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英語でわかる芭蕉の俳句 - 国際俳句交流協会 ①

2020.12.24 13:15

https://www.haiku-hia.com/about_haiku/basho300/archives/300-01.html

【英語でわかる芭蕉の俳句 - 国際俳句交流協会】より

英語でわかる芭蕉の俳句

まえがき

「575 The haiku of Basho」の著者John White氏が共著者の佐藤平顕明氏と来日され、葵祭の日に、芭蕉の俳句の英訳について議論する機会を得ました。

ホワイト氏は俳句の原則5-7-5音を尊重して英訳を5-7-5 音節(syllable)のhaikuとし、芭蕉が字余りで詠んだ俳句はそれに従って音節を増やすという徹底ぶりで、300句を英訳しています。その労作には驚嘆しました。

ホワイト氏は日本語を理解できないので、佐藤氏の解説を基にして英訳されたそうで、両氏のご努力には敬意を惜しみません。しかし、俳句の本質は5-7-5音の簡潔な詩的表現をすることにあり、日本語と英語の構文や発音などの違いを無視して形式的に音節に拘ることには賛成しかねます。動詞や前置詞・副詞などを使用して音節を増やすと散文的になり、俳句の特徴である「詩的短さ」が損なわれると主張しましたが、ホワイト氏は英語の詩として十分簡潔なhaikuに翻訳していると反論され、議論は平行線に終わりました。

ホワイト氏には94歳のご高齢にもかかわらず翌日の帰国を控えたお忙しい時間を割いて頂いたので議論の矛を収めましたが、言葉の壁を破り俳句の翻訳をすることの難しさの一例として、ご参考までに下記のとおり紹介させて頂きます。

(国際俳句交流協会会員 木下 聰)

芭蕉300句 (1)~(10)

ほろほろと山吹ちるか瀧の音

(horohoroto yamabukichiruka takinooto)

(1/300)

yellow rose petals

gently, gently flutter down;

waterfall thunder

ホワイト氏は、芭蕉が山吹を見て詠んだものとしてこの翻訳をしたとのことで、「滝音の響きと山吹が静かに散る対比が面白い」と感想を述べていました。

この解釈は、疑問を表す助詞「か」を見落としていますが、日本の著名な俳人も文法に気をとめず直感的に句意を解釈する傾向があるので是認すべきかもしれません。この俳句は滝の音を聞きながら、「滝の轟音の響きで山吹が散るのではないか?」と滝音の大きさを詠嘆して詠んだものでしょう。

そこで、次のとおり試訳してみました。

shall yellow rose petals

flutter down?

the thunder of water fall

ホワイト氏の翻訳は9語17音節ですが、上記試訳は11語16音節です。語数が増えても「滝の音」を強調するために敢えて「the thunder of waterfall」としました。

英詩のHAIKUとしては試訳よりホワイト氏の翻訳の方が詩的映像が鮮明になり優れていると思いますが、原句の句意を無視することはできません。試訳は1~2行の改行を活かし、間をおいて読むと俳句らしくなります。

芭蕉は「滝と山吹」の従来の取り合わせの焦点を音に当てることにより新鮮味を出し、映像は読者の想像に委ねたものと思います。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

(kirishigure fujiominuhizo omoshiroki)

(2/300)

(A)

showery mists

hiding Mt. Fuji today_

amusing!

(B)

mist and gentle rain,

fuji can’t be seen today;

how fascinating!

(A)は、「霧が時雨のように富士山を隠す様子が面白い」と芭蕉が詠んだものと解釈して英訳したものです。(B)はJohn White と Kemmyo Taira Sato両氏の共訳ですが、5-7-5音節に拘る弊害か、原句の句意・ニュアンスを表現しきれていないように思います。

貴方はどう思いますか?

山路来て何やらゆかしすみれ草

(yamajikite naniyarayukashi sumiregusa)

(3/300)

(Translation by L.P. Lovee)

coming through a mountain path,

somehow graceful_

violets

永き日を囀りたらぬ雲雀かな

(nagakihio saezuritaranu hibarikana)

(4/300)

(A) Translation by L.P. Lovee

the so-called long-day

insufficient to fully sing_

skylarks

(B) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

throughout a long day

with never a pause at all

a skylark in song

(A)の英訳では、「永き日」が春の季語(「日永」)のであることを明瞭にするために「so-called」を補足しています。

(B)の英訳は誤訳(mistranslation)です。原句の句意と違うばかりでなく、雲雀は上空で一しきり鳴くと鳴き止み地上に降りますから「never a pause」は実態的にも誤り(wrong)です。

