ドレッドノートはなぜ凄かったのか
今日は世界史の授業をしようぜ!という回です。
以前の記事でドレッドノートが革命を起こしたということについて触れさせもらったのですが、このドレッドノートという船は世界史にも登場する偉大な戦艦で世界史に出てくる戦艦はこれぐらいのものじゃないかと思います。そんなドレッドノートは何が凄かったのかについて今回は触れていこうかと思います。
ああ、もちろん今回書いてるのはトロオドンです。戦艦大好きマンです、よろしくお願いします。
1.ドレッドノートに至るまでの経緯
前回の記事でドレッドノートの前の戦艦、前弩級戦艦について触れたが、前弩級戦艦の構造というのはこのような感じになっている。前後に主砲塔が1基ずつあり、船体の中央部に副砲や補助砲といった小型の火砲が並んでいるという配置である。これは同時代のどの戦艦も似たような配置になっていて前弩級戦艦に共通する要素である。ここでミソになるのは軍艦の砲撃戦とはどのように行われるか、という部分だ。
このツイートの画像を見ていただくとわかると思うが敵を撃つにあたってまずまっすぐ銃を狙う、これは想像しやすいと思う。照準器の中に敵を捉えまっすぐ狙う、これが直接照準である。しかし砲戦距離は少しずつ伸びていきだんだん敵との距離が遠くなると間接照準をしなければいけなくなる。これは敵に向かって山なりに砲弾を発射するもので、この間接照準は直接照準よりも難しくなる。
間接照準で大事になるのは主砲をどれだけ上に向けるか、つまり仰角である。まず敵との距離を測り、その距離に合わせた仰角を設定、発射。この計算に基づいた射撃の後、着弾位置を確認し、着弾位置と敵艦の位置からズレを計算し修正、これを繰り返し精度を上げていくものが間接射撃であり、これに関する学問は弾道学とされ非常に重要な学問であった。一般に発射した砲弾の着弾点が敵艦を挟むような位置になることを挟夾といい、どれだけ短い時間でこの挟夾に持っていけるか、「命中速度」が射撃技術の腕の見せ所であり技術であった。こと軍艦においてはこの命中速度というテーマが重要視され、一般的によく言われる「命中率」という言葉はこと軍艦においては重要ではなかった。
そして前弩級戦艦における砲撃戦の照準は砲塔一つ一つが独立して行なっていた。これを独立撃ち方といい、砲塔それぞれが独自に射撃とその修正を行いながら戦闘するというもので、砲塔がそれぞれに独立していたことから独立撃ち方と呼ばれている。しかしこの射撃法は軍艦と大砲が増えれば増えるほど着弾位置の確認が難しくなり、精度の部分が担保できなくなっていた。
日露戦争において海軍戦力で不利に追い込まれた大日本帝国がとった戦術は指揮所から砲塔へ一元的に射撃を指揮し、その修正も指揮所が行うというもので、交互射撃と呼ぶべきものである。砲塔は低い位置にあることから視界も悪く、高所の指揮所から射撃指揮をとった方が有効なわけである。艦橋から敵艦を確認、方位・距離・仰角を無線などを使って伝達し、砲塔はそれに従って射撃する。日本海海戦においては両艦隊とも10,000mを超える遠距離で砲撃戦を開始、ロシア艦隊が独立撃ち方であったのに対し日本海軍の交互射撃は非常に高い命中率を記録、勝利につながった。
これを見ていたイギリス海軍はこれからの時代の海戦のあり方を研究、独立撃ち方と交互撃ち方を実際に比較した結果その命中精度は六倍にも及び、交互撃ち方とそれを支える方位盤の装備を決定した。
2.ドレッドノートの登場
ドレッドノート
イギリス海軍が全力を投じて建造した新型戦艦ドレッドノートはこの日露戦争の戦訓から新時代の海戦を制覇するために作られた戦艦と言うことが出来る。歴史的にも戦艦の砲戦距離は伸び続けており、長距離砲撃戦で優位を得ることが出来るよう方位盤の装備と交互撃ち方を採用した。
ドレッドノートの主砲
加えてその砲配置も特徴的であった。主砲は前弩級戦艦と同程度の12インチ(30.5cm)砲であったがその主砲塔を5基も装備、3基を中心線に配置し左右両側に射撃可能にした上で2基を両舷に搭載し前後方向への火力を高めることに成功した。前弩級戦艦との火力を比べれば2倍以上、交互撃ち方の採用でその精度は距離が離れれば離れるほど顕著になる。ドレッドノートのサイズは常備排水量18,000トンで三笠の常備排水量が15000トンであることから決して船を大きくしただけではない、1.2倍のサイズで2倍以上の火力を得ることに成功したと考えればそのドレッドノートの恐ろしさがわかることだろうと思う。
統一された火力の代わりに前弩級戦艦で一般的だった副砲は撤去されることとなり、その性能を大きく遠距離砲戦に特化させた戦艦となった。
さらに当時の戦艦が蒸気機関を採用していたのに対し新技術の蒸気タービンを先駆けて採用した結果小型軽量大出力を実現し船のサイズが大型化したにもかかわらず21ノットと当時の戦艦としては高速を発揮、まさに攻走において戦艦に革命をもたらした最強の軍艦であった。
3.ドレッドノートの影響
ドレッドノートがもたらした影響は計り知れない。日本語において「ド級」と言うワードが生まれるようになった原因でもあり、英語においてもドレッドノートとはバカでかいなどを意味する言葉となった。ドレッドノートの完成を持って世界中のあらゆる戦艦が旧式化し、これはイギリスにおいても例外ではなかった。イギリスすらも世界最大の旧式戦艦保有国家となったもののイギリスはそこから弩級戦艦の量産体制を始め、戦艦戦力の刷新に成功した。
