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Okinawa 沖縄 #2 Day 65 (02/01/21) 旧兼城 (7) Kanegusuku Hamlet 兼城集落

2021.01.03 04:17

兼城集落 (かねぐすく、カニグスク、カナグシク)

昨日に続いて今日も集落巡りをする。天気は明日からまた崩れるとの天気予報なので、雨の確率が低い今日も行くことにした。昼間は日がさし、暑いぐらいの気候となった。


兼城集落 (かねぐすく、カニグスク、カナグシク)

昨日に続いて今日も集落巡りをする。天気は明日からまた崩れるとの天気予報なので、雨の確率が低い今日も行くことにした。昼間は日がさし暑いぐらいの気候となった。


字兼城は北は字潮平に接し、東は字座波に接する。南は東西に流れる報得川を挟んで、字照屋と字糸満に接している。西はかって東シナ海に面していたが、現在は国道331号を挟んで西崎町の埋立地と接している。戦前まで稲作と藺草の載培を中心とした農村集落で、藺草載培に伴う製業が盛んであった。戦後は水田を畑に切り替えてサトウキビ作が行われたが、現在は市街化の影響を受け、商業地化、工業地化が進んでいる。宅地開発も盛んに行われ、県営、市営の団地や沖縄県住宅供給公社による兼城ハイツができ、賃貸アパートや貸事務所などの建物が増えている。

集落は大きく3つに区分され、ナカミチとメーミチには挟まれた中央一帯をウチンシマといい、北側をカンバル、南側をアコージマと呼んでいる。

前回訪れた字潮平と同様に、1976年の沖縄本土復帰を境にして人口が著しく増加に転じている。これはこの地域が1974年 (昭和49年) に市街化区域及び市街化調整区域に指定され宅地開発等が進み、1976年 (昭和51年) には県営浜川団地や浜川原市営住宅が建設され、1978年 (昭和53年) には兼城ハイツへの入居が始まった事が大きく寄与している。

1880年 (明治13年) 時点では字兼城は旧兼城村の中では人口はまだそれほど多くなかったのだが、その後コンスタントに人口は増えて1976年時点では一番多い字になっていた。その後も人口は増加し続けて、現在では字潮平に次いで2番目に多い字になっている。


糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編に記載されている文化財

兼城集落があるのは門原 (ジョーバル) で他の集落に比べ戦前の集落の様子をとどめており、集落内には古い沖縄伝統形式で建てられた民家や石垣が見受けられる。集落を周ると、その区画の造りは、他の集落とは少し異なっており、両側が切り立った崖の上に細長く広がり、その真ん中をナカミチが走り祖のナカミチから路地が何本か伸びている。集落自体は小さく、1880年の人口400人で、ほとんどすべての人がこの丘陵の上の集落に住み、丘陵の麓は畑が広がっていた。現在でも昔からの集落の人口はそれほど変化はなく、急激な人口の増加は、かつての畑があった場所に多くの集合住宅が立ち並び、本土や地区外からの流入者がほとんどだ。後で出会うおじいの話では、集落住民と新たに流入した人々との交流はそれほど多くないようだ。集落では戦争を知る老齢者は村の習慣や門中での土地保有の維持を望んではいるが、戦争、戦争直後の苦しい時期を知らない世代、50才以下の集落の人は考え方が変わってきており、集落から他の地域に移り、土地に対する執着心も薄いという。沖縄集落の習慣の共同作業 (ウィータティー) もだんだんと薄れてきているそうだ。時代の流れか個人主義的な考えを持つ人が多くなったと嘆いていた。

今日出会ったおじいによると、沖縄戦では報得川を越えた照屋の北東の与座丘に日本軍陣地があったため、米軍の軍艦からの艦砲射撃はそちら方面に集中していたため、兼城集落は大きな被害を受けず石垣がそのまま残ったそうだ。ただ、兼城の住民564人の内154人が犠牲になっている。犠牲者は他の集落に比べ少ないのだが、それでも住民の27%もの人が犠牲になっている。


前道 (メーミチ) 

