】江戸時代にもクリスマス!? 日本初のサンタは侍の格好だった!
https://edo-g.com/blog/2016/12/christmas.html 【江戸時代にもクリスマス!? 日本初のサンタは侍の格好だった!】より
キリスト教とともに日本に伝来したクリスマス
近年、11月ともなればデパートなど商業施設にはクリスマスツリーが飾られ、コンビニなどにクリスマスケーキのカタログが置かれ、街はクリスマスムードに染まり始めます。
「ちっ、クリスマスなんてポッと出のイベントのくせに…」と苦々しく思う向きもあるでしょう。しかし、キリストの降誕を祝う「クリスマス」が日本に伝来したのはなんと戦国時代のことだとか。
フランシスコ・ザビエルの肖像画
こちらは教科書でもおなじみ、日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルです。ザビエルは1549年(天文18年)に鹿児島に上陸し、およそ2年間にわたり九州、中国、近畿エリアでキリスト教の布教活動に励みました。このザビエル訪日と同時に、「クリスマス」も日本に伝わったんじゃないかといわれています。
完全に余談ですが、先ほどの有名な肖像画から「ハゲ」というイメージが強いザビエルですが、実際にはハゲていなかったようです。カトリック系修道士には頭頂部+後頭部、側頭部を剃る「トンスラ(トンスーラ)」というヘアスタイルがあり、あの肖像画もその髪型を描いているんじゃないかと思われます。
また、ザビエルそもそもあんなヘアスタイルじゃなかった説もあります。その根拠は、
あの肖像画はザビエルの死後だいぶ経ってから描かれたもの
ザビエルのほかの肖像画は髪がフサフサ
ザビエルが所属していたイエズス会に「トンスラ」の習慣がない
どっちにしても、ザビエルはきっとハゲじゃなかった。
話をクリスマスに戻して。
日本初のクリスマス会が行われたのは460年前以上前のこと。日本にキリスト教が伝来した3年後の1552年12月10日(天文21年12月25日)のこと。記念すべき日本初のクリスマス会の舞台となったのは、周防国山口(現在の山口県山口市)で、イエズス会の宣教師が日本人の信者を招いて降誕祭のミサを行ったのだとか。
記録によれば、前夜から信者たちが集まり、夜通しでミサと説教を行ったあと、みんなで食事を囲んだそう。現在のような“お祭り騒ぎ”ではなく、まあ、とても厳かだったでしょう。貧しい人への施しも行われたとか。ちなみに当時、「クリスマス」ではなく「ナタラ」と呼ばれていたんだとか。
また余談ですが、戦国時代、武将・松永弾正久秀がクリスマスを理由に「クリスマス休戦」を命じたという有名なエピソードがあります。真偽のほどは不明ですが、あの松永弾正なら戦国時代版“戦場のメリークリスマス”を実現させていてもおかしくない!という、ファンの熱い気持ちが生んだ巷説かもしれません。今後、新資料が発見される可能性を待ちましょう。
松永弾正の肖像画(「弾正忠松永久秀」『芳年武者牙類』 月岡芳年 画)
茶釜抱えて爆死したことで有名な松永弾正。戦国武将のなかでも異彩を放つ松永をぜひ大河ドラマの主役に!(「弾正忠松永久秀」『芳年武者牙類』 月岡芳年 画)
宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、当時、合戦中だった松永家中の武士と三好家中の武士のなかにいた一部のキリシタンが敵味方の垣根を越えて共にクリスマスを祝ったんだとか。局所では本当に「クリスマス休戦」が行われていたのかもしれません。
天下統一に王手をかけていた織田信長はキリスト教を認めていましたが、信長の死後、天下人となった豊臣秀吉は一転、伴天連(バテレン)追放令を出すなどキリスト教排除を始めます。
豊臣秀吉の肖像画
キリシタンが結集していつか反乱を起こすのでは・・・と危惧した秀吉
しかし、豊臣政権時代にはそれでもキリシタンは増え続け、クリスマスも各地で行われていたようです。
キリスト教が“禁教”となった江戸時代のクリスマス
さて、江戸時代。当初、キリスト教に対し容認姿勢をとっていた幕府ですが、全国でキリシタンが増加し続けるなか、1612年(慶長17年)、最初の「禁教令」を発布し、「キリスト教、ダメ絶対」ということで“禁教”として全面的に弾圧。
踏み絵
