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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 64 (01/01/21) 旧兼城 (6) Shiohira Hamlet 潮平集落

2021.01.01 17:40

潮平集落 (しおひら、スンジャ)

昨年は12月28日に座波を訪れてから、連日雨続きで、自転車で集落訪問ができなかった。日本全土が寒波が覆われているようで、沖縄も例外ではなく、雪こそ降らないが、風が強く、体感温度はっ本土の冬なみといった感じだ。前回の冬も沖縄で過ごしたのだが、これほど寒くはなかった。12月は真夏日があったと思うと、翌日は気温が急激に下がり寒くなる。雨も多く、例年とは違う12月の様だ。今日元旦は朝から晴れて気持ちの良い気候になった。やっと集落巡りが再開できる。今日は潮平集落を巡ることにする。


潮平集落 (しおひら、スンジャ)

字潮平は北は字波根、東は字座波、南は字兼城に接し、西はかつて東シナ海であった場所を埋め立てた西崎町に接している。1976年沖縄本土復帰時の地図と現在の地図を比較すると随分と変わってきている。埋め立て地が増えてきている。那覇以外の内陸部はまだまだ人が住んでいないところが多いのだが、なぜ埋め立てをする必要があるのかと疑問を持つ。

潮平は沖縄方言ではスンジャと呼ばれ、球陽 外巻三 遺老説には、北山の今帰仁按司の未裔がここで製塩を行ったことに由来すると記されている。1416年に尚巴志により滅ぼされた今帰仁グスクを居城とした第三代北山王按の攀安知 (はねじ、ハンアンチ) の次男 志慶真 (しけま) 王子と長女 真亜佳度金 (まかとがに) は叔父の湧川大主に助けられ、南山の配下である兼城按司を頼ってこの潮平之海岸に上陸し、製塩業をはじめ潮平集落を起こしたという。潮平集落の有力門中はこの志慶真王子と真亜佳度金の末裔と伝わっている。この製塩業を起こしたことから、この地は塩平と呼ばれ、後に潮平となった。

昔は、潮平は藺草を栽培し県内有数の筵の生産地でだったが、現在はサトウキビが主要産業となっている。しかしながら、農家のほとんどが兼業農家で耕地面積、農業人口とも年々減少傾向にある。1971年に比べて2000年の農業による収穫量は20分の一に減少し、サトウキビは以前として収穫量ではトップだが、40分の一にまで落ち込んでいる。昔からの集落の外側にはアパートや店舗が立ち並び一帯は商業地となっている。他の地域も同様なのだが、沖縄の本土復帰前の産業構造と全く変わってしまい、ほとんどがサラリーマン家庭となっている。

潮平集落は潮平グスクのある丘陵の斜面につくられている。とにかく急な坂が多く、今まで訪問した集落の中で一番急な斜面にある。自動車でも登れないような急坂がいくつもあり、そこは車が入れないようにしている。こちらは自転車なので、押し歩きならどこでも行けるので便利だ。

集落内には何件か沖縄伝統の瓦ぶきの平屋の民家があった。

1976年以降に人口が急速に増加し始めているのだが、これは1974年にこの潮平が市街化区域に指定され宅地化が進められたことによる。近年もコンスタントに人口増加が続いている。

明治時代から沖縄本土復帰の1976年までの人口の増加は他の字に比べて少ないのだが、前述した市街化区域に指定されてからは人口はは増え続き現在では旧兼城村の中では最も人口の多い字となっている。


