Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

琉大事件を考える(仮称)

今年の振り返り?

2020.12.31 00:32


今年の11月、急性骨髄性白血病により他界。

母の葬儀の時、伯父の葬儀の時の話になった。



今の私は、母が亡くなったという実感も、まだないという感じ。



母が亡くなったことは、しんぶん赤旗のお悔やみ欄に載った(私の父は掲載を断るかなぁと思ってた私)。



葬儀の日には、私の父宛てに志位委員長から弔電が届いた。

それは、父が喪主だったからだろう。

って

それらの経緯は、ぶっちゃけ私にはわからない。



しんぶん赤旗のお悔やみ欄に載ったのは、家族葬が終わり、12月に入ってからだったしね。




琉大創立60周年の時に、叶わなかった事がある。

何故に、それは叶わなかったのか?

私は、その事への検証も求めるだろう💢



その件に関しては、共産党を巻き込むつもりはない。



ん?

共産党としては、どうなんだろう…





沖縄での事は、私の母が先ず知らなかったし。

伯父は伯父で、自分に妹がいる事も黙っていたから…










私は、4人きょうだいの一番上。


両親は共働き。


祖母が亡くなってからは、私が母の助っ人みたいになった。



夕飯の準備や、妹たちの世話。

母は未就園児を預かる施設に手伝いに入ったり、学童保育への指導員の手伝いには私が駆り出されたり。

地域ぐるみの子育て、色んな人との出会い。






母たちが、奄美から大阪へ移住してきたのが昭和34年。

西淀川区内の会社に就職、

沓脱タケ子さんとの出会い




父は民事裁判の原告になるなどで

週に1度、我が家に必ず人が集まった。


それは父の裁判の支援者なのか、地区の人なのか、

何にせよ、

おでんをたくさん作り、

皆で食べたり、とにかく楽しかった🍀



ハイキングなどレクレーションに参加する事も多かった🍀


*画像は、私の父と東中光雄さん。

パンフレットには、裁判中の父を応援する家族の様子も掲載。

それは、私は中学生の時。佃に住んでる時。







そういう日々だったが

とにかく、楽しかった🍀




その一方で

沖縄での事がなければ、母の人生はどうだったのかと、

これはこれで、私は毎日毎日考えてしまう。



父は、琉大事件によって人生を狂わされたんだぞ!それなのにと大激怒した。


やはり、せめて

名誉回復だよね…









沖縄の闘いって本当に何?




せめて、当事者が生きているうちに…

琉大60周年記念誌の内容は本当に残念。


何度でも言う!

私は、更なる検証を求めるだろう。




私の母は、幸せだったのかなぁ