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擬人化・アニミズム

2020.12.29 05:46

https://blog.goo.ne.jp/mxd00665/e/72abca1ae68e71b342efa8ae906fcc05 【擬人化またはアニミズム】 より

昔:下駄の鼻緒が切れると不吉な予感がする。

今:コンピューターが変な挙動をすると「なんでここでそんなことをするんだよ」と罵る。

【ただいま読書中】『縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか』大島直行 著、 国書刊行会、2017年、2200円(税別)

縄文人は穴を掘って死者を埋めていました。私たちはそれを聞くとすぐに「お墓」という単語を思い浮かべます。しかし、それはなぜ?(たとえばナチスの強制収容所での“それ"は、死体捨て場というか処理場でしたよね)

「墓」はアンビバレントの象徴です。アンビバレントとは、「死者への愛着」と「死への恐れ」。この両者を満足させるため、世界中で各民族は様々な「墓」と「儀式」を生み出してきました。

ヒトが「死」を理解できるようになるのは、前頭連合野が活発に機能し始める10歳頃です。そういえば私も「自分は死すべき存在だ」と自覚したのがちょうどその頃でしたっけ。

ホモ・サピエンスでこの前頭連合野が発達したのは3〜6万年前という推論が本書にあります。すると、その頃「ヒト」は「人」になったのかもしれません。

「宗教は遺伝するものか?」という風変わりな問いを立て、著者は、人類学・宗教学・民俗学・脳科学・心理学などの文献を駆使して考察を重ねます。そこでネックになるのは、私たちが「現代人の視点」から縄文人を解釈しようとしてしまうことです。そこで「普遍的無意識」というキーワードが登場。ユングの「元型」がベースですが、そこから「縄文人と現代人の共通点」を抽出し、そこに考古学でわかっていることを加味して「縄文人の精神世界」を再構築しよう、というのが著者の目論見です。

 これって「文化人類学者がアマゾン奥地に行って放棄された原住民の村を見てそこからその民の生活についての『親が子供にどんな説教をしていたか』などと生き生きとしたレポートを書く」のと少し似た作業かな。ただ難点は「縄文人がすでに存在しない」「残された遺物が非常に少ない」ことと「反証可能性が非常に少ない」ことでしょう。

 「縄文土器の縄文はなぜつけられたのか?」「墓の副葬品はなぜ墓に入れられたのか?」といった問いを突きつけることで、「縄文人が実際にはどのような生活をしていたのか」「縄文人は世界をどう把握していたのか」という回答を著者は得ようとします。ところで私はもっと根源的な問いも思いつきました。「縄文人はどうやって『土器』が煮炊きに使えると気がついたのか?」です。まあ「何かの偶然で土器が生まれた」、そして「何かの偶然で土器が煮炊きに使えることがわかった」としても、では「なぜ縄文人は煮炊きをしようと思いついたのか?」と次から次に疑問は途切れません。

 1万年、日本列島の縄文人はせっせと土器に縄文を付け続けました。このことに「縄文人は土器に自身の世界観を表現していた」と気づいたのが、1952年岡本太郎でした。考古学者ではなくて芸術家が「その目」を持っていた、ということなのでしょう。

 縄文人は定住生活を円環状の村で行なっていました。定住生活の狩猟採集民族というのは、どんな世界観でどんな社会を形成していたのだろう、と思いますが、「円環状」にそのヒントがある、と著者は言います。「合理性」「平等」というのがありがちな解釈ですが、著者は「子宮」「月」を持ち出します。

 「季節の輪廻」と「月の運行」の両方が縄文人の世界観に大きな影響を与えていたはず、と著者は考えていますが、その関係についての明確な結論は出せていないようです。私見ですが、「季節」は「具象」、「月」は「抽象」というのはどうでしょう。季節の輪廻は「食」に直結します。季節ごとにどこで食糧を得るべきかは狩猟採集民にとっては死活問題。しかし「月」は(大潮を除けば)そこまで実生活には直結しているようには見えません。しかし月の運行があることは厳然たる事実。ではそこにどんな意味が?と縄文人が考えることによって「抽象の世界」に誘われていったのではないか、というのが私の想像です。当たっているかどうかはわかりません。そもそも「反証可能性」はゼロの仮説ですしね。


https://ameblo.jp/iwasimizu1966/entry-12426943364.html 【アニミズム】 より

生物・無機物を問わず全てに魂が宿るアニミズムという考え方がある。

霊的存在への信念であり、精霊や神など宗教の基礎をなす発想とされてきた。

ものに魂が宿るという考えは宗教的信念がなくても成り立つ。

「魂」 の定義を 「特別な存在」 と意味付けると全てに魂を感じられる。

「特別さ」 とは、人間が擬人化した存在に限定されない。

全てが宇宙の摂理で顕現した唯一無二の特別な存在と見ることもできる。

人間が価値を決めなければ、全ての存在の価値は万物平等。

役に立つ、立たないという人間の理論的価値観は宇宙に関係ない。

人間の意味付けた価値は、あくまで現代人の基準でしかない。

人間の価値認識を取っ払えば、実在しか残らない。

だから本質には、良いも悪いもない。

高い低い、大きい小さいという概念も関係ない。

人間都合で魂の有無を決めたり擬人化しなければ全てが宇宙の一部。

人間都合はゲームにおけるバーチャルな世界基準…。

情報が生み出す相対価値でしかない。

実際には全てのものが宇宙で互いに関わり、支え、成り立っている。

時間と共に変化しながら直接的、間接的に関係している。

だから宇宙から生まれ出た実在の全ては特別な存在。

そう解釈すると全てにエネルギー、魂が有ると思える。

そんな拡大解釈のアニミズムは、世俗的価値を超越し人生観を広くする…。

目先の社会理論を超越し、意識は宇宙の摂理へ時空を超えて拡大する。

何気ない身の回りのもの、関りや命を深く見ることができる。

関りの積み重ねで授かった恵みや支えに感謝の念が生まれる。

その気付きによってエゴの執着や拘りを手放すことができる。

万物全てに魂が宿るとは、幽霊や妖精、特定の神様に限定されない。

全てが宇宙の計らいだと気付き、我欲に執着しない客観的な世界観。

エネルギーが相互に依存し循環する宇宙の摂理を命に重ねること。

経済社会には無価値なものでも、宇宙では絶対の実在…。

名も知れぬ雑草の葉の中の光合成にも宇宙がある。

そんな社会基準と別次元の宇宙の自己存在を感じる時間を持とう。

そして現代社会の執着や囚われ、損得、評価の小さな世界観から出る。

信じられれば自らを縛る理論や理屈、左脳の概念から開放される。

生物・無機物を問わず、すべてに魂が宿っている。

それは宇宙の摂理、自然の力を信じ、尊ぶ深遠な想い…。

有ると思えばある、見える。

無いと思えばない、見えない。

社会的理論や科学の枠を超え、実在をただ深く感じて見つめる。

石ころ、名も知らぬ虫、雨の一滴、道端に咲く小さな花…。

今、この瞬間、この世界に共に生きる魂の事実を感じてみる。

そんなアニミズムで命の不思議を実感すると、心持ち豊かになる。

全ては宇宙が生み出した特別な存在。

今に生きることは宇宙の摂理と法則に支えられていること。

それは奇跡であり、生きることは素晴らしいと実感させてくれる。