今帰仁腹の墓

先にも触れたが潮平の村立ちは第三代北山王按の攀安知 (はねじ、ハンアンチ) の次男 志慶真 (しけま) 王子と長女 真亜佳度金 (まかとがに) がこの地に隠れ住んだところから始まっているといわれている。真亜佳度金の直系と言われている国元 (クニムトゥ) の大殿内 (ウフドゥンチ) 門中は、志慶真王子の直系といわれる按司元 (アジムトゥ) の百次 (ムンナン) 門中、湧川 (ワキャー) 大主直系の嶽元 (タキムトゥ) の名嘉 (ナーカ) 門中は今帰仁系統の門中ということで、他に宇久佐 (ウクサ) 門中、百次小 (ムンナングヮー) 門中も含めて今帰仁腹と呼ばれている。この墓はその今帰仁腹の5つの門中の共同墓に当たる。潮平集落には今帰仁腹以外に樋川腹の門中グループがあり茂屋小 (ムヤーグヮー) 門中と玉江 (タマイ) 門中が属している。潮平集落が創設された当初はこの今帰仁腹と樋川腹、そして起源が不明の上山城 (ウィーヤマグスク) 門中の8つの門中で構成されていた。時代を経て、この8つの門中から多くの分家 (腹) が出て現在では約120もの門中で構成されている。

東原 (アガリバル) のシキナムイ (志慶真 シケマ がシキナ二変化した) にある今帰仁腹の墓は王子墓 (ウージバカ) とも呼ばれ、三連の平葺墓になっている。真ん中がトーシー (当世墓) で洗骨が済み甕壺に納められた遺骨を安置する場所、右と左はシルハラシ-と呼ばれ、遺体を洗骨まで安置する場所。墓の右側には今帰仁腹王子墓の碑が立っている。

この場所には幼児や旅先で亡くなった人を一時的に葬る仮墓もある。

墓に向かって右側の岩陰にヒザイーと呼ばれる古墓があり、今帰仁腹の土地全体の守り神が祀られていると書かれていたのだが、あいにく写真は載っておらず、どれがそれにあたるのかははっきりとはわからない。これだろうか?

今帰仁腹の墓に見向かって右手にもう一つ墓がある。名前は書かれていないので今帰仁腹の墓の一部なのか、別の門中の墓なのかは分からなかった。墓の周りには更に古墓がいくつも見られた。


天田世 (アマダユー)

更にヒザイーの近くにはアマダユー (天田世) と呼ばれている古墓がある今帰仁から追われ、この地に向かう船中で亡くなった人たちが葬られている。

墓の西の駐車場に三つの香炉が置かれた遙拝所がある。北方向の香炉は今婦仁へ、南は字兼城の奥間グスクへ、そして西はアマダンメー (天田前) へのウトウーシ (お通し) となっている。駐車場の奥には湧川 (ワキヤー) 門中と嶽元 (タキムトゥ) の名嘉 (ナーカ) 門中の神屋があった。今帰仁腹の中心的な門中だ。駐車場はかなり広く、清明祭には今帰仁腹に連なる各門中が大挙して訪れるのだろう。


上按司墓 (ウィーアジシー)、下按司墓 (シチャアジシー)

今帰仁腹は共同墓の他に、按司墓 (アジシー) も所有していた。塩平集落の東側に百次 (ムンナン) 門中の按司墓である上按司墓 (ウィーアジシー 写真上) と下按司墓 (シチャアジシー 写真下) がある。


根屋 (ニーヤ)、新屋 (ミーヤ)

香炉が七個置かれている。戦前は茅葺きの家であったが、1979年 (昭和54年) にコンクリート造りに建て替えられた。根屋 (ニーヤ) はノロの家だったともいわれており、潮平のために尽力した寄留民のヒガーンメーと呼ばれた人もここに祀られている。


発動機屋 (ハツドーキヤー) 跡

根屋 (ニーヤ) の前に多目的広場があり、老人会のゲートボールに使われている。ここはかつてはサーターヤーで発動機が導入されていた。この場所は急な坂道の中腹にある。サトウキビ畑は下にあっただろうから、ここまで収穫したサトウキビを運んでくるのは大変な労力だっただろう。


玉江 (タマイ) 門中神屋

樋川腹の門中グループの玉江 (タマイ) 門中の神屋がある。最近建てられたのか、今まで見た神屋の中では一番小ぎれいで近代的だ。


イビガナシー

神道の終点に拝所がある。イビガナシーで、ムラの繁栄や門中の無病意災を析願していた。特に子どもが生まれた時は命名の報告をする慣わしがある。現在の祠は2005年に建てられたもの。西側に龍宮へのウトゥーシ (遙拝所 写真右下) もある。


