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一人称研究のすすめ本ダウンロードepub

2020.10.24 22:33

一人称研究のすすめ

strong>本, 諏訪 正樹


一人称研究のすすめ本ダウンロードepub

によって 諏訪 正樹

3.9 5つ星のうち4 人の読者

ファイル名 : 一人称研究のすすめ.pdf

ファイルサイズ : 23.98 MB

※この商品は固定レイアウトで作成されており、タブレットなど大きいディスプレイを備えた端末で読むことに適しています。また、文字列のハイライトや検索、辞書の参照、引用などの機能が使用できません。購入前にお使いの端末で無料サンプルをお試しください。研究と学びの新たなる地平!「知」は個人の中に内在するため、その文脈の中で語られてこそ本質を理解することができる。すなわち「一人称」が研究のスタートとなる。これを積み上げることで「知」の攻略につなげられると考える。本書はこの一人称研究の考え方と実際の研究事例を丁寧な語り口で解き明かす。人工知能に興味のある読者、新たな研究姿勢を模索する理工学、人文系の読者も興味を持って読むことができる。

一人称研究のすすめを読んだ後、読者のコメントの下に見つけるでしょう。 参考までにご検討ください。

(1)<一人称研究の狼煙>:本書は、「一人称研究という狼煙を何故に上げざるを得なかったのだろうか?」 一読者たる私の一人称的関心だ。「まえがき」はその問題意識を簡潔にいう。「知の研究はどのように行うのがよいのでしょうか? 本書は、その問いについてのわれわれの主観を書きます。」「われわれの主観をひとことで言うならば、『ひとの主観を探究の遡上に載せることが、知の研究には必須なんじゃないか』ということになります。われわれはそういう研究を『一人称研究』という名で呼ぶことにしました。」(中略)「そのひとの人生背景、性格、ものの考え方という個別具体性を捨て置かず、そのひとの一人称視点からみえる世界を記述したデータと、そのひとの主観的な意識のデータをもとに、知の姿について先見的な仮説を立てる研究がいま必要であると感じています。わたしにとって、一人称研究とはそういう考えた方の研究です。」(まえがき p.iv)そして、この考えを火種に、一人称研究すすめの狼煙を上げる。「われわれのこの主観は従来の研究観とは異なるので、違和感を覚える方も多いかもしれません。『そんな研究、いままで聞いたことがなかったけれど、結構しっくりくる‼』と面白がってくれる方もいるかもしれません。」(まえがきp.iv-v)この狼煙に気づき、“いったい何事か?”と私の主観が蠢いた。本書を手にとったのだ。 「さて、従来の常識を構成する重要要素は、客観性と普遍性です。客観性とは、誰がみても明白な事実として確認できるデータをもとに研究を行うことを指し、普遍性とは、いつでもどこでも誰にでも成立するような知の姿を解明することを指します。しかし、わたしは、この方法論を順守していると、どうも、ひとの知のすごさが欠落してします気がするのです。生身の人間としての息吹が感じられない、ありきたりな知の姿しか明らかにされないように思えてなりません。研究という営み自体に、『ひととしての生活感覚から乖離している』感が否めないのです。」(まえがきp.v)「数少ない被験者の個別具体的な状況に(一人称的なN=1の事象に)面白い現象を見出し、それを基に知の面白い側面について仮説を立て、その仮説を検索クリエーにして、同じ現象が数多くの他者にも成り立ちはしないかと探すことによって普遍に近づけるのではないかと考えているのです。」(まえがきp.vi)とはいっても、従来の客観性・普遍性を否定しているわけではない。これと対峙する従来の知の方法ではあまり語られてこなかった主観を「生身のひとの息吹」として新たな知の探求の思想を提唱する。全体に渡って、やむにやまれぬ心境からの発露といった勢いを感じる。漠とした感想や問題提起ではない。本書は、人工知能学会監修を謳い、かつ同学会の俊英なる執筆者群による論考だ。人工知能学会誌「人工知能(2013年9月号)」記載の「特集 一人称研究の勧め」論文集をベースにして、より一般向けに編纂されたという。