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降誕祭2020:教皇による夜半ミサの説教

2020.12.26 00:42

 教皇フランシスコは、2020年度のクリスマスの夜半ミサで神の御子の降誕を観想された。

(バチカン放送日本語版HPより)

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-12/omelia-santa-messa-della-notte-di-natale-2020.html

2020年12月24日(木)、クリスマスの夜半ミサをバチカンで司式された教皇フランシスコは、説教で神の御子の降誕を観想された。

 教皇フランシスコの2020年度の降誕祭の夜半ミサの説教は以下のとおり。

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 今日この夜、イザヤの偉大な預言が実現します。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」 (イザヤ9,5)。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 一人の子どもの誕生は、いつもわたしたちにとって大きな喜びです。それは何か特別な、素晴らしい出来事です。すべてを変え、力づけ、どのような苦労も、困難も、不眠の夜をも乗り越えさせる、何かを持っています。なぜなら、それは言葉では言い表せないほどの、大きな幸せをもたらすからです。すべての苦労は、その前で消え去ります。

 主の降誕は、まさしくこのようなものです。毎年祝われるイエスの誕生は、わたしたちを内部から生まれ変わらせ、あらゆる試練に打ち勝つ力を与えてくれます。そうです、なぜなら、イエスは、わたしたち、わたし、あなた、皆のために、お生まれになったからです。

 この聖なる夜に、何度も同じ言葉が繰り返されます。イザヤは言います、「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。詩編では、「今日わたしたちのために救い主が生まれた」と繰り返しました。聖パウロは、イエスは「わたしたちのためにご自身を捧げられた」 (テトス2,14)と宣言しました。福音書の中でも、天使は「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2,11)と告げました。

 しかし、この「わたしたちのために」とは、何を意味しているのでしょうか。本来祝された方である神の御子が、わたしたちをも恵みによって祝された者とするために来られるのです。そうです、神ご自身が、わたしたちを神の子とするために、人の子としてこの世に来られるのです。なんとすばらしい恵みでしょうか。

 今日、神はわたしたちを驚かせます。わたしたち一人ひとりに「あなたは素晴らしい存在です」と言われるのです。兄弟姉妹たち、元気を出しましょう。何かの間違いだろうと、思うでしょうか。神はあなたに言われます。「いいえ、あなたはわたしの子です」と。無理だ、自分はそれにふさわしくない、と感じるかもしれません。トンネルから抜け出せない思いでいるかもしれません。神はあなたに言われます。「勇気を出しなさい、わたしはあなたと共にいます」。

 神は、それをただ言葉で言われるだけではありません。神ご自身が、あなたのように、あなたのために、人の子となってくださったのです。それは、あなたが毎回生まれ変わるための原点を思い起こさせるためです。その原点とは、あなたは神の子であるということです。これこそ、わたしたちにとって、この上ない希望、支えそのものです。わたしたちがいかに弱く、不完全で、不確かであっても、この真理がいつも基盤にあります。「わたしたちは、神から愛されている神の子らです」。

 神のわたしたちに対する愛は、今も、これからも、決してわたしたちによるものではありません。神の愛は無償です。完全に恵みなのです。今晩、聖パウロはわたしたちに「神の恵みが現れた」と言いました (テトス2,11)。これほど尊いことはありません。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 神なる御父は、わたしたちに何かをくださったのではなく、ご自身の喜びそのものである御独り子をくださったのです。しかし、神に対する人間の忘恩、また、兄弟たちに対する不正を見る時、問わずにはいられません。主はこれほど多くをわたしたちに与えられてよかったのだろうか。これでもわたしたちを信頼してくださるのだろうか。わたしたちを過大評価しているのではないだろうか。

