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早苗とる 手もとや昔しのぶ摺り

2020.12.23 02:11

https://4travel.jp/travelogue/10663814 【奥の細道を訪ねて第7回⑧芭蕉句碑”早苗とる 手もとや昔しのぶ摺り”に纏わる信夫文知摺石・文知摺観音堂 in 福島】より

二本松の鬼婆伝説の黒塚観世寺を発った芭蕉達は、再び阿武隈川を西方向に渡り、奥州道中に戻って由井、二本柳、八丁目と北上し、福島で宿を取る。

翌朝最初に芭蕉達が向かったのは、信夫文知摺石伝承の残る文知摺観音堂。

文知摺観音堂は福島の北東、阿武隈川を岡部の辺りで渡しを舟で越え、現中村街道(相馬街道)をやや東に進んだ所にある。

道を外れて芭蕉がわざわざここを訪れたのは、ここに置かれた信夫文知摺石(別名鏡石)に纏わる、大臣源融の村の長の娘”虎女”とのロマンスを詠んだ歌が頭に有ったからと思われる。

  みちのくの しもぶもみずり誰ゆえに

     みだれそめにし われならなくに  源融(小倉百人一首)

この辺りには昔忍摺(しのぶずり)と呼ばれる染め物があった。

製法はこの地方で産出する花崗岩の捻じれ模様に絹布を貼り、上から忍草で叩いて模様を染め出す。

この事が麦の穂や草の葉でこの石を擦ると、想い人の姿が浮かび上がると云う伝説が生まれ、評判となり多くの人がこの石に集まり、お陰でこの石の周囲の麦畑は実りを迎える前に穂が無くなってしまった。

怒った麦畑の主は、この石を崖の下に転げ落としてしまう。

芭蕉が訪れた頃には、村人にこの石の存在を訪ねまわるが、誰も知らない。

漸く一人の子供が、崖のに下に落ち逆様になって泥に埋まり、上部だけやっと姿を見せる石を教えてくれる。

折から周りの田圃では、田植えの時期で、早苗を植え付ける早乙女達の器用な手つきから、芭蕉は忍草を染めている女性の姿を偲び、句を詠んだ。

   早苗とる 手もとや昔しのぶ摺   芭蕉

境内には芭蕉の旅姿の銅像も建つ。 

この像の前で住職曰く。

(銅像の芭蕉の手には竹の杖があるが、実際に芭蕉が使用した杖は栗の木か何かの筈で、竹とは・・?)

隊士館での昼食を終え、直行した文知摺観音堂では、門前に住職自ら我々を迎え、最初から最後まで案内して下さったが、住職は話すのが仕事、上手で当たり前かもしれないが、ここの住職の話は”楽しい!”。

更にここでは本堂以外に傅光閣と云う立派な資料館も運営されている。

それでも3・11の災害後、ツアー客は初めてとかで、住職は我々の訪問を大変喜んでおられた。

資料館にここで詠んだ句の芭蕉の直筆と云われる軸があり、資料館の宝となっている。

住職はこの句のコピーを用意しておられ、参加者中男女の最高年齢の方にプレゼントされた。

案内された文知摺観音堂の傍らの木立ちの中に建つ、見事な色彩を施した”多宝塔”(県指定文化財)に目を奪われた。

ここを正岡子規も訪れており、その際詠んだ子規の句碑もある。

    涼しさの 昔をかたれしのぶ摺り

バスの窓から見えなくなるまで、住職は我々を見送っておられた。


https://muuseo.com/stamp_collection/items/880 【第三集「早苗とる手もとやむかししのぶ摺」① 奥の細道シリーズ切手限定コレクション】 より

芭蕉が「しのぶもぢ摺の石」を見たのは、五月二日(陽暦六月十八日)のこと

『奥の細道』には、あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍のさとに行く。遥か山陰の小里に石半ば土に埋れてあり里の童の来りて教へける、「昔はこの山の上に侍りしを、従来の人の麦草をあらしてこの石を 試み侍るをにくみてこの谷につき落とせば、  石の面下ざまに伏せしたり」といふ。さもあるべきことにや。早苗とる手もとや昔しのぶ摺とある。

「しのぶもぢ摺の石」は、昔、信夫群の名産の布を染めるのに用いたという巨石。河原左大臣源融の歌「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思う(又は、乱れそめにし)我ならなくに」で知られる歌枕。

この句は、旅中に最初、 五月乙女にしかた望まんしの摺と作られ、すぐに

 さなへつかむ手もとやむかししのぶ摺 と改められていたのを、上五をかえて、『奥の細道』に用いられたもの「むかしのぶ摺」の「しのぶ」が掛詞になっている。

[句意]

五月女たちが苗代から早苗をとる手つきを見ていると、昔、あのような手つきでしのぶ摺を摺っていらのかとしのばれることだ。

季語・「早苗」(夏)

「もぢ摺り石」は、文字摺観音(福島市山口)の境内に柵で囲んである。境内に句碑がある。なお、文字摺局の風景印は、河原左大臣の歌碑を描く。