各論考の内容は一人称研究の課題・思想につき多角的できわめて濃密だ。だが、人工知能学会と直接的に縁がなく、一人称的勘が働きにくい読者の立場からは難易度が高い岩壁だ。そこで読書ルートの次のように変えると、全体像が掴みやすいと評者は感じた。「まえがき」→「第一章 一人称研究だからこそ見出せる知の本質」(基本的な問題提起)→「第八章 知の研究スペクトラムを拡げる」(現状全体把握・比較と展望)→「各章」(個別探究の実例・可能性)→「Q&A」→再読「まえがき」で問題意識をの再確認へと進む。こうして評者は、一読者として狼煙を遠望することになる。俊英なる人工知能研究者らが切り拓き描いた可能性のルートマップは、次なるアタック隊の開拓ルートへの手蔓となるだろう。評者でさえ、全体に渡って胸が躍るのを覚えた。しかし、その全体の裾野のジャングルは広く険しそうだ。そうした中で、 “おやっ?!”と意表を突かれて胸がドキンとした論点がいくつもある。こうしたドキンのうち以下の二つを私という第一人称の覚え書きとする。(2)<漱石「知情意」の相対的区分>:まず、第一のドキン。意表を突かれた。夏目漱石著「文芸の哲学的基礎」を引用、第一人称研究における知の本質として重点を置き解析されている(諏訪正樹 第一章p. 34-36)。漱石の「知情意(知性・感情・意志)」の論考まで踏み込まれている。人工知能学会における第一人称研究の「遊撃隊(松尾豊 第五章p.144)」はなるほどここまで遊軍しているのか。このことに意表を突かれ胸がドキンとしたのだ。夏目漱石の芸術論に関わる「知情意」論考には、単なる辞書解釈を超えて「知情意」の相互の連関について学ぶべきことが深い。評者が首肯する箇所を長くなるが引用する。「吾人は今申す通り我に対する物を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別して行きます。 同時に我に対してもまた同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別する。 その精神作用を知、情、意、の三に区別します。それからこの知を割り、情を割り、その作用の特性によってまたいろいろに識別して行きます。この方面は主として心理学者と云う ものが専門として担任しているから、これらの人に聞くのが一番わかりやすい。もっとも 心理学者のやる事は心の作用を分解して抽象してしまう弊がある。“知情意は当を得た分類かも知れぬが、三つの作用が各独立して、他と交渉なく働いているものではありません。心の作用はどんなに立入って細かい点に至っても、これを全体として見るとやはり知情意の三つを含んでいる場合が多い。だからこの三作用を截然と区別するのは全く便宜上の抽象である。”(―明治四十年四月東京美術学校において述―: 夏目漱石. 文芸の哲学的基礎. 青空文庫2000, Kindle版 位置No.349-357; 底本「夏目漱石全集10」ちくま文庫 1988, 筑摩書房)(“枠”は評者)。この漱石の「知情意」論考にあたって、評者が特に着目するのが“枠”部分だ。「知(知性)」「情(感情)」「意(意識)」は言語上の抽象的分類であって、三つの作用が独立して働いているのではなく、あたかも朝焼けや黄昏の色彩のごとく全体として融け合って、相対的な区分として知情意が作用している。このような漱石の捉え方だ。さらに、ここでの「知情意」論考から飛び石伝いに想起する。それは、吉本隆明著「定本 言語にとって美とはなにかI・II」(2001角川ソフィア文庫)だ。吉本は「言語、芸術、文学にとって美とは何かを探究したが難渋していた。だが、発生学者・三木茂夫と出会うことによって、言語表出の背後に“身体”の問題があることをつかまえ、“心”の枠組みがみえ、“生命”の枠組みもみえてくる、可能性を見出した。」ただし、一般読者にとって吉本論考は膨大で難解な面があると思う。そこで、その吉本著の解説書「宇田亮一 2017 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』の読み方. アルファベータブックス」を挙げる。