菜畠に花見顔なる雀哉

(nabatakeni hanamigaonaru suzumekana)

(5/300)

(A) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

in a field of rape

with flower viewing faces

a flock of sparrows

(B) Translation by L.P. Lovee

a plot of rape field,

with a look of flower viewing

one of the sparrows

日本語には単数・複数の区別が無く、俳句を詠んだ背景が分からない場合は英訳に苦労します。(A)では「群れ雀の全てが花見顔をしている」と解釈していますが、雀は地面にいるときは何かを啄ばんでいるのが普通ですから、「群れ雀の一羽が恰も花見をしているように見えた面白さを俳句にしたもの」と解釈して英訳しました。しかし、一羽だけ雀が居る様子を詠んだものと解釈すると、「one of the sparrows」は「a sparrow」に替えることになりますが、この方が俳句らしい翻訳になります。日本の畠は欧米に比べて規模が小さいので「a plot of」を補足して翻訳しました。蛇足ですが、上記の「rape」は、「強姦」ではなく、「アブラナ」です。

岩躑躅染る泪やほととぎ朱

(iwatsutsuji somuru namidaya hototogisu)

(6/300)

(A) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

rock azaleas

so it seems, have been dyed red

by the cuckoos’ tears

(B) Translation by L.P. Lovee

the rock azalea

seems to be dyed with the tears of

a cuckoo

(C) Translation by L.P. Lovee

the tears

dyed with the rock azaleas_

a cuckoo

「ほととぎす」には「杜鵑」「時鳥」「子規」など色々の当て字があります。一般的に「ほととぎす」の詩歌は「鳴き声」に焦点を当てますが、芭蕉は「ほととぎ朱」と書き、色に焦点を当て新鮮味を出したものでしょう。ちなみに、「血の涙」という言葉もありますが、評伝・正岡子規(柴田宵曲著)によると、正岡子規は俳号「子規」の元になった五言絶句で「杜鵑が血を吐いて鳴く」という趣旨のことを詠んでいます。

なお、実態的解釈はともかくとして、文法的には(C) のごとき翻訳も可能です。

春なれや名もなき山の朝がすみ

(harunareya namonakiyamano asagasumi)

(7/300)

(A) Translation by L.P. Lovee

the spring, now_

on the unnamed mountain

morning mists

(B) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

the spring has arrived;

on the hill that has no name

there is morning mist

(C) Cited from an internet site (jeffThompson/BashoHaiku.txt)

Spring!

A nameless hill

in the haze.

(D) Cited from an internet site (jeffThompson / BashoHaiku.txt )

it is spring!

a hill without a name

in thin haze

Which one do you like best among the above translations?

むめがかにのっと日の出る山路かな

(mumegakani nottohinoderu yamajikana)

(8/300)

(A) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato.

amid plumtree scent

the sun suddenly came up

on the mountain path

(B) Translation by L. P. Lovee

amid plum blossoms scent

suddenly emerges the sun_

this mountain path

(C) Cited from an internet site (jeffThompson/BashoHaiku.txt)

With plum blossoms scent,

this sudden sun emerges

along a mountain trail

「むめがか」は「梅の香」のことです。山道を登っていると山の起伏や林で見えなかった太陽が不意に現れることがあります。そのような体験から、芭蕉は「のっと日の出る」と面白く表現したものと思いますが、「日の出」を詠んだのかもしれません。「のっと」には「祝詞」の意味もあります。いずれにせよ、この表現のニュアンスを英語にすることは不可能です。

なお、「山路かな」を「this mountain path」と翻訳して臨場感を出しましたが、この俳句は実際には連歌の発句です。

五月雨にかくれぬものや瀬田の橋

(samidareni kakurenumonoya setanohashi)

(9/300)

(A) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

in the rain of may

the only thing still in sight

the bridge at seta

(B) Translation by L. P. Lovee

in the rain of rainy season

what remains in sight_

the bridge at Seta

(A)の固有名詞は小文字表記ですが、(B)のように固有名詞は大文字表記にして句意を明瞭にするのがよいでしょう。「五月雨」は直訳しないで「rain of rainy season」と翻訳し、実態的句意を明瞭にしました。

風吹けば尾ぼそうなるや犬桜

(kazefukeba obosounaruya inuzakura)

(10/300)

(A) Translation by L. P. Lovee

when the wind blows,

the tail dwindles_

dog-cherry blossoms

(B) Translation by John White & Kemmyo Taira Sato

as white blossoms blow

away in the wind, the trees

appear to dwindle

「犬桜」の学名は「Prunus buergeriana」ですが、俳句用語に適しないので、原句の面白さを訳出するために (A)では文字通り「dog-cherry blossoms」と翻訳しました。