マチューグヮ

イビガナシーの前にマチューグヮと呼ばれる広場があり、ここでは村の祭りの綱引きが旧暦6月25日と7月14日に行われている。イビガナシーに登る階段のところは4段の雛壇になっている。この雛壇に座って綱引きを見物していたのだろう。


大殿内 (ウフドゥンチ)

イビガナシーの向かい側が国元であった大殿内の屋敷があった場所。神屋としては立派な物だ。内部には幾つもの香炉が置かれている。


上之井 (ウィーンカー)

イビガナシの側にウィーンカー (上の井泉) がある。カネガー、カーグヮーとも呼ばれていた。かつては清水が流れ、周辺の人々の生活用水に使われたが、現在は水量も少なく、ほとんど使用されていない。


神道

根屋 (ニーヤ) から高台へ通じる道は神道となっていた。神道は特別な道で御願巡りの時に使われる道。この道を上っていくと西門森 (イリジョームイ) に通じている。反対側を行くとメーヌトウン(前ヌ殿) に通じる。

もう一つ神道がある。これはかなり短いのだが、大殿内からウィーンカーの北側の道。


西門森 (イリジョームイ)

集落の北にイリジョームイ (西門森) という岩山がある。その東に西門門中の屋敵があったことからそう呼ばれている。

階段を登った入り口に上山城門中と宇久佐 (ウクサ) 門中のイリクー (入り込み) と呼ばれている墓があり、岩の下には玉江門中の古墓がある。イリクーに向かって右側上段の祠には香炉が三つ置かれ、それぞれが国元の大殿内 (ウフドゥンチ)、按司元の百次 (ムンナン)、嶽元の名嘉 (ナーカ) とされている。岩の北側には名加 (ナーカ) ・湧川 (ワキヤー) 門中のアジシーと言われている古墓がある。


西門森井 (イリジョームイガ-)

西門森 (イリジョームイ) の岩の北側に西門森井 (イリジョームイガ-) があり、上山城 (ウィーヤマグスク) 門中のカムイ (管理場) だといわれている。現在は井泉の跡の穴が残っている。


玉井元屋敷

西門森 (イリジョームイ) の東側に大正の中頃まであった玉井門中の玉井元屋敷跡がある。そこに三個の石を重ねた祠があるそうだが、草木で覆われて探し出せなかった。ムラと玉江 (タマーイ) 門中が拝んでいる。


アカマギシ

集落の後方、イビガナシーから更に北に行くと、字阿波根 (アハゴン) との境界に岩山があり、そこにはアカマギシと呼ばれるいくつかの古墓がある。

古墓は北の岩陰にあって、野面積みの石で閉じられている。向かって左から、百次 (ムンナン) 門中、大殿内 (ウフドゥンチ) 門中、宇久佐 (ウクサ) 門中、上山城 (ウィーヤマグスク) 門中、茂屋小 (ムヤーグヮー) 門中の墓と伝わっている。ウナザラメーヌ墓とばれている墓もあり、百次 (ムンナン) 門中が管理している。


ウクマグスク

集落東側の簡易水道のタンクの側にウクマグスクと評ばれているムイ (上が盛り上がって高くなっている所) があり、そこの岩の南側に字久佐 (ウクサ) 門中の按司墓、北側にアカマギシから移した名加(ナーカ)・湧川 (ワキヤー) 門中の按司墓がある。



潮平公民館 (上のサーターヤー跡)

現在の公民館は元々は上の (ウィーヌ) サーターヤーだった場所。潮平にはサーターヤーが三ヶ所あった。(西の砂糖小屋と北の砂糖小屋) この公民館は琉球弁務官資金により建てられ、1966年に隣にあった旧村屋の場所から移ってきた。

 

公民館の前にはチキイシ (力石) が並んでいる。娯楽にない戦前、青年たちが村の広場で酒を飲み交わしながらチキイシ (力石) の持ち上げ勝負をしていた。 110kg、55㎏、40kgの三つの石が置かれている。1938年 (昭和13年) に潮平井泉 (スンジャガー) 上の広場に建てられていた国旗掲揚台がここに移設されている。


