クリスマスと修羅の記憶
※この話はフィクションです。実在の人物や団体とはみじんも関係ありません。
ないです。
12月の曇天。年末を控え、町の色はいっそう重たくなっていく。つめたい風が吹き、マコの頬をなでていった。
ここは東京のとある都市。駅から数分歩いたところにあるビルでは、広いオフィスに集められた技術者たちが、今日もパソコンに向かって文字を書き付けている。この文字…プログラムがコンピュータを指示通りに動かしていくのだ。
技術者たちは、ザックリ保険会社の営業管理をおこなうためのプログラムを書いていた。プログラムは、特別な文法をもった言語で書かれる。その言語に習熟した技術者たちがいくつもの会社から集められ、ザックリ保険会社の指示のもと、保険の営業をいいかんじに回すためのコンピュータープログラムが「開発」されていく。
…はずだった。
マコがこの開発チームに配属されたのは今年の8月だった。同じ会社の、オクタニ先輩とセットでの派遣だった。オクタニ先輩はできるプログラマで、マコが入社したときからずっと面倒をみてくれている。
オフィスの外にあるコンビニで缶コーヒーを2本買ってきたマコは、オフィスビルに入り、ため息をつきながらエレベータのボタンを押した。
「ほんとうに今年中にリリースできるのかな…」
リリース。それは技術者たちがいつも目指している、仕事のおわりを示す言葉だ。システムはリリースされると、いったん技術者たちの手を離れ、本来の利用者の手に渡る。
しかし、マコが所属するチームの開発は、じつのところ難航していた。
8~9月にかけて設計を行い、必要なタスクを洗い出すはずが、10月の半ばで設計に携わった重要なメンバーがとつぜんチームから外れてしまい、結局11月半ばまでずれこんだ。
「あの時点で、オクタニさんがあのひとにかわって設計をしたから助かったけど、そうでなかったらどうなっていたか…」
しかも、難関はそれだけではなかった。設計が終わっていざ開発がはじまると、チームメンバーの半分以上がプログラムの開発に必要な言語への習熟が十分ではない、という事実が判明した。そうなると、プログラムを書けるメンバーが想定以上に少ないということになるため、当然ながら期日はずれこむ。しかし、ザックリ保険会社のプロジェクトマネージャ(PM)は工期の延長を承諾しなかった。
このシステムを活用したサービスが3月からはじまるから、というのがその理由だった。
もちろん、無い袖は振れない。オクタニ先輩を含む開発チームの主要メンバーはザックリ保険会社と話し合い、1月までに開発する予定だった機能を減らせるよう協議をした。
しかしPMとしては納得がいかない話だった。なぜなら、十分に言語に習熟したメンバーを用意するという条件で、各開発会社と契約していたのだから。メンバーを集められなかったのは君たちの責任だ、どうにかしてくれ、という話になるのも道理だった。
果たして、各会社、とくにザックリ保険会社と直接契約して各会社に声をかけていたA社からは、もっとも言語に習熟したスーパープログラマーが投入されることになった。その人物はたしかに優秀だった。だがもともと20人で戦うはずだったところに1人は、いくらなんでも厳しい。少年漫画の世界ならともかく、ここはリアルの世界なのだ。
結局、想定どおりに開発を行うことができるのは、A社のチームリーダー、スーパープログラマー、オクタニ先輩の三人のみだった。
この件についてはマコも引け目があった。素人ではないとはいえ、想定の言語についてはマコも十分に習熟しているとはいえない状態だったからだ。しかし、ほかのメンバーが全員そうだとは、マコもオクタニ先輩も想定していなかったし、そもそも契約のときにマコのスキルについては先方も承諾済みで、若干お安く雇われているはずだった。
ここで、契約についての少しややこしい話が登場してくる。
この仕事の契約ルートは以下のようになっていた。
ザックリ保険会社→ザックリ保険IT子会社→A社→いろんな会社(マコたちの所属会社ふくむ)
まず顧客である保険会社にはIT専門の子会社があり、そこから開発会社のA社に依頼があり、A社がいろんな開発会社に声をかけて技術者を集めている。
つまり、マコのスキルについての話は、A社は知っていてもザックリ保険会社には伝わっていないかもしれないのだ。どうかすると、十分習熟した技術者と同じぐらいの値段で契約されている可能性すらあった。そうだとしたら、ザックリ保険会社側とすれちがいが生じるのも道理だ。
「こんなんじゃリリース時期がのびるわけないよなあ…今年はクリスマスにうちに帰れないかも…」
エレベータが開き、オフィスのあるフロアの廊下を歩きながら、マコはまたため息をついた。スマホを取り出し、最愛のパートナーであるナツコに若干泣きの入ったメッセージを送ると、すぐに返信があった。
