「ベル・エポックのパリ」2 普仏戦争の敗北(2)パリ・コミューンから共和政の確立まで
ドイツとの講和が結ばれたにもかかわらず、パリでは抗戦を求める動きが続いていた。苦しい包囲戦を耐え抜いてきたパリ市民にとって、政府による休戦は許しがたい裏切りとして映り、またドイツ軍がパリ市内を行進したことは、彼らの愛国心をいやがうえにも刺戟した。これに対し、当時行政長官の任にあったティエールは3月18日、パリの武装解除を始めるが、民衆の抵抗にあって失敗し、急遽政府をパリからヴェルサイユに移転させた。国家権力の空白が生じたパリではコミューン議会(パリ市議会)の選挙が行われ、3月28日、市庁舎前広場において「パリ・コミューン」の成立が宣言される。
このパリ・コミューンについては、従来、史上初の労働者政権として評価されることも多かった。ただしパリ・コミューンに参加した労働者とは一般的に考えられるような工場労働者というよりも小親方や職人的な労働者が中心であり、また労働者以外にも小ブルジョワや知識人も少なからず参加していた。こうしたことから、この事件は当時のパリを取り巻く様々な特殊状況による、フランスの中で孤立した民衆反乱であったとも言われる。しかしいずれにせよ、ヴェルサイユ政府はこうした首都の反乱をも認めず、マクマオン元帥を総司令官とする13万人の政府軍を再編し、5月21日からの「血の週間」において徹底的に鎮圧した。特に凄惨をきわめたのは5月27日、ペール・ラシェーズ墓地での雨中の白兵戦。このとき降伏したコミューン派の即時銃殺に使われた壁は「連盟兵の壁」と呼ばれ、コミューンの記憶をとどめる場所となっている。パリ・コミューン側に3万人以上の死者(投獄された者4万3500人)を出したこの鎮圧は、その後のフランスの社会主義運動や労働運動の沈滞を招いたが、成立間もない共和政はこれによって秩序維持の面での人々の信頼を得ることにもなった。
パリ・コミューン以後の社会運動は、議会選挙を通じた政党組織化の方向をたどるものと、労働組合の組織化によるゼネスト革命から生産者連合国家を展望するもの、いわゆるサンディカリズムとに分化していく。前者の共和主義的社会主義は第一次世界大戦前後にフランス社会党に引き継がれ、今日の社会民主主義政党の源流となっている。後者の流れには元コミューン派もくみし、コミューンの理念をより直接的に継承するものであるが、第一次世界大戦後はしだいに前者の流れに吸収されていく。ただし、この直接民主主義的伝統は、今日でも頻繁に発生するストライキと大規模で激しい街頭デモの週間として根をおろしていると見ることもできる。パリ・コミューンに頂点をみる19世紀フランス民衆運動でつちかわれた集合心性は、地下水脈となって今日まで引き継がれ、極めてフランス的な政治文化のひとつをかたちづくっている。
ところで、ティエールはパリ・コミューンを制圧した後、8月に共和国大統領に就任。政治体制の問題をひとまず保留して国家の再建に努め、普仏戦争の賠償金の支払いなどを行った。しかしティエールが保守的共和制への路線を明確にするようになると、王党派は翌年5月に彼を失脚させ、パリ・コミューン鎮圧を指揮したマクマオン元帥を後任にすえ、いわゆる「道徳秩序」内閣(政変の仕掛人ブロイ公が首相。カトリック色濃厚)を組織して王政復古の準備を進めた。
しかし、正統王朝派とオルレアン派の確執は根が深く、王政復古には至らなかった。また1874年になるとボナパルト派が復活して補欠選挙で議席を獲得するようになった。こうしたなか、議会ではオルレアン派と共和派との提携が模索され、翌年1月に「ヴァロン修正案」がわずか1票差で可決され、共和政の存在が法的に明記された。この修正案を含む同年の3つの法律が、第三共和政の「憲法的法律」と呼ばれているものである。1876年の下院選挙では共和派が勝利をおさめ、共和派の内閣が成立したが、王党派のマクマオン大統領は翌年5月に首相を辞任させ(「5月16日の危機」)、さらに下院を解散した。しかし10月の選挙では共和派が再び勝利し、1879年には上院でも共和派が過半数を占めると、マクマオンは辞任。共和派のグレヴィ大統領とヴァダントン内閣が誕生し、ようやく議会が大統領に優越する第三共和政の統治システムが定着するようになった。
コミューンによってパリ市内に築かれたバリケード 1871
倒れたヴァンドーム広場の円柱のナポレオン象
マクシミリアン・リュス「1871年5月のパリのある通り」オルセー美術館
1871年5月23日から25日のパリ
ペール・ラシェーズ墓地での最後の戦い
「1871年5月28日、ペール・ラシェーズ墓地の『連盟兵の壁』でのコミューン派の処刑」
殺害されたコミューンの人びと 1871年
追悼碑 (ペール・ラシェーズ墓地)
「血の週間」後のリヴォリ通り