集落の東にはかつては馬場だったところが前道 (メーミチ) となり、現在では広い道路になっている。出会ったおじいの話では、馬場横に細い馬車道で道も悪く狭い道だったそうだ。


兼城区コミュニティーセンター (馬場跡、サーターヤー跡)

この前道 (メーミチ) の東はかつては馬場があった。その後、発動機を使った砂糖小屋 (サーターヤー) となった。この時に集落に二つあったサーターヤーは廃止された。このサーターヤーの一画に共同製糖場が置かれていた、後にここに兼城区コミュニティーセンターが建てられて、旧村屋から字の運営機能を移管している。公民館の前には広場があり、かつてのアシビナーだった場所。どこの集落を巡ってもサーターヤーが形を変えても残っているところは皆無だ。そもそもサトーキビ産業が衰退し続けている。この兼城でもサトーキビは農産物収穫量の一位だったが、現在では全盛期の30-40分の一にまで減少している。


シラタキ

兼城区コミュニティーセンターの東側にウグヮンモー、メーヤマ (前の山) の雑木林の中にシラタキと呼ばれている拝所がある。この場所はシジダカドウクル (神の震力が強い所) といわれている。奥の方にガマがあり、そのガマに向かって玉川王子朝達が寄進した香炉が置かれており、ガマにはスムと幸地の先祖の遺骨の入った古い厨子甕があるそうだ。この御嶽は幸地腹によって管理されていた。


東の製糖小屋 (アガリンサーターヤー)

以前は、共同製糖所があった兼城区コミュニティーセンターの北側には、東の製糖小屋 (アガリンサーターヤー) があった場所で、今はサトウキビではなく野菜畑になっている。この報得川近くの農地をシンタ (新田) とい、かつてその一帯の畑に水をいて新たに水田を設けたのでそう呼ばれたという。ここで出会ったおじいもこの地を開墾して畑を広げたそうだ。戦後はここ一帯は畑だらけだったのだが、今は農業をする人が少なくなり多くの畑が放置されて雑木林に戻てしまっている。おじいも昔は2000坪の農地を持っていたが、今は息子さんも農業には興味がなく500坪の畑を維持するのが精いっぱいだそうだ。この畑も自分の代で終わると寂しそうに言っていた。このおじいは百次 (ムンナン) 門中の人で、昨日訪れた潮平にの民中グループの今帰仁腹からの分家で、兼城ではおのおじいの百次 (ムンナン) 門中が今帰仁腹グループの本家にあたる。昨日今帰仁腹の墓に行ったというと嬉しそうに、今帰仁腹の話をしてくれた。

サーターヤーで使用した井泉の跡があるというので、探したが見つからず、そこで働いていた人に聞いてみた。井戸は草木で覆われてそこへの道は水が溜まっていて行けなかった。この人は沖縄戦当時は5才だったので今は80才という。とても80才には見えない若々しい人でいろいろな事を話してくれた。


下之井泉小 (シチャンカーグワー)

この下之井泉小 (シチャンカーグワー) も探したが、見つからず。先程出会ったおじいが教えてくれて、その場所まで案内して貰った。地元の人でもここを知っている人は少ないそうだ。良く茂った雑木林の中へ入っていくが、雑木のトンネルのようになって屈まないと進めず最後は這ってやっと井戸の場所に行き着いた。井戸は立派な石積みになっている。この井戸がある東の製糖小屋 (アガリンサーターヤー) の北側はカンバル地区にあたり、この井戸は簡易水道ができるまで主にカンバルの住民たちに洗濯や洗い物に使用されていたそうだ。


水車 (ミジグルマー) の近くの井泉

東の製糖小屋 (アガリンサーターヤー) の奥へと進み、河面原と東原の境界の水車 (ミジグルマー) と呼ばれている辺りにもサーターヤーがあり、水車 (ミジグルマ) の水力を使ってサトウキビを搾ったそうだ。ただ、水不足で水車が回っていることが少なく、数年で撤去された。この場所に井泉があるそうだ。おじいによると、あるにはあるのだが、草の中に埋もれているので、そこに行くまで大変で、見つかるかどうかも分からないと言っていた。


