門松の起原についての流布説の出鱈目
https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/26cf9580ad0d1f5de24c848d73b1090e?fm=entry_awp【門松の起原についての流布説の出鱈目】 より
門松の起原について、一般に説かれていることがとんでもない出鱈目であることについて、既に小論を公開していましたが、さらに新資料を加えましたので、古い物を破棄して新たに改訂版として公表します。ウィキペディアやネット情報、また一般の年中行事解説書が根拠のない出鱈目であることをご理解いただけるものと思います。
門松とは、正月に家の門戸などに立てられる松や竹を用いた正月飾のことです。この門松の起原について伝統的年中行事の解説書やネット情報を読んでみると、まずほとんどが信頼できないものばかりです。まずウィキペディアには、「古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依代(よりしろ)という意味合いがある。・・・・神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は『祀(まつ)る』につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていった。」と記されています。
依代とは神霊が出現するときの媒体となるもののことで、早い話が門松は年神を迎えるための目印であったというわけです。しかし神聖な樹木と見なされたものは、古典的文献を探せば松の他にも杉・槻(つき)(欅のこと)・椎(しい)・柏(かしわ)・楢(なら)・榊(さかき)など、いくらでもあります。松が「祀る」を掛けているので正月飾りに選ばれたとされていますが、そのことを示す文献史料を見たことがありません。また梢に神が宿るという理解が広く行われていたことを示す文献史料もありません。門松というものが出現する平安時代に、松が年神の依代となっていたという文献史料など何一つ見たことがありません。近現代の民間伝承として古老がそのように語ったということはあるでしょうが、門松は平安時代には出現しているのですから、起原という以上は平安時代の史料的根拠でなければ、検証のしようがないではありませんか。
門松の年神依代説は、民俗学者が提唱し始めたことです。和歌森太郎という高名な学者は、その著書『花と日本人』の中で、次のように述べています。「門松は、いわゆる年(歳)神とか歳徳神の祭りを、年棚、歳徳棚を前にして行うために、門口や棚の上に、その神霊を依りまさしめる代(しろ)として据え立てたものである」。この書物は雑誌『草月』に連載された文章をまとめて単行本としたものであるため、生花に関係ある多くの人が読みました。そのためその影響は大きく、門松の年神依代説は一気に流布するようになりました。このような門松理解を、伝統的年中行事解説書の著者達は大学者の説としてありがたく頂戴し、それを参考にするネット情報の筆者達は、そのままコピーしているのです。
なぜ松が選ばれたのかを検証するためには、古代の文献史料により、松がどのように理解されていたかを調べなければなりません。松を詠んだ歌を片端から読んでみると、松が長寿のシンボルであるという理解が共通しています。それは早くも『万葉集』に見られます。「たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ」(『万葉集』1043)。これは『万葉集』の編者である大伴家持が安積皇子の長寿を祈った歌で、「命の長さはわからないものであるが、松の枝を結ぶ私の心は、あなたが長生きして欲しいということである」、という意味です。
平安時代になっても、松が長寿のシンボルであるという理解は引き続いて共有されていました。『古今和歌集』以来の勅撰和歌集には賀歌の巻が立てられていますが、そこに詠まれる松の歌はほとんど長寿に関わるものです。当時、「松は千年を契る」と称して、松の樹齢は千年であるとされていました。唱歌『荒城の月』の歌詞に「千代の松ヶ枝」とあるが、『万葉集』にもに「千代松」という表現があり(『万葉集』990)、松が長寿のシンボルであることは、古来一貫して変わっていません。
史料「千代の松」