これは「踏み絵」です。うん、教科書で見たぞ。
“キリシタン狩り”の手段として、幕府はキリストや聖母マリヤが彫られた「踏み絵」を踏ませたのですが、初期には効果があった踏み絵も“偽装棄教”するキリシタンも増えやがて形がい化。
ある地域では最終的には、単なる正月行事になっちゃったんだとか。
踏み絵以外にもキリシタンのあぶり出しとして、めちゃくちゃ恐ろしい拷問をされることもありました。宣教師なども見せしめに大量処刑されています。キリシタンだとバレたら信仰を捨てるか殉教するかの2つにひとつしか道はなかったのです。熱心なキリシタンは喜んで殉教するので幕府の役人は手を焼いたそう。
このように、キリスト教は江戸時代を通して弾圧され続けるなか、とてもじゃないけど、クリスマスを祝える雰囲気ではありませんでした。
しかし、キリシタンにとっては暗黒時代ともいえる江戸時代にあってもこっそりクリスマスを祝われていたのです。
例えば、仏教徒のふりをしながらもキリスト教を信仰し続けたいわゆる“隠れキリシタン”たち。彼らは幕府にバレないようこっそりとクリスマスを行いキリストの降誕を祝いました。
隠れキリシタンがつくったマリア観音
隠れキリシタンたちが秘かにキリスト教を信仰するためつくったマリア観音。一見すると観音像だがじつはマリア像で、胸にはキリストを抱いています
隠れキリシタンたちは役人に見つからぬように、クリスマス・イヴを「ご産待ち」、クリスマスを「御誕生」「霜月お祝い」などと名を変えて冬至の直前の日曜日にクリスマスを祝いました。記録によれば、御神体を祭壇に祀りお供えをし、オラショ(お祈り)を唱えたあと、みんなで会食をしたんだとか。
また、訪日外国人のキリシタンたちも、日本のある地域でクリスマスを祝っていました。それは、長崎の出島。
江戸時代は、キリスト教禁教政策の一環として「鎖国」体制をとっており外国との交流が制限。そんななか、唯一西欧に向けて開かれていた扉の役目をしていたのが出島で、幕末に開国するまで対オランダ貿易の拠点として機能していました。
当時の訪日オランダ人キリシタンたちも、クリスマスを祝いたい。とはいえ、公然とクリスマスを祝って、せっかく良い関係を築いている幕府の心証を損いたくない。さて、どうしたらいいのか?と出島に住むオランダ人たちは考えます。
そこで目をつけたのが、長崎に住む中国人たちがやっていた「唐人冬至」という冬至の行事。(ちなみに中国も幕府の許可を得て貿易していました)
「これは使える」と思ったオランダ人。
「オランダに古くから伝わる冬至の行事、やりますね!(キリッ」という方便で、クリスマスをお祝いしたのです。
それが奇策 阿蘭陀冬至(オランダトウジ)なんか男塾みたいだぞ、オランダ人…!
知っているのか雷電?(男塾)
なんとなく「知っているのか、雷電?」「(汗」みたいな会話がしっくりくる不思議
『阿蘭陀人食事之図』(クリスマスパーティーをする出島のオランダ人)
これは「阿蘭陀冬至」つまりクリスマスパーティをする出島のオランダ人を描いたものといわれています。
シャレた椅子に腰かけ、ご馳走が並んだテーブルを囲み、ワイングラスをかたむけ、スプーンやフォークで食事をする。とても江戸時代の日本とは思えない光景です。
阿蘭陀冬至の流れはこうだ!
早朝の海上パレードで幕開け
↓
オランダ商館出入りの貿易商らが商館に行ってプレゼントを渡す
↓
通訳や役人にあいさつ回り
↓
日が暮れると商館でクリパ開催!(先ほどの絵みたいなノリで)
こっそりといいながらもなかなか盛大。
クリパには、通訳や役人、蘭学者など日頃付き合いのある日本人たちも招待。たとえば文人・蜀山人(しょくさんじん)こと大田南畝(おおたなんぽ)。長崎奉行所勤務時代にこの「阿蘭陀冬至」に招待されたらしい。
大田南畝の肖像画
表の顔は幕府の官僚、裏の顔は人気狂歌師という異色の文化人、大田南畝(『大田南畝像』鳥文斎栄 画)
当時のクリスマスパーティにはどんな料理が並んでいたのか、現在の出島で再現されています。なんとなく違和感を感じますが、なぜかというと、畳にテーブルなんですね。
テーブルの上には、ワイン、パン、ハム、魚の丸焼きなどが並んでいます。特に目を引くのがメイン料理のこれ。ボアーズヘッド(豚の頭がリンゴを加えている料理)
頭だけの豚さんがリンゴをくわえてる!