 そうです、神はわたしたちの身の丈以上の信頼を寄せてくださるのです。なぜでしょう。それは、わたしたちを極限まで愛してくださるからです。神はわたしたちを愛さずにはいられないのです。神はわたしたちとはずいぶん違います。神はいつもわたしたちを愛しておられます。わたしたちが自分自身を愛する以上に、神はわたしたちを愛してくださいます。神は、わたしたちを救うため、内部からいやすための唯一の方法は、愛することだと知っているのです。神は、わたしたちがご自身の疲れを知らぬ愛を受けることによってのみ、より良い者になれることを知っておられます。ただイエスの愛だけが、わたしたちの生き方を変え、最も深い傷や、不満、怒り、嘆きをいやすことができるのです。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 暗い馬小屋の貧しい飼い葉桶の中に、まさしく神の御子がおられます。ここでまた問いがわき上がります。豪華な美しい宮殿で偉大な王としてではなく、なぜこのような夜に、ふさわしい宿もなく、貧しさと拒否の中に生まれなければならなかったのでしょうか。それは、神がわたしたちの人間的な状況をどこまで愛しているかを理解させるため、わたしたちの最も悲惨な状態にご自分の具体的な愛で触れるためでした。わたしたちが自分の弱さやみじめさを素直に受け入れることができるよう、神は弱く何もできない赤子の姿でこの世に来られました。ベツレヘムでのように、神は、わたしたちの貧しさを通して、偉大なことを成しとげられます。神は、わたしたちの救いのすべてを、馬小屋の飼い葉桶の中に置かれました。神は、わたしたちの貧しさを恐れませんでした。神の憐みが、わたしたちの惨めさを変えてくださいますように。

 これが、わたしたちのために神の御子が生まれた理由です。ここにもう一つの理由があります。天使は羊飼いたちに言いました。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2,12)。飼い葉桶に横たわる幼子、これはわたしたちのためのしるしでもあります。ベツレヘムは、「パンの家」という意味です。神が飼い葉桶の中に横たわっています。それは、生きるためにパンを食べる必要があるように、わたしたちが神を必要としていることを思い出させるかのようです。わたしたちは、神の無償の、疲れを知らぬ、具体的な愛を必要としています。どれほどわたしたちは、享楽や、成功、虚飾など、心を決して満たさず、むしろ虚しくする物事で、自分を満たそうとしているでしょうか。主は、イザヤ預言者の口を通し、牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っているのに、神の民であるわたしたちは、どうして自分たちのいのちの源である神を知らないのか、と嘆かれました (参照:イザヤ 1,2-3)。

 わたしたちはいかにベツレヘムの飼い葉桶を忘れ去り、虚栄の飼い葉桶に走り寄ることでしょうか。ベツレヘムの飼い葉桶は、貧しくとも、愛に満ちています。それは、まことのいのちの糧は神の愛であり、また他者を愛することである、と教えています。神の御言葉は、幼子となりました。幼子は何も話せませんが、いのちを与えてくれます。わたしたちは多くを話しますが、優しさというものを知りません。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 小さな子どもがいる人は、どれほどの愛と忍耐が必要とされるかをよくわかっています。養い、世話をし、しばしば理解不可能ながらも、その必要を満たしてあげなければなりません。神は、わたしたちに他者を愛することを教えるために、幼子として生まれました。神は、貧しい人々に奉仕することは、神ご自身を愛することである、と教えるために、自ら貧しい者となり、わたしたちと共に住まわれるのです。ある詩人が言ったように、この夜から「神はわたしのすぐそばに住まわれます。その住まいを満たすものは愛です」 (E. Dickinson, Poems, XVII)。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 それはあなた、イエスです。わたしをも神と子としてくださる方、神の御子、イエスです。あなたは、わたしがなりたい自分ではなく、あるがままのわたしを愛してくださいます。飼い葉桶の幼子よ、あなたを抱きしめることで、わたしは自分のいのちをも抱きしめます。いのちのパンであるあなたをいただくことで、わたしも自分のいのちを捧げたく思います。わたしを救ってくださるイエスよ、わたしに仕えることを教えてください。わたしを独りにしないイエスよ、兄弟たちを慰めるすべを教えてください。今夜から、すべての人はわたしの兄弟だからです。