①「茂岡(しげおか)に 神さび立ちて 栄えたる 千代松の樹(き)の 歳の知らなく」(『万葉集』990)
②「藤波は 君が千年の 松にこそ 懸けて久しく 見るべかりけれ」(『金葉和歌集』326)
平安時代には、正月と松が結び付く「子(ね)の日」「子の日の遊び」「小松引き」と呼ばれる遊楽が行われていました。新年早々の初子(はつね)(その年最初の子(ね)の日)の日に野に出て若菜を摘み、まだ小さい若松を根ごと引き抜き持ち帰って植え、長寿を祈念するのです。平安時代の朝廷の年中行事や儀式を記述した『年中行事秘抄』という書物には、「正月の子の日に丘に登って四方を見渡せば、陰陽の静気を得て憂悩を除くことができる」、と記されています。
平安時代には、初子の日に長寿を祈念する小松引が行われていたことを示す歌がたくさん詠まれ、『土佐日記』や、『源氏物語』の「初音」「若菜」の巻にも記されています。このような風習が門松の起原となるのです。西行の『山家集』には、門松として「小松」を立てることを詠んだ歌がありますが、現在でも関西門地方の門松は「根引の松」と称して、根が付いたままの小松が飾られていて、まさに子の日の小松そのものなのです。
史料「初子の遊び」
①「正月子日、岳に登りて遙に四方を望むは、陰陽の静気を得て、耳目に触るる憂悩を除くの術なり。」(『年中 行事秘抄』節日由緒)
②「野辺に出(い)でて 子の日の小松 引き見れば 二葉に千世(ちよ)の 数ぞこもれる」(堀河院百首歌 子日 27)
門松の存在が確認できるのは、惟宗孝言(これむねのたかとき)(1015年~?)という漢詩に優れた官吏の、「長斎之間以詩代書是江方子」(国会図書館デジタルコレクション『本朝無題詩』157コマ目で閲覧できます)という詩です。その中に「門を鎖(とざ)して賢木(さかき)を貞松に換(か)ふ」という詩句があり、自身が「迎(近?)来世俗皆松を以て門戸に挿す。而して余、賢木を以て之に換ふ。故に云ふ」という注釈を付けています。つまり「最近は門松を門戸に挿す風習があるが、私は松に換えて榊を挿している」、というのです。ここでは11世紀中頃には門松を立てる風習が広まり始めたことを確認しておきましょう。
また平安時代の12世紀初頭の『堀河院百首歌』に「門松」を詠んだ歌があります。また平安時代末期の流行歌の歌詞を集めた『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』には、門松が長寿を祈念するものであることがはっきりと歌われています。私は数年かけて古歌を主題別に自分で分類整理した膨大な資料を手許に持っていますが、松が神霊降臨の依代となっている歌を一首たりとも探し出すことはできません。少なくとも古代の松の和歌には、年神の依代という発想や、「松」と「祀る」を掛ける発想は片鱗もないのです。見落としがあるかもしれませんが、仮にいくつかあったとしても、広く共有されていなかったということは揺らぐことはないでしょう。
史料「門松を詠んだ歌」
①「門松を 営み立つる そのほどに 春明け方に 夜やなりぬらん」(堀河院百首歌 1109 除夜)
②「新年、春来れば 門に松こそ 立てりけれ、松は祝ひの ものなれば、君が命ぞ 長からん」(『梁塵秘抄』巻一 春12番歌 )
門松を立てる風習は、中世以後にはさらに広まります。鎌倉時代末期の『徒然草』には、元日の都大路の家ごとに門松が立てられているのは、明るく賑やかで趣があると記されています。室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』には、「門松は十二月二十六日に立てるが、近年は大晦日に立てる」、と記されています。
史料「中世以後の門松」
①「門ごとに 立つる小松に 飾られて 宿てふ宿に 春は来にけり」(『山家集』春5)
②「(元日は)大路のさま、松立てわたして、はなやかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ」(『徒然草』第19段)
③「十二月二十六日、今日御立松つくり申候也、・・・・近年は晦日に作申也」(『年中恒例記』)
