12月30日
なかにし礼さんが亡くなった。
作詞家、作家、そして。実に多才なかただった。
多才である自分に時に照れているような……、
けれど照れているところはひとには見せないという素敵に頑固なダンディズムのようなものがおありだった。
旧満州生まれ。「引き揚げ船の上」で、日本では『リンゴの唄』が今はやっていると聞いたとき、実に複雑な思いを味わったとおっしゃっていた。
自分たちはいのちからがら逃げてきたのに、ようやく故国に辿りつけそうなのに、国ではもうこんなに明るい歌が流行っているのか、と。
その体験がなかにしさんの背中を押したのかどうかはうかがったことはなかったが、苦学しつつも、人生の前半は、まずは気鋭の作詞家としてデビュー。大活躍。
メロデイがつく「詞」と「詩」の、思いのほか堅牢な垣根を軽く飛び越えて、新しい歌の世界を牽引されていった。
元号についてどう考えておられるのかお訊きしたことはなかったが、「昭和」が「平成」に変わる頃から、軸足を小説に移し、次々に話題作を発表。ほぼ並行するように反戦平和を力強いタッチで記し、権力と呼ばれるもの、力学に対して「異議あり」と高らかに「歌い続けた」。
携帯に、なかにしさんからのショートメールを見つけたのは11月7日。
ドイツに今でもある、湖のほとりの一軒の家を主人公にした絵本、『あの湖のあの家でおきたこと』の訳に、とてもあたたかな労いと励ましの言葉を記してくださった。
折り返し電話をして話をさせていただいた。
現在の政治について、遠ざかる民主主義について。時代と共に移りゆくものと、移りゆかないものについて……。いつもと変わらぬ口調であり、声音だった。
何度かクレヨンハウスで講演をお願いしたことがあった。ゴーストと言う不可思議な存在に導かれるようにして、自分の過去と今を往復する自伝的な色彩が濃い小説『夜の歌』。
少年の目で見た、体感した「戦争」というもの。故国にたどり着いてからの日々。肉親との確執等々を描いた作品だが、この作品を軸に立案し、構成にもかかわって、
ほぼ2時間のラジオ番組を担当したのは、何年前だったろう。
ご出演いただき、ご自分の言葉で、お話いただいた。
50年以上も前、文化放送に勤務していた頃、なかにしさんは作詞家として大活躍されていた。まさに時代の寵児であり、眩しい存在だった。深夜放送も担当されていた。
実はわたしも同じ番組を、違う曜日で担当していたのだが、「いまをときめく存在」とは、なぜか反射的に距離をとってしまう悪い癖が昔からわたしにはあり、「あっ、なかにしさんだ」と遠くから見て、書かれた「詩」を口の中で密かに口ずさみ、挨拶をするぐらいの距離だった。
親しくお話ができるようになったのは、この10年ほど。
集団的自衛権が閣議決定された2014年7月。『平和の申し子たちへ 泣きながら抵抗をはじめよう』を毎日新聞の夕刊に発表され、本にもなった。
あの頃から、雑誌の対談にも出ていただいた。
「大変だよね、ひとつのことを続けていくことは。でも、続けるんだよね、あなたは。わかってやってるんだよね、大変だからやるんだよね、クレヨンハウスそれ自体が平和と人権と、言葉の運動なんだね」
そんな風におっしゃっていただいたこと、忘れられないし、忘れない。
仕立てのいいジャケットをちょっと着崩した姿もカッコよかった。
厳かなことを言ったあと、「おっ、つい、言っちゃったよ、まいったなあ」というように、
ふっと酸っぱい苦笑を浮かべたなかにしさんでもあった。