清田藍卿(きよたらんけい)
江戸中期、当地「寺家町」には志方の玉田黙翁とともに加古川を代表する稀代の教育者がいた。その師は仁と礼を尊ぶ偉人でもあった。
初めて善照寺さんの山門をくぐったのは、4月下旬。桜花の盛りも過ぎ、すでに葉桜に向かう陽光まばゆい一日であった。庭の手入れをされていた北村前ご住職と、しばし立ち話のあと、清田藍卿のことをご教示戴いたあと、墓所と顕彰碑をご案内いただき、当時、加古川を代表する儒学者であり、かつ教育者でもあった、師のお話を興味深く拝聴した。藍卿末裔の方は、現在も寺家町、本町、木村にいらっしゃるとのこと。是非一度お会いしたいと思いつつ、山門を後にした。
近世になって、播州では特に儒学(礼と仁義を重んじる教え)が盛んになった。それは、近代儒学の創始者といわれる藤原惺窩が永禄四年(1561)に三木で生まれたことから始まる。惺窩は徳川家康に招かれるなど、声望は高かったが、終生にわたり、地元で門弟を教え続けた。加古川では、伊藤竜州(1703~1755)が、寺家町の清田家から出ている。
竜州が生まれた清田家は、赤松円心の後裔で、三木城城主、別所氏の親戚でもあった。彼は、福井藩儒となり、学を極めた。著書は『四書通弁』のほか、数多い。その竜州に師事したのが、『清田藍卿』である。竜州は藍卿の叔父にあたる。
竜州と同じ、清田家で出生。(宝永三年・1706生)であり、訥斎・鹿児散人とも称した。(名は、綏。字は君履、通称は、孫蔵という。)幼くして父を亡くし、伊藤姓である母に養育せられ、成長して京都に遊び、叔父である伊藤竜州に学んだ。勉学十数年して郷里加古川・寺家町に帰り、生徒に教え、数多の門弟を擁した。著書あり。しかるに、是を刊行することはなかった。
学徳この上なく、遠近より従遊し、その恩沢を蒙った。諸侯、その声望を聞き、厚遇により招聘したが、全てこれを断り、愈々その名声は高まった。明和三年(1767)還暦祝いを開いた時、赤穂の赤松滄州、京都の江邨北海、志方の玉田黙翁等、知名の人士が壽詞を贈った。
北海は藍卿の従弟、当時、詩壇の泰斗(その道の大家)といわれた。そのころ、明石に梁田蛻巌がおり、世人は、並び称して、『播磨三田』と称した。
藍卿は、寛政五年九月五日(1793)八十八歳で没し、善照寺に葬った。門人「武田昌斎」による碑文にその略歴を記した。蛻巌は、八十六歳、宝暦七年(1758)藍卿に先立ち没した。
黙翁も、八十九歳で天明五年(1786)五月三日に没。世上、今なお『播磨三翁』と称し敬慕している。墓は、昭和43年に後裔が作り直した。 (藍卿墓誌・清田文書)