論語読みの論語知らず【第74回】 「内に自らを訟むる者を見ざるなり」
1980年代後半の中学生の頃、NHKドキュメンタリー枠で放映されていた「大黄河」を欠かさずにみていた。黄河を中心に中国各地の文化、民族、習俗、歴史を紹介していくものでナレーションは緒形拳、音楽は宗次郎、OPに流れるオカリナの音色とともに上空からのカメラで悠大な黄河をなぞっていく始まりが妙に好きだった。一介の中学生にはとても行くことが叶わないからこそ映像からいろいろと想像がふくらんだものだ。番組をみた次の日には学校で誰かとこの感想を共有したくて話しかけても、誰一人とてそれに応じてくれなかったことを今でもはっきりと覚えている。
昨今では水不足からの断流が起きては渤海まで水が届かないなどの報がきこえるようにもなったが、かつて黄河は時折大洪水を引き起こした。中国の古典「書経」には、この頻発する洪水を巧みに治水した功績を高く評価されて帝の座が譲位されたエピソードがある。「堯舜」(ぎょうしゅん)の世といえば、帝の徳でもって世がつつがなく治まっていた伝説上のモデル時代とされている。この次に帝位を引き継いだのが禹(う)となっているが、この人は帝(舜)の下で臣下として長らく仕えて、先の帝(堯)の時代からも懸案であった治水にあたり色々な工夫でもってそれに成功した。舜は自らが充分に老いたことを自覚したときに禹を呼び寄せて譲位する意思を伝えた。書経には次のようにある。
「近く寄れよ、そなた、禹よ。わしは帝位におること三十三年にもなり、すっかり年老いて政務を執るのがものうくなってしまった。そなたはうむことを知らずに精励している。そなたがわしに代わってもろもろの民を統治せよ」(「書経」大禹謨より)
しかしながら禹は自らの徳がとても足りないので民がついてこないといって辞退するが、時をおいて再び禹に命じた。
「さても、禹よ。さきに、洪水がわしに恐れ警戒させたときに、われわれがまごころを布いて治水の功を成し遂げ得たについては、そなたの功績が最もすぐれている。よく国のために力をつくし、よく家のうちを倹しく整え、自分勝手な満足を求めなかったことでは、そなたが最もすぐれている。・・・だから、わしは二度とはいうまい。わしのいうことを受けいれよ」(同)
後に禹はこれを受け入れて帝位についた。我々が今日読むことができる「書経」はその経緯や内容をめぐって評価がわかれる書物だ。ただ、この治水の問題と政治的に最大級の出来事ともいえる帝の譲位が絡めて記されているのは、古代において水とどう向き合うかが極めて大きな問題であったことを示す象徴的なものだと思うのだ。もっとも中国にとって治水の問題は古代だけではなく現在進行形のものである。ただ、古代のような洪水や氾濫をおこす河川をどうするかといった単純な問題ではなくなっている。それを簡潔に記すならば急速な経済成長を原因とする水不足と水質汚染の問題ともいえる。少し前のデータだが黄河についていえば1980年から2000年の水流量は、1956年から1979年に比較すると18%減少した。そして20年には15億トン、30年には20億トン、さらにそこから減るともいわれていた。これらの大きな原因は黄河上流における開発が進み工業用水の需要が大きく増大したこと、加えて、都市化による生活用水の需要もまたそれにならったことによる。これらが水不足を招く一方で、つかわれた工業用水などが適切に処理されないまま汚水の状態で垂れ流しにされる事例も中国全土で頻発した。
結果として中国の政府機関(国家環境保護総局)が「都市部の河川や湖沼の90%以上が汚染されている」と10年以上前に認めた記録があるのだ。他にも地下水の過剰な摂取による地下水位の低下など今日の中国は「治水」が喫緊の課題なのだ。当然ながら政府も手をこまねいているわけではないだろうし、各種政策や規制、啓蒙といったテコ入れには躍起になっているようだ。なお、最新のデータについてはアクセスできないのでよくわからない。
正確にいつの記事であったか覚えていないが、わりと最近のNYタイムズであったと思う。中国がコロナをある程度封じ込めに成功していること、一方で欧米諸国がそれに苦戦していることを比べて、中国国内には自国の物事の進め方やシステムに自信を深めて、欧米のそれらよりも優位に立ち始めたとの声が増えていると報じていた。これについてとやかく評価するのは時期尚早だろう。ただ、一方で国民の生活に直結する治水を解決しないままではさほど明るい未来も期待できないのではないだろうか。ふと次のような論語の一文を思い出した。
「子曰く、已(や)んぬるかな、吾 未だ能く其の過ちを見て、内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり」(公冶長篇5-27)
【現代語訳】
老先生の嘆き。残念だな。私は、己の過ちを認め、心の中で己を責めることができる者に出会ったことがないのだ(加地伸行訳)
さて、話は再び堯舜と禹に戻るが、帝の地位にあったこれら3者に共通していたのは徳であった。それぞれが持つ徳でもって有能な臣下を求心して引き寄せ、専門分野を任せて国を治めていったのだ。治水を任せられた禹もまたその一人であった。ただ一心に民を思う帝の気持ちから政がなされ、ここから徳治主義という概念が派生してきたのだ。もちろんこれらは伝説の域内のものであるが、同時に長らく中国のあるべき姿として、政治哲学として貴ばれてきたものだ。なお、現在の中国の政治中枢において徳治主義という言葉がどれほどの意味合いを持つのかはよく知らない。
そして、話は冒頭の中学時代にみたNHKドキュメンタリーの「大黄河」に戻るが、いつの日か黄河をゆっくりと旅する日が来るかどうかは分からないが、その頃にはかつてみた映像と大きく変貌を遂げたものに直面するならば残念だなと思っている。変わり果てた姿から歴史や文化に思いを馳せるためには想像力をしっかりと磨いておかねばならないだろう。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。