さすがオランダ、さすが長崎、江戸時代には見慣れなさすぎるインパクト大の肉料理。これは「ボアーズヘッド」という肉料理で、北欧などではクリスマスに欠かせない料理なのであります。
ここで、先に紹介した『阿蘭陀人食事之図』をよ〜く見ると、テーブルの上に頭っぽいのがあります。
ボアーズヘッド(牛の頭、『阿蘭陀人食事之図』)
こちらは豚の頭ではなく、牛の頭のよう。江戸時代の日本人はほとんど豚肉や牛肉を口にしていなかったので、こんな料理が目の前に出てきたらさぞかしビックリしたことでしょうね。
招待された日本人たちも、牛の頭を囲みながら目の前で繰り広げられるイベントがまさか“禁教”の宗教行事とは思いもよらなかったでしょう。あるいは、知っていたけど黙認していた日本人もいたかもしれません。
さて、時は流れて幕末。
黒船来航によって西欧への扉を開かざるを得なくなった幕府は、横浜や神戸など5つの港を開きます。黒船来航から3年後には踏み絵も廃止されました。日本人のキリスト教信仰は明治時代になってもしばらく禁じられましたが、外国人の信仰の自由と居留地内での宗教活動は幕末にはOKとなっており、日本国内でも開港地などではクリスマス行事が見られるようになりました。
江戸時代、外国人の屋敷でのパーティ(『横浜異人屋敷之図』歌川芳員 画)
横浜にある外国人の屋敷でのパーティ。チェロを弾いている男性の姿も。幕末にはクリスマスパーティもこんな風ににぎやかに行われたことでしょう(『横浜異人屋敷之図』歌川芳員 画)
幕末に日本へやってきた初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスも日本でクリスマス会を開いています。1856年(安政3年)12月25日、領事館を構えていた伊豆の玉泉寺でクリスマス会を開いたそうですが、敬虔なクリスチャンだったハリスはひとり静かに祝宴を行ったそう。
日本で初めて登場したサンタクロースは侍スタイルだった!?
今ではクリスマスといえば光り輝くクリスマスツリーが欠かせませんが、クリスマスツリーが日本で初めて飾られたのは幕末、1860年(万延元年)のこと。プロイセンの外交官オレインブルクが用意させたのが日本初のクリスマスツリーなのです。
ツリーに使う樅(もみ)の木がなかったため、似たような木を探すのも一苦労。オーナメントには、オレンジや梨などのフルーツ、砂糖菓子、キャンドルが吊り下げられたそうです。日本初のクリスマスツリー、どんなものだったのか見てみたい。
大正時代の神戸教会でのクリスマス
大正時代の神戸教会でのクリスマス。たくさんのオーナメントで飾られた大きなツリーが見えます。画像引用元朝日新聞
もうひとつ、いや、もうひとり、クリスマスに欠かせない人物がいます。
そう、サンタクロース。
サンタさんのファッションといえば、赤と白の服と帽子に真っ白な豊かなヒゲですが、日本初のサンタクロースはそんな定番イメージとは全然違いました。
日本初のサンタクロースは、なんと裃(かみしも)を着用し、腰には大小の刀を帯びた侍ルックだったらしい。
裃、大小の刀というと、まあこんな感じなわけですが、
池田長発(現代にも通用する幕末のイケメンランキング)
写真は裃、大小のイメージ。幕末のイケメン特集で紹介した池田長発さん
サンタクロース観、ゆらぐな〜。
この侍サンタさんが登場したのは、1874年(明治7年)のこと。
明治時代、東京の築地は外国人居留エリアで各国の領事館や教会、ミッション系のスクールがありました。日本人による明治最初のクリスマスが行われたのも築地の学校だそう。そこで、維新後にクリスチャン実業家として活動した原胤昭(たねあき)という人物がクリスマス会を開いたんだとか。原は江戸生まれの元幕臣で、明治になってキリシタンとなり、入信の記念にクリスマス会を開いたらしい。のちに原が「神田明神の祭礼のような気持ちでやった」と語っているように、だいぶ…いや、かなり純和風なクリスマス会だった模様。その流れで侍サンタが登場したわけです。ちなみに記念すべき日本初サンタに扮したのは、元幕臣の牧師・戸田忠厚というお方です。
