Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

新嘗祭とXmasの関係・ミトラ教

2020.12.25 04:24

Facebook・ごとう 孝二さん投稿記事 Merry Christmas㊗️🎉

「日本の最も神聖な祭り新嘗祭とXmasの関係とは」

日本人にクリスマスが定着した理由のひとつとして、戦前は12月25日が「大正天皇祭」として休日だった。

更にこの度、日本人がクリスマスを受け入れる土壌となった行事がほかにもあったことを知った。

それは、「新嘗祭(にいなめさい)」である。

毎年11月23日に、その年の新穀を神前に供える収穫感謝祭だ。

日本で最も神聖な祭りと言われている。

国の長として新嘗祭を司るのが天皇であり、新しい天皇が即位後初めて行う新嘗祭を特に「大嘗祭(だいじょうさい)」と言う。

天皇は大嘗祭を行うことによって、初めて正式に天皇になれると言う。

新嘗祭は戦前は国の祭日だった。

戦後は「勤労感謝の日」と名前を変えて受け継がれている。

お気づきのとおり、新嘗祭は11月である。

クリスマスとは、丸ひと月ずれている。

だが、新嘗祭が今の日付に定められたのは明治以降で、本来は「旧暦の11月の二番目の卯の日」であったという。

現在の新嘗祭(勤労感謝の日)の日付は、これを新暦の11月に当てはめたものである。

だが本来の新嘗祭の時期は、

「旧暦の」11月、つまり今の12月で、ちょうどクリスマスの頃であったのだ。

クリスマスの時期は、元々日本でも祝いの日だったのである。

古い新嘗祭の記憶が、クリスマスと結び付いたことは容易に察することができる。

では、なぜクリスマスの時期に新嘗祭が行われていたのだろうか。

それは、この日がちょうど冬至に当たるからである。

冬至は一年で一番日が短くなる日。この日は自然界の生命力が最も衰える日であると考えられ、それを力づけ再び活力を与えるために、祭が行われたのだ。

実は、クリスマスも本来は冬至の祭であった。

古代ローマで流行した「ミトラ教」では、冬至は「不滅の太陽の誕生日」とされていた。

この日の翌日から、再び日が長くなってゆく。

だから冬至は、力が衰えていた太陽が再生する日、つまり太陽の誕生日とされたのだ。

これが、「キリストの誕生日」に置き換えられて、今日のクリスマスとなったのである。


https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12423008148.html 【闇に葬られた古代神の黒歴史】

https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12422959898.html  【マリアとイエスの生死をかけた壮絶な戦い】

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/12261808 【心理学と宗教】


https://blog.goo.ne.jp/randynewman/e/273bed8a83bdfe80def403261f28742e 【弥勒菩薩=ミトラ=イエス・キリスト】 より

古代ローマ帝国では、ミトラ教がミトラス教と呼ばれる独特な密儀を行う宗教へと発展します。ミトラス教の主神ミトラスは太陽神なのですが、これがイエス・キリストとよく似ているのだそうです。『失われた地底王国「シャンバラ」の謎』(飛鳥昭雄・三神たける著、学研)では「ミトラス、すなわちミトラの正体はヤハウェであり、イエス・キリストなのだ。古代アーリア人が絶対神ヤハウェを指して、ミトラと呼んだのだ。彼らの中にも預言者がおり、イエス・キリストが降臨することを予言し、その儀式を伝えていたのである」と指摘しています。だとすると、弥勒菩薩はマイトレーヤ、つまりミトラなのですから、弥勒菩薩はイエス・キリストでもあることになります。

 細かい点を端折ってしまいましたが、私は仏教もキリスト教もルーツをたどっていくと結局共通のところに行き着くのだと思っています。このあたりのことについては機会があればまた書きたいと思います。


https://sekainorekisi.com/glossary/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99/【ミトラ教】 より

ローマ人の宗教はギリシアと同じく現世的であった。祭儀や礼拝によって神々が人間を幸福にすると信じられていた。かまどや四ツ辻などの神を信じ、ユピテル・マルス・ウェヌス(ヴィーナス)などの主神はギリシアのオリンポスの神々と融合していった。また、「ローマ」や勝利・平和などの観念も次々に神格化した。帝政期には死んだ皇帝の神格化と、皇帝礼拝が進められ、ことに属州では女神ローマと皇帝の礼拝が盛んに行われた。 しかし、属州民一般の間には東方系の密儀をともなう神秘宗教が浸透した。エジプトのイシス教やミトラ教、そしてキリスト教もそのひとつであった。また帝政期には占星術や魔術も流行し、人々の心をとらえていた。 ミトラ教はイランに起源をもつといわれ、太陽神と同一視された。牛を屠ほふる儀式を特徴とした。 ミトラ教側の系統の太陽神とともに密儀宗教としては例外的にローマの皇帝、軍人に崇拝者をえ、マルクス・アウレリウスやユリアヌスが熱心にミトラのために牛を屠ったと伝えられている。 ミトラ教は唯一神でありキリスト教と競合することが多かったと思われるが、キリスト教の勝利ののち弾圧された。コンスタンティヌス1世は別系統の太陽神を早くから信じ、彼はその太陽神とキリスト教の神を一致させていったのではないかと考えられる。(詳説世界史研究)