奥間 (ウクマ) グスク

集落を少し降りたとこから見える奥間グスクがあった丘陵の上部。

奥間 (ウクマ) グスクは、察度王 (1321年 - 1395年) の六男金城按司と、その次男の奥間按司が築いたグスクだという説がある。この後訪れた兼城グスクと隣接しているので、この二つのグスクは一つのグスクではないかともいわれている。後に、この地は南山国に属しており、他魯毎に仕えていた。

兼城集落の北側の標高45m前後の石灰岩丘陵上に造られていた。古くは奥間城里主所と記され、現在は兼城上之殿となっている。グスク内には香炉が置かれている。

グスク内の城壁は野面積みで、丘陵の平坦面から斜面に移行する箇所に石積みされ、最高は2m前後で、一部は低く石積みを平面に敷いた様な箇所もある。


カニマル御嶽 (金丸御嶽)

ウクマグスクの南のウィーンモーにこのカニマル御嶽 (カリヤマヌ御嶽とも呼ばれていた) があり、鍛冶の神が祀られている。この集落ではカニマン (金満) ではなくカニマル (金丸) と呼んでいる。この場所にはカンジャーヤー (鍛冶屋) があった所で、グスク時代にはこの場所で刀を製造していたと伝わっている。カニマン (金満) は鍛冶屋の神とされている。


上之殿内 (ウィーヌトゥンチ)

カニマル御から少し南に上之殿内 (ウィーヌトゥンチ) があり、そこにヒヌカン (火の神) が祀られている。これはジトウーヒヌカン (地頭火の神) ともいわれている。赤嶺と大屋の両門中で管理されており、赤嶺・大屋の殿内 (トゥンチ) とも呼ばれている。


赤嶺門中屋敷跡

上之殿内 (ウィーヌトゥンチ) のある場所の隣が、この上之殿内 (ウィーヌトゥンチ) を管理している赤嶺門中の屋敷だったところ。この赤嶺門中は南山国最後の王の他魯毎の家臣だった。集落の始まりから何百年も続いている家でいる。


神道

集落からカニマル御嶽や上之殿内 (ウィーヌトゥンチ) へ御願に向かう神道が通っている。


幸地のアサギ、幸地の拝所

神道は兼城集落の中心地から伸びており、そこをたどると、集落の中心であったウチンシマに村 (ムラ) の嶽元 (タキムトゥ) といわれている幸地門中の屋敷に至る。この屋敷跡にはコンクリート造りの幸地のアサギがあり四個の香炉と火の神が祀られている。

幸地のアサギに向かって左に石で囲んだ拝所があり、一説では山の竜宮が祀られているといわれている。ここに置かれている石は報得川のナッサンにあった船のとも綱を結んだフニクンジャー石だといわれている。


前之殿内 (メーヌトゥンチ)

幸地屋敷跡の南に前之殿内 (メーヌトゥンチ) があり、火の神 (ヒヌカン) と兼城間切の惣地頭の玉川王子朝達奇進の香炉が置かれている。火の神は国火の神 (クニヒヌカン) で、香炉はシラタキへのお通し (ウトゥーシ) と伝わっている。


前盛門中の拝所

前之殿内 (メーヌトゥンチ) の斜め向かいは前盛門中の屋敷跡で、後方にコンクリート製の家型の拝所があり、集落住民に拝まれているが、詳細は不明とのこと。

この近くにもう一つ村人に拝まれている拝所があった。詳細は不明。


中道 (ナカミチ)

幸地屋敷跡の神道と反対側の道が、集落の目抜き通りであった中道 (ナカミチ)。集落の幹線道路といっても昔のことだなので、車がぎりぎり通れるぐらいのものだ。この中道を南側に進む。中道 (ナカミチ) 丘陵の坂を下って報得川に架かる兼城橋まで続いている。この中道は三山時代に南山国の港を訪れた中国人の易学者が兼城は人が住むには凶相とし、善相に変えるため兼城集落を蛇の頭に例えてその胴体になる道を造ればよいということでこの中道が造られたと伝わっている。