そして、評者が言わんとすることを効果的に伝えるために、サイトですぐに飛べるアマゾン・レビューでの宇田著についての評者レビュー( https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/ROOAGKI3IYYRL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4865980261 )を挙げる。本レビューは、「吉本の心的言語美」ついて語っている。これは「漱石の知情意芸術美」と近縁であり、「一人称研究」に接近する気がする。どうだろうか?このように、「第一人称研究のはしがき」にドキンとして「夏目漱石の知情意」に跳び、「吉本隆明の言語美」との関連性を感じ、全体を通して想起される意味をレビューとして思考する。こうした想起の流れが的を射ているかどうかは別として、デジタル情報圏での言語的思考だから可能となる。デジタル情報圏のハードな基盤を構築しているのがソフトな人工知能学の成果でもあるはずだ。ハード基盤が強固になればなるほど、ソフトの知的な探求たる「第一人称研究」は自ずと浮上せざるを得ない。人工知能学に先鋭的に関わる方々にとっては、先鋭的に関われば関わるほど、知的生態系における遷移的なパイオニアワークとなる。これは、第一人称研究でいわんとされる「客観性・普遍性」と「第一人称」との抽象情の相対的区分も実際には融け合っている。媒介とする表現方法に依存すると考えられる。通念的な科学基盤の「客観性・普遍性」に重点を置くならば、解析方法としてやはり数理科学は捨象できないはずだ。むしろ数理科学という強固な基盤があるからこそ、数理科学で到達できない知的探検圏には、本書で強調されるように「第一人称」的アプローチの知的方法の導入を重視せざるを得ない。この両者間の矛盾葛藤および均衡・統合の可能性について、本書ではかなり分かり易く論説されている(特に、堀浩一 第八章)。人工知能という重要課題において、本書は、一般読者にとってとても有り難い羅針盤となる。(3)<写真KJ法のハーケン>:次に、第二のドキン。索引項目に「KJ法」を見つけた。本文では「大武美保子 第四章健康を育む知」の中で、項目「一人称視点の物語を共有する共有法」との類似で「写真KJ法」が取り上げられている(p. 111-113)。もう一箇所は「藤井晴行 第六章 知をデザインする」の項目「写真KJ法と写真日記」とその続きの項目で各論技法として実際に活用されている事例だ(p.162-169)。そこで、第六章の事例を読む。「写真KJ法は写真とその写真に撮影されているものごとに関わる記述を基礎資料として行うKJ法です。KJ法はフィールドワークやブレーンストーミングによって得られる膨大で断片的な情報を整理したり、そこから発想したりするために川喜田二郎氏が考案した方法(川喜田二郎 1967『発想法』中公新書)です。(中略)私たちの研究室では、ことばによる事実描写や事実の解釈と描写の指示対象や解釈の根拠となる撮影可能な実体的なものごととの関係を自覚しながら発想を行うために写真KJ法を用いています。(中略)写真ごとに撮影情報、写真、事実記述、現象記述、経験記述の組を作成し、これらをまとめたものを基礎資料とします。(p.162-163)」このように著者は、建築デザインの現場観察に写真KJ法を導入し、その生成の要領を具体的に示す。「写真KJ法に用いる基礎資料を生成するということは、一人称の視点から観た事実や現象、一人称の経験を、写真撮影された実体的なものごとに接地させつつ自然言語表現として記号化するということに対応させています。グループ化の際に作成した記述や全基礎資料を構造化して制作したストーリーに写真を割り当てることは自然言語表現を実体的なものごとへの複合化を意識しつつ概念上の思考をするということに対応させています。(p.167)」ここでは「接地」(アース?)という評者にとっては聞きなれぬ用語が使われている。これを評者は、実体に根ざしつつ自然言語で表現すると理解する。この自然言語で表現された内容を、自らの特化専門領域である建築デザイン研究の数理や論理などの形式言語へ繋げる。「研究に数理や論理などの形式言語を使用するということはその言語の意味論における指示対象である数学的構造にコミットメントすることを含意しています。形式言語表現と実体的なものごとは自然言語表現される概念を経由して対応づけられます。