝えられた。

それによってサムライの傲慢な性質に忍耐心や謙譲心が植えつけられたのである。』


これをどう解釈したらいいのでしょうか。

神道には教義はないと、私は思っていました。

しかし上記の三つ。忠義・尊敬・孝心は、つまり、己を育んでくれている、この私を私たらしめてくれている環境全体への感謝を示すことと捉えられます。ですので、黎明期の荒ぶる者でもあったサムライの傲慢な性質を、たしなめる作用があったのではないでしょうか。それは、ここでは語られていませんが、自然に対する畏敬の念もまた然りなのではないでしょうか。

これは私の持論です。

皆さんは、どうお考えでしょうか?


そして、神道といえば神社という信仰と礼拝の場です。

そこにあるのは…


再び、新渡戸氏の言を借りましょう。

『神社に詣でるものは誰もがすぐに、その礼拝の対象物や装飾的道具がきわめてすくないことに気づくだろう。

奥殿に掲げられている一枚の鏡だけが主要なものである。

なぜ鏡なのか。

これについては簡単に説明がつく。

すなわち鏡は人間の心を表している。

心が平静に澄んでいれば、そこに「神」の姿を見ることができる。中略

そして、この参拝という行為は、古代ギリシャのデルフォイの神託、「汝自身を知れ」に通じるものがある。』


これは、新渡戸氏も本著で言及しているように、「内省」です。

それは、前回の仏教、特に禅の座禅や瞑想にも通じるものがあります。

神道では身体的実践方法を通してではなく、古来から続く神社という空間の装置を通して、内省を促していることになります。

ならば、外の世界を通して、己を省みることこそ、神道といえるのではないでしょうか。

そして、神道とは、そもそも土着の自然崇拝です。


再び、新渡戸氏の解説に戻りましょう。

『そして神道の自然崇拝は、われわれに心の底から国土を慕わせ、祖先崇拝はそれを辿っていくことで皇室を国民全体の祖としたのである。

私たちにとって国土とは、(中略)単なる土地以上のものである。

つまりそこは先祖の霊の神聖な住処なのである。それゆえに天皇とは、法治国家の長、あるいは文化国家の単なる保護者ではなく、それ以上の存在となる。いうなれば、天皇は地上における天の代表者であり、その人格の中に天の力と慈悲とを融合しているのである。』


つまり、天皇とは国の支配者というよりも、この土地に生きた私たち祖先の代表者であり、祖先が継承してきた国土の守護者なのではないでしょうか。

他国における王の概念とは、一線を画すことだけは事実です。

天皇は国のトップというより、ボトムなのではないでしょうか。

支配するピラミッドの頂点というより、包み込む器そのもののように感じます。

つまり、天皇あってこそ保たれる伝統とこの土地に根ざした文化なのだと、私は感じます。

その系譜は、この土地における太古から育まれた根っこを継承する大事な幹であり、私たちはその枝葉としてこの地のあらゆる文化の恩恵を得られているのも、まさにその大事な幹という支えがあってこそなのだと思います。


そして、サムライにその神道の教義が浸透したことによって、いかに荒ぶるサムライの長といえども、天皇を排除したり支配したりすることは、あり得なかったのではないでしょうか。


今回は長くなりましたが

最後に、新渡戸氏の言葉で締めくくりたいと思います。

『この宗教 ー というより、宗教が表している民族的感情と言ったほうがより正確だろうが ー 神道は、とりもなおさず武士道の中に主君への忠誠と愛国心を徹底的に吹き込んだのだ。

これらは教義というよりも情念として作用している。』

つまり神道は、武士道における「大地」として、まるで産んでくれた"母の愛"のように作用していたのでしょうね。


それでは次回は、儒教編です。

お楽しみに!