本町・唐人、薬師堂
因縁ニテ此処迄上リシャ委細ヲ知ル者ナシ
まことに、そのオランダ人いかなる因縁で
この地まで到来したか、委細知る者はなし。
七百五十年…悠久の歴史を刻んだ『唐人(とうじん)薬師堂』も今は昔。(平成18年6月解体)しかるに地域住民に慕われ続けた“お薬師さん”への熱き信仰心は、いま『本町地蔵尊』に形を変え、脈々と次世代に引き継がれている…。
薬師堂は、加古川町文岸寺川西岸に在って、俗に「唐人薬師」という。元唐人が開基したと言い伝えている。もと近隣住民が堂守をしていた。播磨鑑にいう。
薬師堂在加古川村東の橋爪西側里俗呼て唐人薬師堂と云。開基俗人孫右衛門是は元唐人にて改號したる也。
人皇八十九代亀山院文永年中(鎌倉時代・1264~1275)一人の阿蘭陀人姓名不知加古川へ来往す。妻は長崎出生の由醫道の達人にて鍼灸薬等を諸人に施し、人の病を治する事神の如し。
即ち一尺余りの土佛薬王尊を自作す。病気を祈願するに其の善悪を告げ、願い成就せずという事なし。
寔に如何成因縁にて此所迄上りしか委細を知る者なし。糟谷文書にいう。薬師堂壹間半四方御年貢地文岸寺佐太郎持。(加古川市誌(昭和27年6月発行)P311より引用)
堂内には、三尊が安置され、その上には、天女が羽衣をなびかせ、宙を舞う姿が極彩色で描かれており、美麗かつ荘厳な雰囲気を醸し出している。
ある住民のお話によると、香炉が備え付けられた年、すなわち昭和九年か、昭和初期にお堂が再建されたのではないか、との事であるが定かでなく、知る者はいない。
欄間の作者は「長谷川義秀」。播磨一円に名を馳せた松本一門の二代目「義弘」の弟子で、同一門は、明治初期より昭和33年まで建立された播州地方の社寺彫刻の大半を手掛けた名門である。
本堂前の香炉南側に 八大龍王石碑が見える。 ただ、このお堂との因果関係はいまだに解明されていない。謎に包まれた不思議な石碑である。
薬師堂について複数の住民の方にお聴きしたお話の内容は、概ね以下の通りであった。「あくまでも伝聞ですが、かって龍泉寺が炎上した際に、行先に困った尼さんが当地のさる方の援助によりお堂に住んでいた、という話も漏れ伝わっております。」
この件について編者は早速、龍泉寺のご住職に問い合わせたところ、「寺の古文書には、そのような記述はありませんが、面白いお話ですねぇ…言い伝えとして次代に残されてはいかがでしょうか。」とのこと。
また、 別の住民によれば、「境内の『地蔵堂』に安置されたお地蔵さんは、確かに”舟形光背”地蔵でしたが、言い伝えによれば、その昔、文岸寺川の岸辺に流れ着いたお地蔵様を地元の人が拾い上げ、『もったいない、もったいない』と、村人が境内に安置したのが始まり、と聞いています…。」
さらに長老格の方にお聴きした話によると、70年位前までは、このお堂に、女性の堂守さんがおられた、とのお話も伺うことが出来た。これらは全て次代に伝承すべき、夢のあるお話であろうと編者も考えるところである。
薬師堂解体後日談
薬師堂解体後、往時の片鱗を遺さんがため、時を置かず隣接する理髪店横に地蔵尊を移設した。しかるに平成23年1月、なんと白昼堂々と、不届き者による地蔵盗難事件があった。
方々手を尽くしたが見つからず、止む無く新たにお地蔵様を購入、同年6月に開眼法要を営み、今現在に至っている。
最近では手を合わせて頭を垂れ、お参りする御仁も増え、当町のシンボル的存在になっている。(写真は、H23-6-5付け神戸新聞による)