スム門中屋敷のアサギ

兼城集落の国元 (クニムトゥ) と言われているスム門中の屋敷跡がある。この屋敷跡の南東側に、火の神と香炉を置いた建物があり、スムのアサギと呼ばれている。


旧村屋跡、拝所

スム門中の屋敷があった場所の隣が旧村屋跡で、公民館賀建設されるまで村の運営の中心地だった。この場所の東側にソテツが植わっておりその根元に香炉が置かれた拝所がある。


村屋東の拝所

村屋跡の東に拝所がある。石垣で囲まれた小さな跡にソテツが植えてあり、その下に香炉が置かれている。


大城門中屋敷跡

中道を更に南に進むと、集落の真ん中の地区のウチンシマから南側のアコージマ地区に入る。境の辺に古い屋敷跡がある。大城門中の屋敷跡で、明治40年に建てられたもので、昔の屋敷の造りが残っている。展示保存しているのかと思っていたのだが、現在でも人が住んでいるようだ。屋敷敷の北側石垣 (写真左下) は野面積みで、他は切石積みとなっている。特に正面と東の石垣は見事な切石積みになっている。


マーグイ

マーグイと呼ばれている場所は昔はここは若者たちのモーアシビドウクルでもあったという。現在は雑木が生い茂って中にある拝所までは入れないため、この向いにある兼城ドンドンガマ辺りから遥拝しているそうだ。


兼城ドンドンガマ (下川権現 スムガープンギン)

マーグイの前のナカミチを渡る兼城ドンドンガマと呼ばれているガマ (洞穴) がある。ガマに向かって正面左側に香炉が置かれている。ガマは二つに分かれており、向かって右側は大きな鍾乳洞の穴で、手前に香炉が置かれている。後に域外の人が鳥居を立てたそうだ。ここは下川権現 スムガーブンギンとも呼ばれている。小石を投げるとドンドンと反響音が聞こえることから土地の人々はドンドンガマと呼んでいる。

左側のガマには石柱の柵が設けてあり、その中には厨子甕が置かれているそうだ。かつては鎧もあったという。

三山時代の終わりに尚巴志によって南山城が攻められ、南山国が滅んだ際に、照屋グスクにいた波平門中が兼城に移住してきて、兼城内の人口の8割を占めるまで至ったという。兼城集落の国元のスム門中と嶽元の幸地門中グループと波平門中グル―プはことごとく張り合い、近世まで犬猿の仲だったという。



前之井泉 (メーンガー)

兼城ドンドンガマを少し下った西側に前之井泉 (メーンガー) があり、メーガー、メーンカーとも呼ばれている。主にアコージマの人々が使用した共同井泉で、石の樋が設けてあるので樋川 (ヒージャー) だろう。村の共同井泉の清掃のことをカーサレー (井泉さらい) といい、年に1回、ムラの共同作業で定期的に清掃されていた。


アコークパオー

兼城ドンドンガマから10mほど南側にアコークバオーと呼ばれている拝所がある。拝所の周囲にはソテツの木が植えられている。かつてはここで雨乞い (アミタボーレ) をしていたともいわれている。


神道 (カミミチ)

兼城ドンドンガマからハンタまでにも神道がある。現在は部分的にしか残っていない。


ハンタ、兼城グスク

かつての神道 (カミミチ) の終点がここのハンタだ。奥間グスクの南西側、幸地屋敷跡の西側の標高約30mの丘陵台地の崖沿いに広場がある。ここでウマチーなどの村落祭が行われる。広場には「幸地のトウンチ (殿内)」と、久米島と今帰仁への遙拝所がある。ハンタとは方言で崖っぷちのことをいい、別の地域ではバンタとも呼ばれている。ハンタの下方には縄文時代後期の兼城貝塚があったそうだ。このハンタには兼城グスクがあった場所で、南山系の兼城按司による築城と言われている。住宅の路地を入るとすぐに、火の神の祀られた幸地のトウンチ (殿内) がある。

