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美しいものと醜いもの

2020.12.30 13:59



年の瀬というには心はずいぶん穏やかで、一年で唯一好きだったこの時期の慌ただしさを今は懐かしく思う。


ただ、今日の風はここ数日のなかで一番激しく冷たかった。雪も途切れ途切れに降った。昼過ぎにお墓参りをしてきたが、唯一外気に触れていた目元に、刺すような痛みを感じた。



今年に限り、一年を振り返るのが億劫に思う。

世界にとっても私にとっても、悲観的なことは少なくなかった。良い年だったと言いたくない。"失った"人たちがあまりにも多かったのだから。


私自身にとって今年一年とは、時間が静止したように、力がスルスルと抜けて、前へ進めなくなることが多い年だった。かといってその立ち止まるという行為を一言「無」と言い切るのは惜しまれる。喜びや幸福や学びとの出会いも確実にあった。いくつもあった。そうした輝きを、頭の中でひとつひとつ思い返している。



とりとめのない文章に終わってしまいそうだ。






とりあえず。今年を大雑把に振り返るとするとしたら、自分の内で感じとる「美しい」と「醜い」という(私の)概念、その境がまるでパレットの上で溶け合う絵の具のように、混ざり合い、曖昧なものに移り変わる年だった。

ここでは、それがどんな場面で起こったかをあげるのは(頭の中の整理が追いつかず)省略するが、物事における「美」の置き方が、いっそう難しいと感じるようになった。

これは、芸術に触れることへの純粋な愉しみから、専攻として「美」に対する知識と感性を身につけ自分の言葉で表現することを求められた、大学生のときの感覚によく似ている。

学べば学ぶほど、「美」と「醜」の捉え方は複雑で繊細で、難解なものになっていった。




先日、本屋の新刊コーナーで森博嗣先生の本を手に取った。


『ツベルクリンムーチョ The cream of the notes 9』は彼の視点から今年の世界を語った100編のエッセイだ。軽快なリズムに乗せて紡がれる文章は実に読みやすかった。社会から冷静に距離を置き、多くの気付きを与えてくれるこの本の帯には「森博嗣は、ソーシャル・ディスタンスの達人だ」。笑いが漏れてしまう。



芸術について語った箇所があった。


意味というのは、多くの場合、複数の人たちで共有するためにある。だから、言葉になって伝達される。意味のないものでも個人的な価値を持つものは多くて、可愛いのも美しいのも、結局は個人的な評価である。今はなくても価値があるのは、このためだ。
芸術も、意味で評価するものではない、と僕は考えている。見て美しいと感じられれば、芸術として価値がある。

森博嗣『ツベルクリンムーチョ The cream of the notes 9』講談社文庫p.105





つい先日、3日続けてゴッドファーザー3部作を観る機会があった。今年はパートIIIの公開からちょうど30年経ったということで、再編集版『最終章:マイケル・コルレオーネの最期』が期間限定で配信されていたからである。

愛してやまない作品だし、これからも愛し続けるだろう。改めていいなと思ったのは、登場する人物(とくにファミリー)には総じて内面的弱さがあって、それがとても自然なことに描かれているところだ。

マフィアの世界では、それは自分や仲間の命を落とし大切なものを失いかねない弱さである。相手の弱さを否定し、詰(なじ)り、自分の存在を正当化しようとする甘えも。血に塗れた世界から脱し、真っ当に生きようともがいた先の、明るい場所でみた絶望も。間違った優しさも、必要な冷酷さも存在している世界。洗礼式やオペラの厳かさの裏で殺戮が起こる世界。

どうやったって暗い映画だけれど、暗闇すら多くを語っている傑作だ。







幼い頃大切な人に、「ひとの痛みが分かるのは本当に強いことだよ」と言われたことがある。

私が何年も病気がちで、弱くて苦しい自分を惨めに思っていた時期だ。

痛みと醜さとを直に結びつけることは違うと思うが、あの言葉はある種の哲学、問いとして、今も胸の内に仕舞われている。もうずいぶんと、埃を多く被ってしまっている。


世界が広くなる、とまでは言わない。ただ「美」と同じくらい「醜」を知ることは、今いる自分の部屋が少し広く感じるくらいには、視野を広げてくれるのではないか。ごく微細な価値観の変化だったが、変わることは確かな喜びだ。







追記


ドラマ「リーガルハイ」の2期で、堺雅人さん演じる弁護士の古美門先生が、人差し指をピンとたてて一言


「醜さを愛せ」


って言うんです。あの法廷での5分間は凄まじいものを感じました。


嵐のように激しくて面白いコメディードラマでしたけれど、言葉にすることを皆が避けるような"現実"を古美門先生は吐くんです。それは、勝利が絶対で、お金と名誉を愛する先生の、歪んで醜い哲学なんですが、それは穢れのない美しい言葉の連なりよりも重みを持つことがあります。


そういえば"美辞麗句"という四字熟語は、皮肉的な意味合いのある、耳心地の悪い言葉であることを思い出しました。

だからといって、古美門先生の哲学に敢えて「堕ちる」必要はないのですが。



結局、何が言いたいのか分からなくなりました。



「美しさ」と「醜さ」について、私にとってほんとうに難しくて、終わりの見えない問いになってきました。