一方のドイツはドレッドノートに対しこれに対抗しうる戦艦の建造を迫られることとなる。ナッサウ、ヘルゴラントと次々に弩級戦艦を完成させドイツ海軍も急拡大、欧州における海軍競争は激しいものとなって行った。
それに対しイギリス海軍も建艦競争は止まることがなく、世界初の超弩級戦艦オライオン級を完成させ弩級戦艦すらも旧式化させることとなる。ドイツ海軍は常に後手後手に回っていたと言っていい。
オライオン級
オライオン級は主砲の口径が13.5インチ(34.3cm)と拡大され火力が増大しただけでなく主砲塔を全て中心線上に並べることで両舷に最大効率で火力を発揮させることが出来るようになった。12インチクラスの主砲が中心だった時代に一門あたりの火力を高めたオライオンは脅威の戦艦だったわけである。
さらにオライオン級では主砲塔の背負い式配置を本格的に導入した。これは主砲塔を階段上に配置するもので爆風などの問題を恐れ避けていたもののオライオン級で採用した結果実用上の問題はなく、これ以後の軍艦では主砲塔の背負い式配置は一般的なものとなる。
エジンコート
弩級戦艦としてブラジル売却用に作られたもののいろいろあってイギリス戦艦となったエジンコートは中心線上に7つもの砲塔を装備しているにもかかわらず弩級戦艦とされている。エジンコートとオライオンの違いはその火力であり、エジンコートは主砲の口径が12インチに止まっている。超弩級戦艦を超弩級戦艦たらしめるのはその口径と砲配置両方であると言うわけで、砲塔が中心線上に配置されているというのはあくまで超弩級戦艦における十分条件であるということである。
先ほども言ったように主砲の数が多すぎることは射撃の修正が非常に面倒になるという問題がある。間接射撃が主体になった時代では主砲の数が倍になれば命中率が倍になるという単純な話ではなく、命中率よりも命中速度が重要であるという話は先ほど話した通りで、つまりこのエジンコートにはそういった問題がある。軍艦の火力を高めるための方法は「主砲を増やす」と「口径を拡大する」の二つがあるが、無闇に主砲を増やすことは必ずしも火力の増大にはつながらないということである。
ライオン級
さらにオライオンと並行して超弩級巡洋戦艦ライオン級の建造も行った結果イギリスの戦艦戦力は世界最強の名をほしいままにした。ライオン級も13.5インチ(34.3cm)砲を主砲とし、オライオンの砲塔を一つ撤去してその分機関出力を高め機動力を確保した巡洋戦艦であった。
タイガー
そして「ライオン級よりも日本に売却した金剛の方が性能高くね?」ということが明らかになった結果ライオン級4番艦タイガーは3番砲塔の位置を変更し、最新の技術を常にフィードバックしている。
それぞれの軍艦は簡単に言えばこういった関係にあり、レシャドVはオスマントルコの主力艦として建造したものの緊迫した世界情勢からブリカスが強奪してエリンと改名した船である。イギリス製の戦艦が世界中の戦艦に影響を与えており、またそれら世界中に輸出した戦艦のデータもきちんとフィードバックして自国の戦艦の技術に生かす、こういった努力が世界最強のイギリス海軍を作り上げたと言っていい。
ケーニヒ級
一方のドイツ海軍はというと、第一次大戦ドイツ海軍最強戦艦として建造予定だったバイエルン級は前級ケーニヒ級の改良型であり、ケーニヒ級はカイザー級の改良型である。このようにドイツ海軍は一つ一つのクラスを堅実に改良をしながら少しずつ強化していくという方針で、際立って話題性のある戦艦はないが盤石な戦力整備をしていたと言える。
ドイツ海軍は伝統的に大口径砲よりも小口径高初速の主砲を採用し手数でゴリ押す方針を採用しており、ケーニヒ級も主砲は全て中心線上に配置されているが主砲の口径が12インチ(30.5cm)砲であるがゆえに弩級戦艦にカウントされている。バイエルン級に至ってやっと主砲口径が一気に38cmまで拡大されることとなったが、ドイツ海軍待望の超弩級戦艦バイエルン級はついぞユトランド海戦に間に合わなかった。
バイエルン級
バイエルン級は4隻が建造予定だったがバイエルンとバーデンのみが戦争中に完成し、そして完成した頃にはドイツ海軍は崩壊していた。彼女たちはドイツ海軍最強の戦艦でありながら、見せ場が全くなかったのである。
そしてこの大建艦競争により第一次世界大戦の頃にはドレッドノートは旧式戦艦と成り下がり、最大の海戦ユトランド海戦ではドレッドノートは二線級部隊に回されている。ここまでの歴史を見れば世界の戦艦の歴史、こと近代的な戦艦においては如何にイギリス海軍がその世界の主導権を握っていたかということがお分かりいただけると思う。これが戦艦の近代史の表の部分と言えるだろう。
自沈するバイエルン
一方裏の部分についても触れておきたい。第一次大戦終盤、休戦条約が締結されドイツ海軍主力艦隊はイギリス海軍基地スカパ・フローに回航された。講和条約の成立を待ち、艦隊の処遇が決められるまでイギリス海軍の監視下に置かれたのである。講和条約ではドイツ海軍艦艇の多くは連合国に差し出すことが決定した。これを受けドイツ艦隊ロイター提督は無様に差し出すことよりも名誉ある死を選び、全艦艇に自沈を命じた(乗員は無事)。ドイツ海軍主力艦隊はその身を守る為自ら命を絶った形となり、バイエルン級は何もできず最終的に自沈という形でその命を終えたのである。
歴史の闇に埋もれた悲劇、バイエルン級を我々は忘れてはいけないのである。