お城の櫓の種類や役割
城を守り雲と遊ぶや冬木立 五島高資
— 場所: 宇都宮城 富士見櫓
https://japan-castle.website/oshiro-lesson/castle-basic-yagura/ 【お城初心者向け!【お城の櫓の種類や役割】をたった一記事で解説!】 より
櫓と言っても歴史は古く弥生時代まで遡り、江戸時代になると1つのお城に70棟以上の櫓が建てられるようになりました。
70棟もの櫓があっても、それぞれに役割や名前がありました。
この記事では写真などを使いながら「櫓」について解説していきます。
櫓の始まりは弥生時代から
「櫓」の起源は「弓矢などの武器庫」や「防御のための矢の座(くら)、弓矢をいる場所」だと言われています。また「矢倉」「矢蔵」とも書かれていました。
櫓は古代から使われているお城の基本パーツの一つ。
弥生時代の環濠集落「吉野ヶ里遺跡」では櫓が建てられていた跡が発掘されて、復元されています。
弥生時代のあとも、飛鳥・平安・室町・戦国・江戸時代と形を変えながら櫓は使われ続けました。櫓は城門や堀とともに防御を担う重要な建物で、天守はなくても櫓がないお城はありません。
櫓の役割は2つで「物見・攻撃」と「倉庫」です。
櫓は背の高い建物なので周囲をよく見わたせることから周囲の警戒・物見として最適。
また近づいてきた敵に対して有利な高所から攻撃をあたえることができました。
戦国・江戸時代のお城になると櫓は、物見・攻撃しやすい場所として曲輪の隅っこに建てられています。
2つ目の櫓の役割として、合戦がない時は「倉庫」として利用されていました。
江戸時代の櫓は保管している武器・物資から櫓の名前がつけられています。(鉄砲櫓、干飯櫓など)
櫓の形と種類4つ【櫓の形】は天守と同じ
櫓の形「望楼型」「層塔型」望楼型:伏見櫓(福山城)など層塔型:西北隅櫓(名古屋城)など 重:屋根の数 階:櫓内部の階数
櫓にも天守と同じで「望楼型(ぼうろうがた)」「層塔型(そうとうがた)」という2つの形があります。
また櫓の大きさを表す時も天守と同じで「重」と「階」を使います。
例えば熊本城の宇土櫓は屋根は3つで内部は5階あるので「3重5階の櫓」というように。
天守と櫓の基本的な構造は同じです。
最高格式の櫓【三重櫓】富士見櫓ー江戸城
三重櫓は櫓の中でも最高の格式を持っています。なので天守を持たないお城では、三重櫓を天守代用としてしていました。
弘前城や丸亀城の現存している天守も天守代用の三重櫓ともいえます。
天守代用で建てられた三重櫓を除くと、多くは建てられておらず、大きなお城に限られました。
なかでも熊本城には3重5階の櫓を5棟あり、現存している宇土櫓は地上5階地下1階の大きさがあり「第3の天守」とも呼ばれています。
江戸時代の標準【二重櫓】
二重櫓は江戸時代の標準的な櫓で、多くのお城で建てられています。
二重櫓だけを建てていて、三重櫓や平櫓を持たないお城もありました。
櫓の役割の「物見・攻撃」の観点から平櫓では高さが足りないので、二重櫓が理想的。
二重櫓は構造上の制約が少なく、平面が台形や菱形、L字に折れ曲がった櫓もあります。
平屋建ての【平櫓】
平櫓は屋根が1つの最も簡単な櫓。
「物見・攻撃」としての効果は期待されていなかったので「倉庫」として利用されることが多かった。本丸や二の丸に建てられることは少なく、三の丸や天守に付属する付櫓として設けられていました。
鉄壁の防御になった【多門櫓】
多門櫓(たもんやぐら)は石垣などの城壁の上に長く続く櫓で、「多聞櫓」と書かれることもあります。多門とは長屋のことです。
多門櫓の名前の由来には、戦国武将・松永久秀の多聞城で初めて建てられたとか、毘沙門天(多聞天)を祀っていたという説などがあります。
多門櫓は本丸の周囲や重要な城門の付近に建てられていました。 曲輪の隅には天守や櫓が建てられていたので、多門櫓がそれらをつなげています。
(櫓と櫓をつなげている多門櫓を、「渡櫓(わたりやぐら)」「続櫓(つづきやぐら)」と呼ぶこともあります)
土塀より構造的に頑丈で、天気に関係なく火縄銃が使用可能になったことから、多門櫓は絶対に破ることができない鉄壁の防御になりました。
天守と櫓の違いは「窓」
天守と櫓の大きな違いの一つは「窓」です。
天守には四方に窓が開けられていて、櫓の城内側に窓はありませんでした。
なぜ天守と櫓の窓でこのような違いがあるのか?
