【家族写真】(仕事場D・A・N通信vol.13)
一枚の集合写真がある。家族なのだろう。
世の中に溢れる記念撮影だ。
しかしこの写真が特異的なのは、笑顔で写っている老若男女すべてが、おそらくこの後ごく僅かな間に皆、居なくなったことだ。彼らは再び、こんな風に集うことはできなかった。
展示されていたのは、ベルリンの「ホロコースト・メモリアル」
これを見ながら、今の自分の暮らしを思っていた。
こんな集合写真を撮った者たちは多くの場合、やがて再会の日を迎える。それはおそらく、写真の中の高齢者の告別式だ。家族史の繰り返しの中に次世代の誕生があり、上世代の死が予定されている。長寿社会化したといっても、この摂理に大きな変化はない。
だから、この家族の特異性が際立ってしまう。そんな写真が何枚も展示されていた。
理由はユダヤ人だから。そして1930年代にヨーロッパにいたからだ。
二度と集うことがないことを、この笑顔は知らない。
自分たちの未来に、どんな悲劇が待ち受けているかを予見することは出来ない。
ただ穏やかに、幸せな記念撮影気分に浸っている。
「はいはい、みんな集まって!」
「叔父さん、もう少し真ん中に寄って!端っこの人が入らないよ!」
きっとそんなことを言っていただろう。
写真を見ながら同行者にそんなことを語ろうとした時、思いがけないことが起きた。
言葉にするより早く、体の奥底から感情がわき上がってきて、言葉を制して涙が噴き出しそうになった。突然のことに驚いて、抑えようと語るのを止めた。そしてしばらく立ち尽くしたまま、波がひいていくのを待った。
理解した状況より、写真から届いてしまったものに圧倒されていた。
頭の中では私自身の家族が重なっていた。私と妻が三人の子を育て、いろいろあったがそれぞれ独立して、皆、結婚して孫は4人。全員集合すると12人になった。
この写真の背景にも、そんな物語が溢れていたはずだ。
それを蹴散らし、踏みにじるような非道なことをしてしまったのもまた人間、家族を持った者達なのだ。肝に銘じておかなければならない。「私はそんなことはしない!」と語るのは、脳天気な自信である。状況が変われば人は何でもしてしまう。だから、自分たちはそういうものであると噛みしめた上で行動を選択しなければならない。
そのためには、自分たちの歴史、事実を知ることだ。
無知で浅薄な現実主義者に、希望ある未来が届くことはない。
ろくに学ばず、いい気なことばかり語っている間に、こんなはずではなかったと語る日が近づく。
自分の人生を踏みにじられない権利を行使できる程度には誰もが賢くならなければならない。
誰かが何とかしてくれるなどと思っている内に、誰にも何ともならない地獄が待ち受けるようになる。それは歴史をひもとけば繰り返されてきたことだ。
コロナ禍を見れば分かるだろう。世の中なんてあっという間に変わってしまうのだ。
そして今度は、繰り返すことも出来ない最終末かもしれない。