旧村屋 (ムラヤー)

公民館の前の広場が旧村屋 (ムラヤー) 跡だ。ここにも酸素ボンベの鐘が保存されている。


西のサーターヤー跡 集落の西の端にある


北のサーターヤー跡 アカマギシの前、玉井元屋敷の隣の場にあったサーターヤー跡


潮平井泉 (スンジャガー)

潮平井泉 (スンジャガー) は潮平大井泉 (スンジャウフガー)、潮平産井泉 (スンジャンブガー) とも呼ばれ、古くは世持井泉 (ユムチガー)、湾川 (ワチャー) とも呼ばれた。1961年 (昭和36年) に各家に簡易水道が設置されるまで、上之井泉 (ウィーンカー) とともに、ムラ全体の生活用水として使われていた。水の湧き出る所が二か所あり、向かって左 (東) はカミガーといわれ、正月の若水はそこから汲まれていた。水溜部分は大きな石灰岩の切石で布積みされコンクリート造りの屋根が付いている。前部には石敷きの洗い場がある。かっては、現在の駐車場あたりに溜池があり、洗い場の水が道の下の暗渠を通って溜池に流れるようになっていた。この潮平井泉 (スンジャガー) は国登録有形文化財となっている。今でもつかわれているのか、何本もパイプが設置されており、そこから勢いよく水が流れ出ていた。


潮平井泉 (スンジャガー) 上の広場の拝所、仲下玉江 (ナカシチャタマイ) 屋敷の拝所

潮平井泉 (スンジャガー) がある場所の上は広場になっており、カーヌウィーと呼ばれている。井泉之上と書くのだろう。この広場の西側に小さな祠がある。資料ではカーオーと呼ばれ、潮平井泉 (スンジャガー) を拝む拝所で、初水ナリー (撫で) やウマチーの祭祀の際に拝まれていると書かれていたが、実際に行くと祠は仲下玉江 (ナカシチャタマイ) 屋敷の拝所と書かれている。


前之殿 (メーヌトウン)

集落の西側、潮平井泉 (スンジャガー) の西の高台はウカンジャモーという広場になっている。沖の岡波 (ウカハ) 島が良く見えたのでウカンジャモー (岡波を見る丘) の名が付いたといわれている。ここに前之殿 (メーヌトウン) がある。ここは上山城 (ウィーヤマグスク) 門中のカムイ (管理場) で、殿小 (トウングヮー) とも呼ばれている。香炉が三個あり、左を字久佐 (ウクサ) 門中、中央を上山城 (ウィーヤマグスク) 門中、右を大殿内 (ウフドゥンチ) 門中が管理している。


ムイグワー (森小?)

ウカンジャモーの南側に小さな広場がある。ムイグワーと呼ばれ、戦前は、昼間は子ども達の遊び場、夜は若い男女の出会いの場だったモーアシビ (毛遊び) が行われていたそうだ。

この場所は高台にあり糸満市が見渡せる。


下之井泉 (シムヌカー) [未訪問]

前之殿 (メーヌトウン) からかなりの急坂を下った所にシムヌカー (下之井泉) があるのだが、草木の覆われて、見つけられなかった。

この井戸跡はシチャヌカーとも呼ばれ、この井泉を中心に今婦仁の未裔が塩作りをしたといわれている。現在は井戸のあった場所に香炉が置かれて形式保存がされているそうだが、それらしきものは見つからず。更にこの近くにはアマダンメー (天田前) にウトゥーシする香炉も置かれているとあるが、それも分からず。


天田前 (アマダンメー) [2月24日 訪問]

更に西に進み、かつての海岸線であったところに字兼城の浜川原と接する国道331号沿いに、天田前 (アマダンメー) の拝所があると書かれていたが、それらしきものが見つからない。この拝所でかつては海の幸を祈願していたそうだ。天田前 (アマダンメー) とは大雨が降った際に一帯が水浸しとなりさながら田の様になった事からそう呼ばれていたという。

国道331号から海岸方面に少しはいたところに水路がある。ここがかつての海岸線なのか?それとも国道331号が海岸線だったのだろうか?