形式言語によって研究対象を記述し、記号上の形式的操作によって研究対象に関する推論を行うということは、研究対象のうち数学的構造と整合的な部分を扱っているということに自覚的であることが肝要であると思います。(p.167)」この解説は、KJ法がもつ意義の一面をよく活用されているように伝わってくる。難渋する岩壁登攀にハーケンを打ち込まれた。まさに一人称的アタックで普遍ルートへよじ登られる姿勢だ。この人工知能における一人称的パイオニアハーケンを手掛かりにして、KJ法ルートと関連付けてみよう。本書のKJ法に関する引用文献は「川喜田1967『発想法』中公新書」があげられている。川喜田著「発想法」は、KJ法に関する起源で累計150部越えベストセラーで、知的発想法におけるもはや古典的位置づけとさえいえる。だが、本書の発行年は半世紀前の1967年刊行だ。川喜田二郎(1920-2009)は中公新書版発想法の後にさらに発展させ、野外科学(フィールド・サイエンス)的方法論の観点からW型問題解決モデルとして累積KJ法を思想的にも技法的にも体系化している(詳細は、川喜田二郎著作集全14巻、1995-1998、中央公論社;KJ法に関しては、第5巻「KJ法―渾沌をして語らしめる」/ 第6巻「KJと未来学」)。一般に広い意味で伝わっているKJ法はやや漠としているが、「発想法」以後に、技法モデルとして手作業レベルで行えるよう実務的に洗練されている。ただし、KJ法の考案・発展時代は主として紙文化であった。基礎資料となるデータカード、KJ法作業の元ラベル、KJ法大図解は模造紙とあくまで紙ベースであった。主として紙文化によるフィールドサイエンスであり発想法であった。他方、1980年代あたりから急速に台頭してきたパーソナル・コンピュータ(PC)のデジタル文化の超膨張してきた。このデジタル圏の荒波にもまれながらも、デジタル対応のKJ法の研鑽・展開が創意工夫されてきている。例えば、川喜田に直接・間接的に薫陶をうけたKJ法学派の共同執筆者26名が、多種多様な領域での活用・論考集を刊行している(川喜田二郎記念編集委員会編 2012 融然の探検―フィールドサイエンスの思潮と可能性―. 清水弘文堂書房)。「融然の探検」は、KJ法創始者川喜田が他界後における共同執筆・刊行だ。2012年現在で、サブタイトルのように「思潮と可能性」について編纂された。主観性と客観性との相対的区分および両者の相互交流についてフィールドサイエンス―KJ法(FS-KJ法)という観点から志向されている。そこで、すこし視野を拡げれば、「融然の探検・FS-KJ法」と「一人称研究・写真KJ法」の等価性を覚える。本書「一人称研究」では「動的対応力こそ知の本質である」と喝破、人工知能研究における一人称研究を重視する。ただし、一人称研究における主観性は、人工知能研究における客観性・普遍性の基盤があるからこそ強調度合が増す。つまり、高度な環境性・技術性への均衡として、深い主観性が要請される。他方、KJ法はヒトの思考・発想力に基盤をおいた主観性を基盤とする。人工知能研究の基盤はハード主体、KJ法の基盤はソフト主体といえよう。とはいえ、これもあくまで相対的な区分だ。前述(2)の「漱石による知情意論:この三作用を截然と区別するのは全く便宜上の抽象である」という観点からすれば、相互に浸透し合っている。つまり、一人称研究によるソフトアプローチはヒトの思考からの外向きの主体性、人工知能研究の客観性・普遍性の基盤アプローチはヒト思考への内向きの環境性・技術性となる。同心円構造の中心から主体性が外向きに、外側から環境性・技術性が内向きに波及する。川喜田は、こうした主体性と環境性・技術性の相互浸透を広く捉えて文明生態史観モデルとして論じている(川喜田二郎 1989 素朴と文明. 講談社学術文庫)。第一人称によるソフト・ソフトな発想は、個人の知情意論から、いっそう超膨張する人工知能、および地球環境生態系文明史まで知的探求ルートを拡充させていく可能性を覚える。以上、やや長めのアマゾン・レビューとなったが、意表をつかれて強く啓発されたことによる。本書「一人称研究のすすめ」に、サブタイトルにあるように「知能研究の新しい潮流」の気配を感じた。先端的な人工知能学における俊英なる執筆者に敬意を表します。かつ、さらなる未来潮流へ導くパイロット(水先案内)をご期待申し上げます。<了>