理由は本丸御殿を見下ろせないようにしたため。
江戸時代、家臣が藩主(大名)の御殿を見下ろすことが禁じられていました。
そのため御殿を見下ろせないようにするため、櫓の城内側に窓を設けなかったのです。
天守から御殿を見下ろすことがあるのでは?と疑問に思うかもしれませんが、その心配はありません。
なぜなら天守は通常締め切られていて年に数回の点検・掃除の時にしか入ることがなかったからです。
お城に建てられる櫓の数には地域差がありました。
西日本のお城が東日本のお城より圧倒的に多くの櫓を建てています。
西日本のお城の中でも特に多いのが、大阪城、姫路城、岡山城、福山城、広島城、熊本城の6つ。
棟数では広島城が最多で、二重櫓:35棟、平櫓:45棟、多門櫓:約415mありました。
東日本のお城では江戸幕府の江戸城を別にすると、伊達政宗の仙台城でも三重櫓:4棟、二重櫓:2棟、平櫓1棟、多門櫓約142mでした。
なぜこれほど櫓の数に地域差があるのかというと、江戸幕府との関係が理由にあります。
江戸幕府のお膝元でもある関東地方では、お城の防御を頑張る必要はなく、櫓を多く建てなくても良かったのです。
むしろたくさん櫓を建てると幕府から疑われてしまいかねません。
西日本は幕府との関係が深くない外様大名が多く、その外様大名同士でもいがみ合っていました。そのためお城に多くの櫓を建てることで防御を強化し、合戦に備える必要があったためです。
櫓の名前の付け方5種類
番号やイロハでつけられた名前の櫓
西日本では多くの櫓を建てていたので、櫓それぞれに凝った名前をつけていくと分かりにくくなってしまいます。
このため番号やイロハで櫓の名前をつけていました。
大阪城には「1番櫓」「6番櫓」が現存しています。
また姫路城の天守と小天守をつないでいる渡櫓は、「イの渡櫓」「ロの渡櫓」「ハの渡櫓」「ニの渡櫓」と呼ばれています。
方角・十二支でつけられた名前の櫓
櫓の数がそれほど多くない場合、本丸を中心にした方角で櫓の名前をつけていました。
名古屋城に現存している3つの櫓「西南隅櫓」「東南隅櫓」「西北隅櫓」は、本丸から見て「西南」「東南」「西北」の方角にあります。
また干支を使って名前をつける櫓もありました。
十二支は方角も表していたため、「辰巳(巽、たつみ)櫓」「未申(坤、ひつじさる)櫓」「丑寅(艮:うしとら)櫓」などと名前がつけられています。
保管しておく武器・物資からつけられた名前の櫓
江戸時代の櫓は倉庫として利用されていたので、櫓に保管されている物資から名前をつけていました。
例えば「鉄砲櫓」「弓櫓」「槍櫓」「煙硝櫓」は鉄砲や弓矢・槍、火薬を保管していた櫓。
「干飯(ほしい)櫓」「塩櫓」「荒和目(あらめ)櫓」は保存食や塩を保管していた櫓です。荒和目とは海草を干物にした保存食です。
特別な役割からつけられた名前の櫓
特別な役割が与えられていた櫓はその役割から名前がつけられることがあります。
「太鼓櫓」はその名の通り太鼓が置かれていて、太鼓を時報として利用していました。
「井戸櫓」もそのまま櫓の中に井戸がある櫓です。
「潮見櫓」は海に面したお城(海城)で海を監視する役割がありました。
「着到櫓」は合戦の時に集まってきた兵士の人数などをチェックするための櫓です。
「月見櫓」は城主が月見を楽しむための櫓。そのため櫓と言っても戦闘向きではなく縁側を設けて開放的に作ってありました。
逸話や由来からつけられた名前の櫓
「富士見櫓」は東海・関東のお城で建てられた櫓で、実際に富士山が見えたかは分からない櫓もあります。
三重櫓が多く、江戸城や川越城では天守の代用とされていました。
「伏見櫓」は伏見城(京都府)の櫓を移築したものと伝えられている櫓。