次に、この絵もぜひ紹介したい。
『さんたくろう』(国産初のサンタクロースの絵、明治31年)
こちらのサンタクロースっぽいおじいさんは、その名も三太九郎(さんたくろう)。
また男塾の民明書房みたいなノリなのですが、これは1898年(明治31年)に発行された、教会に通う子どもたちのために書かれた物語『さんたくろう』の挿絵。
これこそ国産初のサンタクロースの絵といわれています。
お供に連れているのがトナカイではなくロバ。プレゼントが入っているのがカゴというのもおもしろい。
『さんたくろう』のあらすじ
「三太九郎」の正体は井口五郎というおじいさんで、行き倒れていたところをクリスチャンの一家に助けられ自分もクリスチャンとなり、恩返しにクリスマスの夜、その家の子どもたちにプレゼントを贈る、というなんともユニークな物語。
サンタさんって妖精の類だと思っていたのに、まさか普通のおじいさんだったとは・・・夢があるようなないような・・・。
大正時代になると現代とほぼ同じようなサンタさんが子ども雑誌の挿絵にもたくさん描かれるようになり、現代に続くサンタさんの定番イメージが浸透していきました。
『子供之友』に描かれたサンタさん(大正3年)
1914年(大正3年)に刊行された『子供之友』に描かれたサンタさん。大きな白い袋からプレゼントを出し、靴下に入れようとしています。奥の女の子が「あ」と気づいているのがなんとも可愛らしい
明治、大正、昭和と時代を追うごとに国民行事となったクリスマス
明治になると居留地でのクリスマスのにぎわいは年末の風物詩として新聞でも報じられるようになりました。それによるとクリスマス当日は領事館や銀行などはすべて休業となり、信者たちは朝から教会へ行き、バザーが行われたりしたそう。
明治時代の横浜居留地
明治時代の横浜居留地。まるで外国のよう。
現代では11月ともなれば熾烈なクリスマス商戦がスタートしますが、クリスマス商戦の歴史は、明治時代にまでさかのぼります。昔から日本人はイベント大好き。
輸入食品などを販売する明治屋が今から120年近く前(明治33年)に日本企業としていち早く華麗なクリスマス飾りをするようになり、クリスマスセールを始めたのが日本のクリスマス商戦の先駆けといわれています。
「クリスマス売り出し」と大きく書かれた明治屋のチラシ
「クリスマス売り出し」と大きく書かれた明治屋のチラシ。おもちゃや洋菓子に並んでストッキングと書かれているのが気になるところ
日本にクリスマスケーキが登場したのもなんと明治時代のこと。クリスマスケーキもずいぶん歴史があるんですね。ペコちゃんでおなじみの不二家が1910年(明治43年)にクリスマスケーキを販売したのです。余談ですが、砂糖でできたサンタやイチゴなどでクリスマスケーキをデコレーションするようになったのも不二家が先駆けらしい。不二家、すごい。
明治時代のクリスマスケーキ(復元)
明治時代のクリスマスケーキ(復元)
こうして日本でも次第にクリスマスの行事が広く浸透していき、大正時代も12年を過ぎると朝日新聞で「クリスマスプレゼントは年々盛んになる」と報じられるまでになりました。(今に置き換えると、ハロウィンやブラックフライデーが浸透していってるイメージ?)
昭和初期には“年中行事”としてクリスマスもすっかり定着し、そして、現代へと続いているのです。
昭和初めのクリスマスに関する新聞記事(1927年)
1927年(昭和2年)の新聞記事。12月に入った途端に大通りにクリスマスの飾りができた、と書かれている。現代と変わらないな。
クリスマスが日本でこんなに長い歴史を持っていたなんて意外ですよね。クリスマス・イヴの夜、皆さんの家にも三太九郎がやってきますように!