広場の端には村御本神と書かれた石碑の拝所がある。村の守り神を祀っているのだろう。

広場の周りには城壁の石積みが残っている。伝承では兼城按司は報得川の対岸にある照屋グスクとは対立していたといわれ、尚巴志が南山を滅ぼした際にここも攻略され、兼城按司は武富に落ち延びたといわれている。


浜井泉 (ハマガー、玉井泉 タマガー)

集落の西側から北へ浜川原に降りていくところに浜井泉 (ハマガー) と呼ばれている井泉がある。この井泉でノロの勾玉を洗い清めたということから玉井泉 (タマガー) とも呼ばれている。井泉の水は飲料用水として用いられ、西の水田にも活用されたが、現在はほとんど利用されていない。


古番所 (フルバンドゥクル) 跡、西 (イリ) のサーターヤー跡

集落から潮平方面に少し下った所に西 (イリ) のサーターヤー跡がある。集落内には東 (アガリ) と西 (イリ) のサーターヤーがあった。この西 (イリ) のサーターヤーの場所には古番所 (フルバンドゥクル) は置かれていた。


上之井泉 (ウィーンカー)

古番所跡から少し北に行くと村の共同井戸跡がある。上之井泉 (ウィーンカー) で樋川 (ヒージャーガー) とも呼ばれ、兼城の人々の生活用水であり、産井泉 (ンプガー) でもあった。この井泉があるため、この一帯をヒガーパル (樋川原) と言われる。1958年 (昭和33年) ごろ、ウィーンカーを水源として簡易水道が設置さた。各家庭に水道が引かれるのはまだ先のことで、集落内の33か所に水道栓が設けられ、隣近所が共同で使用していた。これでも毎日井戸に水を汲みにくことから比べれば格段の進歩だった。しかし、1966年 (昭和38年) に、ウィーンカーの近くにある琉球結核研究所の汚物で井泉が汚染され、簡易水道は使用停止となったり、給水車による給水が1年近くも続いたそうだ。その後、市道整備の際に理められ、現在は井泉の一部が残っているのみ。


ティラガー

おじいからはぜひここを訪れるように言われた。話を聞くとおじいが子供の時には2㎞先の兼城小学校から帰宅すると毎日ここに水を汲みに来ていた。集落では3つの共同井戸が、主要な生活用水だった。字照屋との字境を流れる報得川は、1991年 (平成3 年) の中小河川改修事業によって川幅が広げられ、大部分はコンクリート護岸になっており、今もまた別の工事が行われていた。集落から報得川のンマガーラ (馬川原) に降りる。この場所は人が渡れる橋が架けられている。地図上では橋は表示されていない。このンマガーラでは子どもらが水遊びをし、大人たちも田畑の帰りに水浴びをしたという。この井戸は字照屋ではカミガーと称してウマチーなどに拝んでいる。

三山時代には、この近くにはトーシングムイ (唐船小場)、またはトーシンドウマイ (唐船泊) と呼ばれており、南山の貿易港だったところ。

コンクリート製の橋を渡ると、もう一つ小さな石橋がある。ンマガーラ橋、ティーラ橋、橋小 (グヮー) などと呼ばれている。


ティラガーを見終わり、5時を過ぎてしまった。おじいとは一時間ばかり楽しく話をしたので、今日は少し遅くなった。別れ際におじいが育てた冬瓜をいただいた。ここからだと帰りは一時間ほどかかるだろう。帰りのルートはもう一度兼城集落迄上がるか報得川沿いを行くかだ。今日は何度も集落を降りたり登ったりで、かなり疲れた。集落迄登るより川沿いを通り帰ることにした。走り始めたのだが、未舗装の道で途中から道は草木が生い茂り、思うようには進まない。更に道が水溜まりで覆われて、靴に水が染み込み気持ちが悪い。ようやくまともな道に出たところで、鶏が道を占領している。全く逃げる気配も無いので、驚かせないように、ゆっくりと鶏の横を通して貰った。

家に着いたのは6時過ぎ。まだ薄暗いくらいだ。これからは少しづつ日が長くなっていく。


参考文献

  • 糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編 (2011) 
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)