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マリア論オンライン講座

使徒的書簡「パトリス・コルデ」[試訳](11)

2020.12.26 09:28

 時に、神は、わたしたちを助けてくださらないように見えることがあります。それは、神がわたしたちを見捨てたということではなく、わたしたちに信頼しているということ、わたしたちが計画し、発明し、見出すことが出来るものに信頼しているという意味です。


 それは、中風の人をイエスの前に差し出すために、屋根から彼を下ろした友人たちが示したのと同じ、創造的な勇気です(ルカ5・17-26参照)。困難は、これらの友人たちの大胆さと頑固さを止めませんでした。彼らは、イエスが病人を癒すことが出来ると確信し、「人が多くて中に運び入れるすべがなかった[ので]、屋根に上り、瓦をはいで、病人を床ごと、人々の真ん中、イエスの前に吊り下ろし[まし]た。イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と仰せに[なりました]」(19-20節)。イエスは、病気の友人をご自分のところに連れてこようとした、彼らの創造的な信仰を認めました。


 福音書は、マリア、ヨセフ、幼子イエスがエジプトにいた期間についての情報は与えていません。しかし確かに、彼らは食べる必要があり、家と仕事を見つける必要があったでしょう。この点については、福音の沈黙を埋めるのに、それほどの想像力は必要ありません。聖家族は、他のすべての家族のように、特に、災難と飢えを強いられ、今日もまた命を危険にさらしている、多くの移住者の兄弟たちのように、具体的な問題に直面しなければなりませんでした。この意味で、聖ヨセフは、戦争、憎しみ、迫害、貧窮のために自分の土地を離れなければならないすべての人のための、特別な守護者であるとわたしは考えます。