教皇フランシスコ 主の降誕に関するカテキズム(一般謁見:12月24日)[試訳]
愛する兄弟姉妹たち、こんにちは!
主の降誕祭が間近に迫った、この「カテキズム」の中で
降誕祭を祝う準備として、いくつかのヒントを差し出したいと思います。
夜半ミサの典礼で、羊飼いたちへの天使の知らせが響きます:
「恐れることはない。
わたしは、民全体に及ぶ、大きな喜びに訪れを、あなた方に告げる。
今日、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。
この方こそ、主メシアである。
あなた方は、産着にくるまれて、飼い葉おけに寝ている乳飲み子を
見い出すであろう。これが徴である」(ルカ2・10-12)。
***
羊飼いたちに倣って、わたしたちもまた、
霊的にベツレヘムに向かって出かけましょう。
マリアは、ベツレヘムの馬小屋で「幼子」を産みました、
「宿屋には彼らのために場所がなかった」からです(2・7)。
降誕祭は普遍的な(世界的な)祝日になりました。
信徒でない人も、この出来事の魅力を感じます。
けれど、キリスト者は、主の降誕が、
決定的な出来事であることを知っています。
キリスト者は、それが、
神が世に、永遠の火を付けてくださった出来事であり、
つかの間のものと混同されてはならないことを知っています。
主の降誕が、
単なる感傷的なものや消費主義的なものに
減少されないことが大切です。
先の主日に、わたしはこの問題について注意を呼びかけました。
消費主義が、主の降誕を没収した(取り上げた)ことを強調しながら。
それではいけません。
主の降誕は、
単なる感傷的、消費主義的な祝日に減少されてはなりません。
プレゼントや挨拶で豊かでも、
キリスト教の信仰が乏しい、人間性にも乏しい祝日になってはいけません。
ですから、
わたしたちの信仰を燃え立たせる核心を捉えることができない、
ある種の世俗的メンタリティーを抑制する必要があります。
わたしたちの信仰の核心とは次のことです:
「み言葉は人間となり、
われわれの間に住むようになった。
われわれはこの方の栄光を見た。
父のもとから来た独り子としての栄光である。
独り子は恵みと真理に満ちていた」(ヨハ1・14)。
これが、主の降誕の本質、いやむしろ主の降誕の真実です。
それ以外にはありません。
***
主の降誕はわたしたちに、次のことを思い巡らすよう招いています。
一方で、歴史のドラマ性について
――その中で、罪によって傷ついた人間が、
絶え間なく真理を求め、いつくしみ(憐み)を求め、
あがないを求めています――。
他方で、神の善良さ(やさしさ)について
――神は、
わたたちを救い、
ご自分の友情、ご自分のいのちに参与させる「真理」を
わたしたちに伝達するために、
わたしたちに会いに来られます――。
そしてそれは、恵みの賜物です。
それは、わたしたちのメリット(功徳)なしの、「純粋な」恵みです。
ある教皇が言いました:
「こちらを見て、あちらを見て、さらに向こうを見てみなさい…
メリット(功徳)を探しなさい、
恵み以外の何ものも見いださないでしょう」。
すべては恵みです、恵みの賜物です。
わたしたちは、この恵みの賜物を、
主の降誕の素朴さと人間性(人間らしさ)を通して受け取ります。
そしてそれは、
パンデミックのために今日さらに広がっている悲観主義を
わたしたちの心、思いから取り除くことが出来ます。
わたしたちは、
この不安をもたらす喪失感を乗り越えることが出来ます。
敗北や不成功に打ち負かされるにまかせず、
この、謙虚で貧しい「幼子」、隠れた無防備な「幼子」が、
わたしたちのために人となった、神ご自身であることを再発見する中で。
第二バチカン公会議は、
現代世界における教会についての憲章の有名な箇所の中で
この出来事が、わたしたち一人ひとりに関係していることを教えています。
「神の子は受肉によって、ある意味で自分をすべての人間と一致させた」。
「彼は人間の手で働き、人間の知性をもって考え、
人間の意志に従って行動し、人間の心をもって愛した。
彼は処女(おとめ)マリアから生まれ、真にわれわれの中の一人となり、
罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じようであった」
(『現代世界憲章』22)。
でも、イエスは二千年前に生まれました。
それでもわたしに関係があるのでしょうか
――そうです、あなたに、わたしに、わたしたち一人ひとりに関係があります。
イエスは、わたしたちの一人です。
神は、イエスの中に、わたしたちの一人となりました。
***
この事実は、わたしたちに大きな喜びと、大きな勇気を与えてくれます。
神はわたしたちを、高いところ、遠くから見ていませんでした。
わたしたちのそばを通り過ぎず、
わたしたちのみじめさに身震いしませんでした。
見かけだけの体をまとわず、
わたしたちの本質(natura)、わたしたちの人間としての状態を
完全に身に帯びました。
罪以外、何も外に残しませんでした:
罪は、イエスが持っていない唯一のものです。
全人類がイエスの中にあります。
彼は、わたしたちのありのまますべてを抱いたのです。
これは、キリスト教の信仰を理解する上で本、質的なことです。
聖アウグスチヌスは、回心の歩みを振り返りながら、
『告白』の中で書いています:
「わたしはまだ、
わたしの神、謙遜なイエスを所有するほどの謙遜をもたず、
イエスの弱さの教えを知らなかった」(『告白』7・8)。
イエスの弱さとは何ですか。
イエスの「弱さ」は「教え」です!
なぜならそれは、神の愛をわたしたちに明かすからです。
主の降誕は、受肉した「愛」の祝日です。
イエス・キリストの中に、わたしたちのために生まれた愛の、祝日です。
イエス・キリストは、
人間の存在、歴史全体に意味を与える、
闇の中に輝く、人類の光です。
***
愛する兄弟姉妹のみなさん、
これらの簡単な考察が、
わたしたちがより意識を高めて主の降誕を祝うための助けとなりますように。
けれど、あなた方とわたし自身に思い起こしたい、
誰もが出来る、もう一つの準備の方法があります:
「プレゼピオ(馬小屋)」の前で、ちょっと沈黙して黙想すること。
プレゼピオは、
わたしたちが福音の中で聞いた、
あの年、あの日に起こったことの事実についての「カテキズム」です。
ですからわたしは去年「書簡」を書きました。
それをもう一度手に取ってみるのはよいことでしょう。
『驚嘆すべき徴(Admirabile signum)』というタイトルです。
アシジの聖フランシスコの学び舎で、
わたしたちは子供のようになることが出来ます。
主の降誕の場面を観想しながら、
世に来ることを望んだ神の、「驚嘆すべき」方法への驚きが
わたしたちの中によみがえるにまかせながら。
驚くことの恵みを願いましょう:
この神秘を前に、
このようにやさしく、このように美しく、
わたしたちの心にこのように近い事実を前に。
主がわたしたちに、驚くことの恵みをくださいますように。
わたしたちが主と出会うために、主に近づくために、
すべての人に近づくために。
それはわたしたちの中に、やさしさをよみがえらせるでしょう。
先日、何人かの科学者たちと話しながら、
人工知能、ロボットの知能について話しました。
あらゆることがプログラムされたロボットがあり、
さらに進んでいます。
わたしは彼らにいいました。
「でも、ロボットが決して出来ないだろうことは何ですか」
彼らは考えて、いくつかの提案をしましたが、
最後には一つのことで同意しました:やさしさです。
ロボットが出来ないだろうことは、やさしさです。
そしてやさしさこそが、今日、わたしたちに神を運ぶのです。
神は、そのように驚嘆すべき方法で、この世に来ることを望みました。
そしてそれが、わたしたちの中に、やさしさをよみがえらせます。
神のやさしさに近い、人間的やさしさをよみがえらせます。
今日、わたしたちは、あまりにも多くのみじめさの前で、
やさしさ、人間的やさしさを必要としています。
もしパンデミックが、わたしたちが離れていることを強要するなら、
イエスは、プレゼピオの中で、わたしたちに、
近くに寄り添い、人間的であるための、やさしさの道を示しています。
この道をたどっていきましょう。
善い降誕祭を迎えてください。