概要

ミトラ教は牡牛を屠ほふるミトラス神を信仰する密儀宗教である。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。 信者組織は7つの位階を持つ(大烏、花嫁、兵士、獅子、ペルシア人、太陽の使者、父)。また、入信には試練をともなう入信式があった。 ミトラ教はプルタルコスの「ポンペイウス伝」によって紀元前60年ごろにキリキアの海賊の宗教として存在したことが知られているが、ローマ帝国で確認されるミトラ教遺跡はイランでは全く確認されていないため、2世紀頃までの発展史はほとんど明らかではない。いずれにせよ、ミトラ教は2世紀頃にローマ帝国内に現在知られているのとほぼ同じ姿で現れると、キリスト教の伸長にともなって衰退するまでの約300年間、その宗教形態をほとんど変化させることなく帝国の広範囲で信仰された。 キュモン(近代になってフランツ・キュモンが初めてミトラ教に関する総合的な研究を行い、ミトラ教の小アジア起源説を唱えたが、現在ではキュモンの学説は支持されていない。)以降、ミトラ教はインド・イランに起源するミトラス神や、7位階の1つペルシア人をはじめとするイラン的特徴や、初期に下級兵士を中心に信仰されたという軍事的性格から、ミトラ教は古代イランのミスラ信仰に起源を持つと考えられてきた。 しかし両者の間には宗教形態の点で大きな相違点があり、古代イランにおけるミスラはイランを守護する民族の神であり、公的、国家的な神だったが、ローマ帝国におけるミトラ教は下級層を中心とした神秘的、秘儀的な密儀宗教の神であり、公的であるどころか信者以外には信仰の全容が全く秘密にされた宗教であったし、民族的性格を脱した世界的な救済宗教としての素質を備えていた。こうした宗教としての根本的なちがいは研究者にとって悩みの種であり、現在ではキュモンのようにイランのミスラ信仰から直接的に発展したと捉えることは困難とされている。しかしミトラ教のイラン起源を全く否定することもできず、ミトラ教の黎明期に教祖ないし宗教改革者が存在したことを想定する研究者もいる。イランの民族神ミスラとは違い、ゾロアスター教で信仰されるミスラは世界の監視、死後の裁判の役割を担うルシファーのような存在であった。 他方、『イエス伝』の著者エルネスト・ルナンの有名な1節によって、ミトラ教がキリスト教の有力なライバルであり、ローマ帝国の国教の地位を争ったほどの大宗教だったとする過度な評価は現在も根強い。さらにキリスト教との類似からキリスト教の諸特徴がミトラ教に由来するという説が論じられることも多い。他宗教との比較という点では、日本では以前から大乗仏教の弥勒信仰がインド・イランのミスラ信仰に由来することが論じられてきたが、宗教形態の違いから、むしろ近年ではミトラス教と比較されることがある。

発展と衰退

ネルウァ=アントニヌス朝最後の皇帝コンモドゥス(在位180~192年)はローマ皇帝で初めてミトラス教に儀式に参加した皇帝とされ、コンモドゥス帝はオスティアの皇帝領の一部を寄進した。この時代、ミトラ教の考古学資料は増大し、中には属州でコンモドゥス帝のためにミトラスに奉納した旨を伝える碑文も発見されている。

セウェルス朝初代皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193~211年)の宮廷にはミトラス教に信者がいた。

250年ごろから284年ごろまでの間はミトラス教遺跡は激減する。これはダキアにゲルマン民族が侵入して帝国の北方地域が荒廃したためである。

軍人皇帝時代のルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(在位270~275年)は、ローマ帝国内の諸宗教を太陽神ソル・インヴィクトスのもとに統一しようとしたが、これはミトラス神ではない。太陽神殿跡からはミトラス教の碑文が発見されているが、それはコンモドゥス帝時代のものである。

『3世紀の危機』と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾したテトラルキア時代のディオクレティアヌス帝(在位284~305年)は他の共同統治者とともにローマ帝国の庇護者である不敗太陽神ミトラスに祭壇を築いた。テトラルキア時代のディオクレティアヌスやガレリウスはキリスト教を迫害した

コンスタンティヌス朝の大帝コンスタンティヌス1世(在位306~337年)はキリスト教を公認し(313年)、325年のニカイア公会議を主導、死に際してはキリスト教の洗礼を受けた。この時代以降、ミトラス神殿がキリスト教徒によって襲撃されるようになり、実際にオスティアの神殿の1つやローマのサンタ・プリスカ教会の地下から発見された大神殿などには破壊の跡がみられる。各地で碑文も減少した。

コンスタンティヌス朝の背教者フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(在位361~363)(コンスタンティヌス1世の甥)の治世下でキリスト教の特権を廃して古代の神々の復権をはかる宗教改革でミトラ教は一時増加するが、わずかな期間にすぎず、5世紀頃には消滅した。