「門松」とは言うものの、現在の門松は見かけ上は竹が主役になっているものもあります。門松に竹が加えられた時期は、はっきりとはわかりません。ただ上杉氏に伝えられた桃山時代の「洛中洛外図屏風」の左隻中央やや下部に、軒先に届くほどの門松が並んでいる場面が画かれていますが、竹は見当たりませんから、江戸時代になってからでしょう。ただし竹が松と並んで長寿のシンボルと理解されるのは、「色変へぬ 松と竹との 末の世を いづれ久しと 君のみぞ見む」(『拾遺和歌集』275)という歌があるように、平安時代以来のことではあります。
門松が長寿を祈念する呪物であるという理解は、江戸時代にも継承されています。子供のための節供解説書である天保年間の『五節供稚童講釈』初編には、「正月門松立つる事は、松は千歳、竹は万代を契るものゆゑに、門に立てて千代よろづを祝ふなり」、と記されています。少なくとも江戸時代までは、門松が年神の依代であるという理解は見当たりません。
江戸時代になると、絵画的史料がたくさん残されています。『諸国図会(ずえ)年中行事大成』には、「門の左右に松と竹を一本ずつ立て、さらに上に竹を横たえて、様々な縁起物の飾りを取り付ける。また家の中のあちらこちらにも松や注連縄の輪飾を懸ける」、と記されています。天保年間から幕末にかけて執筆された『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、現代でもよく見かける三本の太い竹を斜めに削(そ)いで、周囲に松の枝を添えたタイプの物も描かれています。また同書や『長崎歳時記』には、「立派な門松を飾るのはそれなりの家だけであって、一般には松を左右に一本ずつ、戸口の柱に釘で打ち付け、簡単な注連縄を張るだけである」、と記されています。しかし現在でも門松は地域によってその形態は異なっていますから、当時も地域による相違があったことでしょう。
史料「江戸時代の門松」
①「門松飾藁、今日より十五日まで、門前左右に各松一株竹一本を立、上に竹二本を横たへ、飾藁(わら)を付、是(これ)に昆布、炭、橙、蜜柑(みかん)、柑子(こうじ)(小蜜柑の一種)、柚(ゆず)、橘(たちばな)、穂俵(ほだわら)(海草のホンダワラ)、海老、串柿、楪(ゆずりは)、穂長(裏白)を付る。・・・・また根引松を門に立、間口に応じ注連縄を張り、其(その)余裏口、井戸、竈(かまど)、神棚、湯殿、厠(かわや)に至迄(まで)松を立、輪飾とて注連を輪にして懸る也。」(『諸国図会(ずえ)年中行事大成』)
②「商家の内富(とめ)るものは、まま門松立て並べたるもあれども、多くは質素を守り、打付松とて枝松を戸口の左右に打付け、竹を立てそへ、注連飾りをす。」(『長崎歳時記』)
今日の立派な門松には、三本の太い竹を節の少し上で横に切った寸胴型と、斜めに切ったそぎ型の二つのタイプがあります。この由来について、ネット情報では徳川家康と武田信玄が関わっていると説かれていて、一応根拠となる出典があります。それは『江戸府内絵本風俗往来(えどふないえほんふうぞくおうらい)』という書物で、江戸時代末期の風俗を、菊池貴一郎という好事家が明治時代になってから書き、明治三十八年に出版したものです。その冒頭には、以下のようなことが記されている。それは徳川家康と武田信玄が戦って家康が敗れた、三方ヶ原の戦の翌年正月のことである。武田方から「松かれて 竹たぐゐ(たぐひ)なき あした哉」という句が送られてきた。これは「松平(徳川の旧姓)の松が枯れて、武田が比類のない程に繁る元旦であることよ」、という意味です。要するに松平氏(徳川氏)は滅び、武田氏がいよいよ繁栄することを意味しています。この句は連歌の発句ですから、これに続く附け句を詠んでみよということなのでしょう。これに対して家康に近侍する酒井左衛門尉が、「これは間違いで、『松かれで 武田首なき 旦(あした)かな』と読むべきものであると答えました。昔は歌には濁点を付けずに書き表し、読む時に必要に応じて濁点を補いつつ読むものであったので、そのように読むことも可能です。その前の年、三方ヶ原の戦で敗れた家康が浜松城に逃げ帰ったのですが、城内には篝火(かがりび)が焚かれ、城門も開け放たれたままだったので、家康を追撃して来た武田勢は、きっと謀略があるだろうと警戒して引き揚げたため、家康はかろうじて窮地を脱しました。その直後に例の元旦の歌が送られてきたので、「竹は葉なしにて、竿に同じ穂先を切り、松をそへる。松の根廻りへ四本の杭を打並て、太縄にて松の根をつなぎ固めたり」という形が、「松、武田の首を打し俤(おもかげ)なり」として、「御吉例と相な」ったということです。