「尾」も「tail」と直訳しましたが、この俳句の情景や面白さが日本語の分からない外国人にも理解されるでしょうか、反応を知りたいものです。

(B)の翻訳では情景は明瞭ですが、原句の面白さは全く理解されないでしょう。


https://www.haiku-hia.com/about_haiku/basho300/archives/300-02.html 【芭蕉300句 (11)~(20)】より

春かぜやきせるくはえて船頭殿

(harukaze-ya kiseru-kuwaete sendō-dono)

(11/300)

(A)

spring breeze_

with a pipe in his mouth

Mr. boatman

(B)

with a pipe in his mouth

Mr. boatman_

spring breeze

(C)

a pipe in his mouth,

mister boatman is smoking;

a breeze in springtime

(C)はホワイト氏の英訳です。 5-7-5の音節にするために動詞が使われ、句意はわかりやすいですが、簡潔さという俳句の特徴・良さは損なわれています。(A)と(B)はL.P. Loveeの英訳です。 音節に捉われず俳句の簡潔さを優先した翻訳です。

(A)は日本語の原句の語順通りに翻訳しています。

(B)は語順を変えて俳句の「切れ」を英語HAIKUに生かしたつもりです。俳句は好き好き、翻訳も好き好きです。

貴方はどの英訳が良いと思われますか?

青柳の泥にしだるる潮干かな

(aoyagi-no doro-ni-shidaruru shiohi-kana)

(12/300)

(A)

the green willow trees

are dripping into the mud

now the tide is out

(B)

the green willow tree

drooping to the mud_

the ebb tide

(A)はホワイト氏訳で、5-7-5音節になっていますが、原句の「しだるる」を誤訳しています。

(B)は L.P. Loveeの素直な英訳です。

「潮干」とは、広辞苑によると、「潮水が引くこと。潮が引いてあらわれた所」です。原句は「潮干」を強調して、「柳と水」の取り合わせを「柳と泥」の取り合わせにして俳諧味を出したものでしょう。

ほととぎす消え行く方や島一つ

(hototogisu kieyuku-kata-ya shima-hitotsu)

(13/300)

(A)

where a small cuckoo

disappeared in the distance

a single island

(B)

in the distance where

a little cuckoo disappearing,

a single island

「時鳥」は鳴き声を意識して俳句にするのが普通ですが、芭蕉は視覚に訴える句にして、新味を出したのでしょう。

(A)は「575訳」ですが、「消え行く」を「disappeared」(過去形)と誤訳しています。

(B)は「消え行く」を訳出するために、「disappearing」(進行形・be動詞省略)としました。

(注) 今後はホワイト氏の翻訳を「575訳」と略称します。

世ににほへ梅花一枝のみそさざい

(yoni-nioe baika-isshino misosazai)

(14/300)

(A)

sweet-scented world;

on a branch of plum blossom

a wren is perching

(B)

Be fragrant in the world!

a wren

on a branch of plum blossom

この俳句の句意は分かりにくいですが、

(A)の「575訳」は「世ににほへ」(命令形)を無視した誤訳です。(B)は原句の意味を忠実に訳出しています。

「芭蕉俳句全集」によると、この俳句は明石玄随(医師・号は一枝軒)を称えた挨拶句とのことです。したがって、ミソサザイは玄随の比喩です。「梅に鶯」は諺になっているほどの「取り合わせ」の定番ですが、芭蕉は「鷦鷯」(冬の季語)と「梅」(春の季語)を敢えて取り合わせることによってその効果を出したのでしょう。「みそさざい」は朗々と鳴く鶯と異なり、金属的な声で小さな体を震わせながら懸命に鳴きます。

古池や蛙飛びこむ水の音

(furuike-ya kawazu-tobikomu mizu-no-oto)

(15/300)

(A)

by an ancient pond

a frog leaping into it

the sound of water

(B)

The old pond;

A frog jumps in_

The sound of the water.