私もクリスマスはずっと仕事ですから、気にしないでくださいね。がんばりましょう💛
パートナーのワーカホリックぶりにちょっと苦笑しつつも和んだマコは、気を取り直してオフィスに入った。
オフィスに入るとむわっとした暖房の空気を感じた。ひろい部屋にいくつも机が並べられ、そこに置かれたパソコンに技術者が背中をまるめて、コンピュータに向けた言語たちと格闘しているのが見える。マコはその一角、メガネにネルシャツの男性のところに向かっていった。
「オクタニ先輩、コーヒー買ってきましたよ」
「ああ、ありがとう、マコさん。ご飯食べてきた?」
「はい。なにか変わったことはありましたか?」
「ああ、うん…」
オクタニ先輩は難しい顔をすると、部屋のすみに目をやった。そこでは角刈りで背広をびしっと着込んだ男性がスマホを片手に立ち尽くしている。やがてそこから怒号が発せられた。
「出社できないってどういうことだ? いまどういう時期かわかっているよな? 逃げようったってそうはいかねえんだよ!」
静かなオフィスに響く、ドスのきいた声。
「…なんですかあれ?」
マコは眉をひそめつつ、隣の席に座りながらオクタニ先輩に尋ねた。
「Bさんが今朝から出社してないんだよ。あれはB社の営業さんだって」
「ああー…」
無理を押したスケジュールの結果、このチームは超過労働気味になり、心を病むメンバーも出てきていた。マコの心には、気の毒にと思う気持ちと、ああはなりたくない、という気持ちと、怒号を発する存在に向けた嫌悪感が入り交じっていた。
「まあ結合テストフェーズに入ってるから、あとはバグを修正できるメンバーが落ちないことを祈るのみかな。マコさん、テストの進捗を教えてくれる?」
開発の終盤は、できたもののテストに費やされる。ここはシステムの品質を保証する大切な工程だが、必ずしも言語への十分な習熟は必要ないため、マコはそちらを担当するようになっていた。
オクタニ先輩にテストの進行状況を説明しながら、マコはこのオフィスという戦場のなかに溶け込んでいった。
クリスマスはかろうじて帰宅できたが、深夜0時を回ってしまっていた。ワーカホリックのパートナーもさすがに就寝しており、つめたい居間で彼女を起こさないようにマコは就寝の準備を済ませた。
定時に上がって、洋菓子店に寄り、ナツコの大好きなアップルパイにクリスマスの飾りを乗せて持ち帰り、家でいっしょに食べたかったのだがそうはいかなかった。マコはなにかに対する怒りを感じていたが、なにに対してのものかははっきりしなかった。
12月は29日まで働き、翌年は4日から働く。仕事は、三段階あるテスト工程のうち二段階までを終え、最終的に利用者が使うのとおなじ状態を想定したテストが行われていた。
ここまでくると、ヒラの技術者ができることはあまりない。マコは多忙のなか漏れていたドキュメントの整理や、テストの手伝いをするぐらいだった。だが、隣のオクタニ先輩はまだ忙しさが収まる様子はない。ときおり席を立って、ミーティングに参加していた。
あるときマコが飲み物を買いに席を立ち、会議室の前を通ると、中から不穏な会話が聞こえてきた。
「この時期に機能追加って、それ正気で言ってるんですか?」
「正気だよ、ぼくもいやなんだけれど、本社のほうからこれじゃ使えないからどうしてもやってくれって言ってきて」
「でも、設計レビューはしたんですよね?本社でも」
「もちろん、でも紙で読んで想像できなかったことが、実際に触るとぼろぼろ出たらしく… 悪いことに、触ったのが本社のお偉いさんでねえ……」
マコは蒼白になって、思わずコップを持ったまま立ち止まってしまった。
この段階になって、新しい機能を追加するだって? 正気なのか?
果たして、チーム内で新たに機能追加を行うことが通達された。しかし1月で契約を終えることになっているメンバーも多くおり、そのあたりの調整をするため、仕事はいったん仕切り直しとなった。マコは好機だと思い、この仕事から抜けたいという希望をオクタニ先輩に伝えてみた。先輩はさびしそうにしつつも、「気持ちはわかるよ」と言って、会社との調整を行ってくれた。
時は流れ、マコの所属会社は自社開発が主体となり、派遣もほとんどなくなった。オクタニ先輩とはいまでもテレワークで動画越しに話をする。先輩も結婚をして、ときおり画面のむこうから生活音が聞こえてきたりするようになった。
自宅で仕事をしながら、窓の外を見ると、クリスマスの飾りつけが明滅しているのが見える。
それを見ながらマコはお茶を入れ、キーボードをたたく。昼のうちに買っておいたアップルパイに思いをはせ、ナツコの喜ぶ顔を想像して、マコはほくそ笑んだ。
「こういう時を過ごせるのは、ほんとうに幸せなことだし… …幸運なことだ」
過去に通り過ぎた修羅の時は、いまでもマコの記憶に残っている。