この後、糸満にある集落を訪問するたびにこの辺りを通るので、見つからなかった天田前 (アマダンメー) を注意しながら走っていたのだがわからなかった。たまたま2月24日に名城集落からの帰路に石の祠が目に付いた。やっと見つけることができた。


潮平グスク

潮平集落の東側の上原 (ウィーバル) 丘陵に高さ1m程の城壁が巡らされた潮平グスクがあったのだが、砕石で破壊されて地形が変えられたため完全に消滅してしまっている。正確な位置がわからなくなっているそうだ。城 (グスク) があったであろう場所も立ち入りはできないので、遠くから山を眺めるだけになった。伝承では、北山滅亡のおりに今帰仁按司の人々が南山国のこの地に落ち延びてきてグスクを築き始めたが、南山もまた滅亡したので、その築城を中止し完成しなかったと伝わっている。当時、この潮平は南山国の支配下で、南山王 他魯毎の側室が北山の出で、南山と北山は同盟関係にあった。そのことにより、北山之按司が南山を頼って落ち延びてきていた。


潮平権現

阿波根との境の上原 (ウィーバル) の畑の中に鳥居が立っている。ここには沖縄戦で住民が避難していた壕の跡がある。ガマ内部は約150mにも及んでいたそうだ。

ここも石灰岩の崩落が進んでいるので内部に入る事は出来なかった。残されている壕の殆どはこの崩落の危険性が高くなっており、埋めるか、入坑禁止となっている。ここでも日本兵が住民の追い出しを行ったそうだ。このガマに避難してから3か月も過ぎ、沖縄戦終結の10日前6月14日 (旧暦5月5日) に、米軍の降伏勧告に応じ、潮平集落ではこのガマに避難した住民の一人の犠牲者も出さず560名もの多くの人の命が救われた。これは驚くことだ。多くのガマで自決が相次いでいた。日本兵が投降を禁じていたことで、多くの犠牲者が出たのが大半だったのに、このガマでは全員が無事だった。投稿を反対する日本兵がいなかったのだろうか? 投降の判断ができたリーダーが存在したのだろうか? 

戦後、1948年 (昭和48年) 以降、旧暦5月5日にこの場所で供え物をして無事を感謝していた。1953年には潮平権現の碑と鳥居を建て、旧暦5月5日には権現祭を行うようになった。壕の入り口は二つあり、それぞれが沖縄瓦で屋根が造られている。生き延びた住民のこの壕に対しての感謝の気持ちが伝わってくる。ちなみに潮平集落の沖縄戦での犠牲者は県内所在者588人の内143名だった。


長谷寺

潮平権現の近くに長谷寺という仏教寺院がある。沖縄では神社や寺は少ないので、どんなお寺なのか興味があり訪れた。本土でイメージするお寺とはかなり異なっている。寺と言われなければ、金持ちの邸宅かと思うような建物。入り口にはシーサーが守っている。本土の神社では狛犬、寺では仁王像だが、沖縄ではやはりシーサーだ。境内には西国三十三所巡りがあったのだが、どことなく沖縄風で御嶽や殿で見かける祠がある。これは沖縄の人の宗教観から来るのでは無いだろうか。形にあまりとらわれない。立派な寺らしい造りの建物でなくても良いのだ。自分達の中にある古来の宗教の中に神道や仏教、更に道教や風水などを取り込んでしまう。宗教の世界の異端とか排他的な感覚がまるで無い。これは沖縄の大きな特徴の一つだ。

ここから臨める那覇市内と東シナ海

沖縄は東京より冬でも日が長い5時半ぐらいまでは明るく、それから薄暗くなってくる。潮平集落の文化財を見終わったのが4時半だがまだ明るい。12月に東京を巡ったが、東京では4時半ではもう薄暗くなっていた。同じ日本でも随分と違っている。今日は3時ごろまでは半そででもよかったのだが、急に寒くなってきて、見終わった時には小雨が降り出し随分と気温が低くなってきている。雨が強くなる前に帰途に着くことにする。



参考文献