(C)

a sound of a frog

jumping into water_

the old pond

(A)は「575訳」ですが、5-7-5の音節に拘り、説明的な翻訳になって俳句の簡潔さが損なわれています。

(B)はRobert Aitken訳、(C)はL.P. Lovee訳です。

いずれも「芭蕉の俳句『古池や』の英訳を考える」で紹介したものですが、両者の翻訳の違いは、芭蕉がこの俳句を作った背景の解釈の違いによるものです。すなわち、(B)は一般的な解釈(古池の傍で蛙を見て詠んだもの)による妥当な翻訳ですが、(C)は「蛙の飛び込む水音を聞いて詠んだもの」と解釈した試訳です。いずれにせよ、この俳句は芭蕉が古池の心象を詠んだ創作俳句であり、実際の写生句ではないかもしれません。

なお、この俳句の英訳は無数にあり、複数の蛙が飛び込んだ音と解釈した英訳もありますが、静けさの中に一匹の蛙が「チャポン」と飛び込み、また静けさが戻った情景を想像して翻訳した方が良いと思っています。

ちなみに、ここをクリックすると芭蕉の俳句「古池や」の英訳32件 (小泉八雲訳やドナルド・キーン訳など)をご覧になれます。

初真桑四にや断ン輪に切ン

(hatsu-makuwa yotsu-niya-tatan wani-kiran)

(16/300)

(A)

the year’s first melon;

how should i cut it; in four

or in round slices

(B)

shall I cut in four

or in round slices?

the season’s first melon

(A)は「575訳」です。(B)はL.P. Lovee訳です。「初真桑」の「初」の英訳は、旬の初物という意味で「year’s first」より「season’s first」と訳する方がよいでしょう。

本間美術館の記事によるとこの俳句は連歌の発句です。

この連歌に興味があれば、ここをクリックしてご覧下さい

五月雨に鶴の足みじかくなれり

(samidare-ni tsuru-no-ashi mijikaku-nareri)

(17/300)

(A)

heavy summer rain

has caused the cranes’ legs

to be very much shorter

(B)

the rain of rainy season

has made the cranes’ legs

look shortened

(C)

the legs of cranes

look shortened_

the seasonal rain

(A)は「575訳」で散文的英訳になっていますが、芭蕉の原句が散文的表現なので是認すべきかもしれません。

(B)と(C)は「Lovee訳」ですが、(C)の方が簡潔で俳句らしい翻訳です。

なお、「五月雨」は陰暦5月の長雨(「梅雨の雨」)のことですが、鶴は「冬」の季語です。現在では鶴は北海道や動物園でしか見ることが出来ませんが、芭蕉がこの俳句を詠んだ頃には沼地などで梅雨時にも野生の鶴を見ることが出来たのでしょうか? それとも、この俳句は俳諧味を出すための全くの創作でしょうか?

潮越や鶴はぎぬれて海涼し

(shiogoshi-ya tsuruhagi-nurete umi-suzushi)

(18/300)

(A)

crossing at low tide

the legs of the cranes are wet

with the sea’s coolness

(B)

carrying out “shiogoshi”,

with their bare legs wet_

the cool sea

(C)

at the “shiogoshi”

my bare legs are wet_

the cool sea

「潮越」とは、広辞苑によると、「潮水をひき導くこと」ですが、「芭蕉俳句全集」の「奥の細道」の解説によると、「浪が打ち入る所」です。

いずれにせよ、「潮越」に対応する英語の言葉はないので、そのままローマ字で表記せざるをえません。

「鶴脛(つるはぎ)」とは「衣の短い裾からすねが長く現れること」、また、その「すね」のことです。

(A)(「575訳」)は「鶴脛」を「鶴の脛」と解釈した誤訳です。

(B)(Lovee訳)は、「鶴脛」を定義どおりの意味にとって翻訳しています。「人が潮越をしているのを芭蕉が見て俳句にした」と解釈した翻訳です。

(C)(Lovee訳)は、芭蕉が潮越を歩いて詠んだものと解釈して翻訳しています。

さざれ蟹足はひのぼる清水哉

(sazaregani ashi-hainoboru shimizu-kana)

(19/300)

(A)

a very small crab

has found its way up my leg

in clear stream water

(B)

a tiny crab

creeps up on my leg_

the clear water

(A)は「575訳」で散文的な翻訳になっています。

(B) (Lovee訳)は簡潔で俳句らしい翻訳です。

原中や物にもつかず鳴雲雀

(haranaka-ya mononimo-tsukazu naku-hibari)

(20/300)

(A)

out over the plain

free of any attachment,

the sky larks, singing

(B)

over the field

without clinging to anything,

a skylark singing

(A)は「575訳」です。「ものにもつかず」を誤訳しています。雲雀は通常一羽のみ上昇して鳴くものですから、「skylarks」と複数にするのは実態的に不適切です。

(B)(Lovee訳)は実態を考慮して素直に翻訳したものですが、4-7-5音節になっています。