沖縄の奄美差別
*私の伯父の証言の一部分。聞き取りは、芳沢さん
Twitterで見かけた書き込み
箇条書きにすると、やはり こういう事だよね😮
・琉球から侵略
・薩摩から侵略&すげぇ搾取(人口の半分農奴)
・明治になっても鹿児島県から搾取
・鹿児島県からのインフラフォローは最低レベル・奄美本土復帰したら沖縄の奄美出身者公職追放
という超差別された奄美大島ってところがあるんですけどね。
米軍施政化の沖縄本島における奄美人差別は深刻なものであった。
戦前ではなく戦後に起きたことである。
犯罪は奄美出身者が関係していたら沖縄の新聞はまるで奄美出身者を批判した。
奄美人は土地も買えずまともな仕事にもつけなかった。今でも亡くなる前に「自分は奄美人だった」という人がいる
奄美群島の日本本土復帰運動の主体となった党でもあったが、その影響を恐れた琉球政府が沖縄内の奄美出身者を「在沖奄美人」として差別・弾圧を行ってしまう一因となってしまった。らしい
「本書によると、奄美群島の本土復帰時には、〝非琉球人〟になった奄美人に対する公職からの追放、外人登録義務、参政権の剥奪、土地所有権の剥奪、融資の制限など、沖縄人の露骨な差別や非人間的な扱いがあったのに、この事実はほとんど知られていない。」
沖縄県公文書館にあった1954年メーデーの文書には、私の伯父の姿はない。
人民党事件までに、米軍による軍事裁判により島外退去命令を受け、沖縄から去っている。
瀬長亀次郎さんに迷惑をかけられないからと。
ただし、軍事裁判の記録は見つかってなく、何故に軍事裁判にかけられたのか、未だに謎。
沖縄では、奄美人への差別はあったとしてもね…
戦後アメリカは、沖縄県と鹿児島県奄美群島を日本より分割し軍政下に置いた。
このため両者の経済は癒着し、本土との流通を閉ざされ経済が疲弊した奄美群島の住民は、経済活動の中心地となった沖縄本島に職を求め移住するということが多くなった。
しかし、奄美群島は沖縄県より早い1953年には日本に復帰し、それ以後、沖縄県が返還される1972年までの約20年間にわたり、移住していた6万余人に及ぶ奄美群島出身者は、「在沖奄美人」と称されて様々な社会的制約をうけることとなった。
琉球列島米国民政府とが行った政策は以下の通りである。公職追放
琉球政府行政副主席兼立法院議長泉有平、琉球銀行総裁池畑嶺里、琉球開発金融公社総裁宝村信雄、琉球電信電話公社総裁屋田甚助、他ほぼ全ての公務員
これらの政策は奄美群島が共産党勢力に支配されているとみなしていた琉球列島米国民政府の危機感のもと、共産党の影響を排除するために行われた。
これらは日本本土の国会でも問題となったが、沖縄県がアメリカ統治下のため、それ以上の干渉が出来なかった。沖縄返還により、以上の奄美群島出身者に対する制度的差別は撤廃された。
琉球列島米国民政府や琉球政府は以前より、奄美群島は非合法の共産党勢力が支配しているとみなしていた。実際には、奄美共産党が合法的組織奄美社会民主党を立ち上げ奄美群島の本土復帰運動を主導し、住民自体はその復帰目的のために結集していた。琉球列島米国民政府や琉球政府は、奄美群島の復帰を機にその影響を絶とうとし、その中で奄美群島出身沖縄人民党員の逮捕や追放も行われた。
あと
古堅実吉さんは
琉大事件や人民党事件があった年は
沖縄にいなかったよね。
関西大学だっけ?
http://ryubun21.net/index.php?itemid=11830
1955年
3月19日ー米軍の土地強奪に反対する沖縄県関西学生会活動で帰省。
立法院土地委員会を傍聴した。沖縄人民党の宮城倉啓、大城文進の世話で、米軍の警戒が厳しかった伊江島へ4月20日に潜入。
野蛮な土地強奪を調査。
4月13日、那覇の座り込み現場で阿波根昌鴻に会い、伊江島での写真の一部を届け、その日の全島軍用地地主大会に参加。
4月17日まで沖縄各地の調査や資料集めに駆けまわり、写真や資料を大阪に持ち帰った。
沖縄県学生会総会で米軍の伊江島土地接収の写真展示。
その反響で大阪の県出身者、京大新聞、神戸大新聞、東京県学生会などから写真借用の申し込みが相次ぐ。
5月1日、大阪の県人たちと一緒に「沖縄諸島日本復帰期成会」の旗を掲げて大阪市馬場町広場のメーデー大阪大会に参加。
1955年
9月ー吹田市の共産党事務所を訪ね日本共産党に入党。
1956年
3月ー関西大学法学部法律学科卒業。帰郷。