「ギリシア神話と名画」12 ヘルメス(1)嘘つきと泥棒の神
ギリシア神話の神々の中で、とても神とは思えないような厚顔無恥な存在がヘルメス(ローマ神話ではメルクリウス)。他の神々が慎んで隠しておこうとしている真実を平気で明るみに出したり、澄ました顔で厚かましい嘘を平気でつく。しかも、目から鼻へ抜ける才知の持ち主で、何より得意としているのはなんと盗み。こんな風変わりな神が産まれたのは、ゼウスが必要と考えたためだった。その考えを実現するため、ゼウスはヘラが寝入っている隙にこっそり寝室を抜け出し、キュレネという山奥の岩屋で女神マイアと密通。10か月後に生まれたのがヘルメスである。
ヘルメスは、生まれたその日にゆりかごから抜け出すとアポロンのところまではるばる出向き、アポロンが飼っていた50頭の牝牛を盗む。すべてを見通す力を持つアポロンはすぐに犯人を見抜き、ヘルメスに激しい剣幕で牛を返すように求めた。するとヘルメスは、絶対に騙すことのできないアポロンに平気でこう嘘をついた。
「私は見たとおり生まれたての赤ん坊で、産湯に入れられ、産着にくるまれ母の乳房を吸って眠っていただけです。屈強な大人にしかできない牛泥棒などするはずがありません。私の足はまだ柔らかで、地面を踏むことすらできないのですから」
アポロンはしゃあしゃあと嘘をつくヘルメスをゆりかごからつかみ出し、「牛を隠しているところへすぐに案内しないと、地獄のタルタロスに投げ込むぞ!」と言って脅した。するとヘルメスは、「盗んでいない牛をどうしても返せとおっしゃるのでしたら、父のゼウスに事の裁きをつけていただきましょう」と言い出す。そして、今しがた「自分の足は柔らかで、地面をふむこともできない」と言っていたにもかかわらず、すたすたとオリュンポス山を目指して歩き出したのだ。アポロンはあっけにとられながらヘルメスの後についていく。
ヘルメスを一目見たゼウスは、いかにもずる賢そうな表情を見て、自分が望んだ通りの才能と性質の子ができたことに大満足。そんなゼウスの前でもヘルメスは「自分は真実だけを語る者で、嘘のつき方など知りません」と、真っ赤な嘘をついた。そして騙せるはずのないゼウスに「自分は牛泥棒などした覚えはありません」といい続けた。その嘘が上手なことに、ゼウスはますます満足。そして、しまいには笑い出し、ヘルメスに「お前が利口なことはよくわかったから、もういい加減にアポロンを牛のいる場所へ連れて行ってやりなさい」と命じた。そして、ゼウスはヘルメスとアポロンを仲直りさせるとともにオリュンポスの神々の仲間に加え、自分の伝令役を務めさせた。
その後、ヘルメスはアポロンに牛を返すとともに自分が発明した竪琴をプレゼント。その音色に魅せられたアポロンは、代わりに牛の群れと鞭を与えた。こうしてヘルメスは牧神の神となった。またヘルメスはアポロンと自分の両方が得をする取引をしたことで商売の神にもなり、生まれてすぐに旅をしたことから旅の守護神、死人の冥界への道案内薬など、多くの役割を持つ神となったのである。
【ルーベンス「メルクリウス」プラド美術館】
絵画に描かれるヘルメス(ラテン語名:メルクリウ)は、オリュンポス12神のなかでは、最も見分けやすい姿をしている。翼の生えた靴や翼のある帽子というトレードマークを身に着けているためである。これらは、素早い往来を可能にするための道具であり、神々の間を行き来する伝令の役を与えられたヘルメスには不可欠なのだ。
また、伝令役のしるしである二匹の蛇が巻き付いた黄金の杖を持っていることが多い。その杖は「ケリュケイオン」と呼ばれ、ギリシア語でケリュクスと呼ばれる伝令役をつとめるために必要な道具だった。
ルーベンス「メルクリウス」プラド美術館
シャルル=アメイデイ=フィリップ・ヴァン・ロウ「ヘルメス」
ジャン・ボローニャ「メルクリウス」バルジェロ美術館 フィレンツェ
アンドレア・マンテーニャ「パルナッソス」ルーヴル美術館
右端にヘルメスが描かれている
アンドレア・マンテーニャ「パルナッソス」に描かれたヘルメス
ボッティチェリ「春」ウフィツィ美術館
左端にヘルメスが描かれている
ボッティチェリ「春」に描かれた「ヘルメス」
イーヴリン・ド・モーガン「メルクリウス」ド・モーガン・センター