福山城(広島県)の伏見櫓は梁の刻銘などから実際に移築されたものと確認されています。
「千貫櫓」は大阪城にある櫓。
大阪城以前、この場所にあった石山本願寺を攻めていた織田信長が「櫓を落とした者に千貫の褒美を与える」と言ったという逸話から名前がつけられました。
「清洲櫓」は名古屋城の西北隅櫓の別名。徳川家康は名古屋城築城の時に、清洲城を取り壊して再利用しました。
清洲櫓は清洲城天守を移築したものと伝わっていて、柱や梁などに残っている跡から実際に移築された櫓であることは確か。
現存している櫓5選
現存している櫓は100棟以上あって、その中でも国の重要文化財になっているものが79棟。(天守に付属している櫓は除きました)
天守とは違い、一つのお城にいくつもの櫓が建てられていたので数多く残っています。
ここでは重要文化財に指定されている櫓の中から5つ選んで紹介します。
熊本城「第3の天守」と言われる【宇土櫓】(熊本城)
約20mの石垣の上に高さ19mの宇土櫓が建てられています。
この宇土櫓の大きさは外部も内部も天守級で、高さ約18mの犬山城・宇和島城天守より高い。
宇土櫓は櫓としては珍しく一重・二重目の屋根の4面すべてに大きな破風(はふ)を持ち、最上階に廻縁(まわりえん)と高欄をめぐらせています。
こうした装飾によって格式が高められていて、「第3の天守」と呼ばれる一因にもなった。
現在は震災からの復旧工事中で見学できるかどうかは公式HPを確認してください。
名古屋城最大の櫓【西北隅櫓】(名古屋城)
大天守・小天守についで城内3番目の規模を持ち、名古屋城で唯一の三重櫓が西北隅櫓です。
西北隅櫓は清洲城天守を移築したものと伝えられ、これに因んで「清洲櫓」とも呼ばれています。
西北隅櫓の柱や梁に残されていた跡から木材が再利用されていることを確認。なのでこの櫓が移築された建物であることは確か。
1階平面が16m✖️14mあり、宇和島城天守の1.5倍、第6位の松本城天守に次ぐ面積を誇っています。大きな出窓が特徴で、徳川幕府のお城に共通する特色の一つ。
映画の撮影にも使われた【天秤櫓】(彦根城)
正確には門だけど、両端に二重櫓を備えているのが天秤櫓。左右対称に見えるけど、二重櫓の屋根の向きが違います。上から見るとコの字型に見えることから、天秤櫓と呼ばれるようになりました。
長浜城から移築された建物と書物(井伊年譜)にも記されているけれど、彦根城築城時は長浜城はまだ使われていたので長浜城からの移築とは考えられていない。
天秤櫓を修理した時に、移築された建物であることは判明し、どこかのお城から移築された櫓であることは確かです。
大阪城大手門脇に建てられた【千貫櫓】(大阪城)
大手門脇に建てられた二重二階の櫓が千貫櫓。
徳川幕府による大坂城第1期工事(1620〜22)に建てられました。
一番上の屋根に軒唐破風の装飾をほどこしていて、他の櫓より格式を高くしています。
秀吉が大坂城を建てる以前に石山本願寺というお寺があった時、この位置にあった櫓に織田軍が苦しめられていました。
そこで信長が「この櫓を落とした者に千貫の褒美を与える」と言ったことが名前の由来とされています。
伏見城から移築された【伏見櫓】(福山城)
福山城は武家諸法度によって新たにお城を築くことが厳しく制限されていた1622年に完成したお城。
この福山城に残る伏見櫓は1階と2階が同じ大きさで、「望楼型(ぼうろうがた)」という古式な形をした櫓です。
伏見櫓は名前の通り、伏見城(京都府)からの移築されたものと伝えられていました。
1954年の修理の際に、「松ノ丸東やくら」と書かれた梁が発見されて、伏見城から移築された櫓と断定されています。