ところがネット情報には、怒った家康が門松の竹を「武田の首」に見立てて削ぎ落とし、そぎ型の門松が誕生したと説かれています。しかしどのように丁寧に読んでも、その様なことは書かれていません。天保年間の『武家年中行事』(三田村鳶魚著『江戸年中行事』所収)には同じ話が載せられていて、それによればそぎ型であることがわかります。ただしこれにも家康が怒って削ぎ落としたとは記されていません。ネット情報には一般に根拠のないものが多いのですが、史実かどうかはともかくとして、この逸話には立派に出典があるわけです。『江戸府内絵本風俗往来』は入手の難しい本ですが、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。三田村鳶魚著『江戸年中行事』は中公新書に収められています。
以上のような逸話が伝えられていたのは事実ですが、おそらく史実ではないでしょう。江戸時代には家康は「神君」として神格化された存在であり、話もあまりにも出来すぎであり、とうてい信用できるものではありません。むしろ江戸時代の末期の『守貞謾稿』にそぎ型の図を掲げ、「図のごとく、太きそぎ竹に小松を添ふるもあり。・・・・医師などこの制多し」と注釈されていることの方が余程に信用できます。
門松や注連飾を飾る時期については、室町時代の『年中恒例記』では大晦日、『江戸府内絵本風俗往来』(中編巻七)には28日、『東都歳時記』には28日か29日、天明年間の上野国高崎付近の風俗を叙述した『閭里(りより)歳時記』(『民間風俗年中行事』所収)には29日から大晦日にかけて、『武家年中行事』では、江戸城の門松は29日、江戸時代後期の文化年間の風俗調査である『諸国風俗問状答(しよこくふうぞくといじようこたえ)』の和歌山からの報告によれば30日に飾り付けると記されています。『東京年中行事』では、「二十日にもなれば、もう気の早い家にては門松を立て飾る」と記されています。
ネット情報には29日は「二重苦」に通じるとか、大晦日に飾るのは「一夜松」と称して、飾ってはいけない日とするものが多いのですが、この手の脅迫めいた情報には何の根拠もなく、歴史的なものでもありませんから、全く気にする必用はありません。概してこのような脅迫的年中行事情報は、江戸時代には極めて少ないものです。ネット情報の鬱陶しさは、「あなたは御存知ないでしょうから、教えて差し上げますよ」と言わんばかりに、年中行事にやたらに自前の禁忌を持ち込み、それにそわないことに対して縁起が悪いとか言って、不安を煽ることです。もし29日に門松を立てようものなら、ひそひそと「常識がない」と陰口を言うことでしょう。しかしもしそう言われたら、その根拠を尋ねてみましょう。必ずや「昔からそのように言われている」ということ以上は言えないことでしょう。
取り払う時期は、『諸国図会年中行事大成』では正月15日まで立てる、『東都歳時記』では14日、『守貞謾稿』には、「江戸も昔は、十六日に門松注連縄等を除き納む。寛文二年(1662年)より、七日にこれを除くべきの府命(幕命)あり。今に至りて七日これを除く。これ火災しばしばなる故なり。京坂は今も十六日にこれを除く。」と記され、『東京風俗志』では6日、『東京年中行事』では14日とされています。要するにいつ飾ろうと、いつ取り除こうと自由なのです。む
それにしても門松の年神依代起原説を説く人は、一体何を根拠に書いているのでしょうか。書く内容に責任の問われない無記名のお気軽なネット情報がその程度であることはやむを得ませんが、名前を明らかにしている場合や、伝統的年中行事の解説書の著者達は、そうはいきません。歴史的文献史料も確認もせず、年中行事事典の類を適当に摘まみ食いしているだけなのです。門松は平安時代に出現しているのですから、平安時代の文献史料に、そのように理解できる史料がなくてはなりません。反論を期待しているので、敢えて過激な言葉を選んでいますが、出せるものなら出してほしいものです。私が是に示した史料を否定し、なおかつ年神依代起原説を証明する文献史料を示せるのですか。挑発するようですが、根拠もなく出鱈目な解説を広めることに、私は学問的な義憤を感じています。反論にはいつでも受けて立つ用意があります。